Loose side:Haruka
桜舞う春…4月。
「…げ」
うららかで陽気な天気とは裏腹なそんな声で、私の高校二年生の生活が始まった。
昇降口前の掲示板を見上げて、がっくりと肩を落としてしまう。
「担任、名取だ…」
「きゃーっ、担任、名取先生だー」
私の重々しいセリフと正反対の声が上がり、私は思わず自分の隣に目をやる。そこには、一年の時に同じクラスで仲の良かった真帆の歓喜する姿。
「今年こそ名取先生のクラスになりたいと思ってたんだよねー。ラッキー」
そう嬉しそうに続ける真帆の言葉に、これ以上ないほどの深いため息が漏れる。そんな私の様子にやっと気づいたのか、真帆は「あれ」というような顔でこちらを振り返った。
「ハルカは嬉しそうじゃないね。せっかく私と同じクラスなのに」
どこか論点のずれたことを言いながら、真帆は小首を傾げる。
「…いや、真帆と同じクラスなのは嬉しいんだけどさ…」
「そうよね。ハルカがイヤなのは真帆じゃなくて担任だもんね」
ため息まじりに私が言うのと、後ろからの声が重なった。
真帆と同時に振り返ると、そこには同じく1年の時に仲の良かった華江がいた。サラサラのロングの髪をなびかせて、華江は苦笑いしている。
「えーっ、ハルカ、名取先生のこと嫌いなのっ!?」
華江の言葉を受けて、真帆は驚きの声を上げた。それが辺りに響いたため、近くの生徒が何人も振り返る。慌てて「しーっ」と言いながら手で真帆の口を塞ぎ、私は「もぅっ」っと怒り気に肩を上げた。
「声が大きいよ、真帆っ」
私の手の下で、真帆がモゴモゴと苦しそうに口を動かす。
しばらくの間の後に真帆から手を離すと、彼女は「ぷはっ」と大げさな息をもらして顔を上げた。それでも懲りていないのか、「ねぇねぇ、なんでよー」と頬を膨らませて抗議する。
「名取先生、かっこいいじゃーん。なんで嫌いなの?」
真帆が1年の時から名取先生のことを気に入ってるのは知ってる。だから、私は自分が彼のことを苦手だとは言ったことがなかった。
「嫌いなんて言ってないよ。…苦手なだけで」
言い訳がましいことを言って、私は真帆からのそれ以上の追求を避ける。
そう、何が苦手なのかと聞かれると困る。確かに真帆の言うとおり数学の名取先生はかなりカッコイイ部類に入る。まだ25歳だし、女子高生の私たちからは憧れの的になるのもわかる。教師という立場だけれど型破りな感じで、一部では「不良教師」なんていわれてるのも逆に人気の要因になってたりする。
…だけど、何故か私はこの先生が苦手で…
理由なんてわからない、ただの直感だった。
「まぁまぁ、別にいいじゃん。好みじゃないだけだよ」
ごまかすように言うと、真帆は納得いかないと言わんばかりに再び頬を膨らませる。
「えー、やっぱハルカの好みっておかしい!イケメン先生はダメで、クールなヘタレは好きだなんて」
続けた真帆のそんな言葉に、私は「ん?」と眉を寄せた。
「何それ、どういうこと?」
「だってハルカ、タクミ先輩のことは大好きでしょ?」
「ちょっと!『クールなヘタレ』ってタクミ先輩のこと!?ひどい真帆!」
声を上げて抗議する私と、膨れっ面の真帆と。そんな2人を「はいはい」と仲裁したのはやっぱり華江だった。
「それより、早く行かないと始業式もHRも遅れちゃうわよ」
言われて、ハッと我に返って私と真帆はにらみ合いそうだった至近距離からパッと離れる。
「ほんとだ、早く行かなきゃ!」
揃って走り出した私たちの姿が面白かったらしく、「やっぱり仲良いわね」と華江が後ろで笑っていた。
******
「…以上、何か質問のある人」
始業式を終えて、形だけのHR。教壇に立つ名取先生は、確かに真帆の言う「イケメン」に違いなかった。既にクラスの半分くらいの女子は、目がハートになっている気がする。
誰からも手が挙がらないのを確認して、名取先生はHRを締めくくる。だけど、今日から早速指名された日直が号令をかけようとした時に、「あ」と小さく声を上げた。
「そうだ、1年の最後に一応進路希望調査書を出してもらったわけだけど…」
グルリと教室中を見渡したその視線が、何故かピタリと止まる。……私の、前で。
「夏川」
「…は、はい」
一番後ろの席で、私は急に名前を呼ばれてわずかに姿勢を正す。
「この後数学準備室へ来なさい」
なんで私?と思わなくもなかったが、よくよく考えてみれば納得がいった。
(…そう言えば…ほぼ白紙で出したな…私)
高校1年生で進路なんて決められない。そう思って、何も書かないまま出したことを今更思い出した。
面倒くさそうな顔をしただろう。私の表情を見て、名取先生は苦笑いをかみ殺すような顔をした。
仕方ない。HRが改めて終了した後、私は重い腰を上げて椅子から立ち上がった。
******
「で?」
数学準備室に着いて勧められるまま椅子に座った私に、窓枠に腰をかけたその不良教師は第一声にそう言った。
「…『で?』と言われましても…」
無意味なほど丁寧に返して、私は肩をすぼめる。小さくなった私に、名取先生はため息まじりに一枚の紙を見せた。…以前私が提出した、進路希望調査書だ。
「なんで白紙なんだ」
ピラピラとそれを扇いでみせて、名取先生は不思議そうに首を傾げる。だから、思ったままを言ってみた。「決められなかったからです」と。
その言葉を受けて、名取先生は「…ふむ」とわざとらしく真面目ぶって返す。
「なるほどね」
意外な答えが返ってきて、私は俯いていた顔を上げた。
これを書かせた時の去年の担任は、こんなリアクションはしなかったはずだ。進路希望を書け、夢を持て、自分の進む道くらいきちんと見極めろ。聞き飽きたセリフを思い出せば思い出すほど、名取先生の反応は異色だった。
「まぁ、そりゃそうだわなぁ。俺だって高校1年の時なんてなーんも考えてなかったぜ」
急に口調まで崩した名取先生の言葉は、高校生の私と目線を合わせてくれた気がした。急な変りようにわずかに面食らいながらも、コクリと私は勢いで頷いてしまう。
「ま、でもな、夏川。お堅い教師共はバカだからこういうことでしか生徒を把握できねぇんだよ。仕方ないから、付き合ってやってくれよ。もちろん決定じゃなくていいんだ。今少しでも興味のありそうなところを書いてみねぇ?」
…この人が不良教師と呼ばれるのがわかる気がした。言葉使いがまるで教師らしくない。でも、目線を合わせてくれるところは私でも好感が持てた。生徒に人気があるのがわかる気がした。
コクコクと促されるまま頷いて、私は差し出されたその紙を受け取る。ボールペンでそこの紙に文字列を書こうとして、一瞬躊躇した。
「…どした?」
そのためらいがわかったからか、先生はそう声をかけてくる。顔を上げて先生を見つめ返し、私は真面目な面持ちで質問した。
「興味のあること…って言っても、さすがに『お嫁さん』はマズイですよね?」
「……………」
小学生かお前は、という声が聞こえてきそうな顔で、名取先生は私を見下ろす。半ば本気の冗談だったんだけれど…。首を竦めて、私は改めてペンを握った。
「じゃあ先生、代わりと言ってはなんなんですけど…」
呆れて言葉を返す気にもならないのか、何も返答しない先生に私はそう切り出す。苦手なはずのこの先生に対して、ニッコリとできるかぎりの笑みを浮かべてみせた。
「タクミ先輩の、進路教えてください」
ハートがつきそうな語尾で言うと、先生は今度は本格的にため息をもらす。そして何を考えているのか、生徒を前にしたこんな状況で机の引き出しから煙草を取り出した。
「…お前ホントに…」
一本取り出したそれに火をつけながら、不良教師はどこか遠い目をする。
「バカだなぁ」
言葉とは裏腹に、ある意味感心したようにしみじみと言った。生徒にバカだという教師も信じられないけれど、なんだかそれも名取先生らしい気がする。
抗議するようにわざと頬を膨らませると、先生は煙草の煙をフーっと吐き出しながら目線を私に戻した。
「大体、生徒のそういう個人的な情報は教えられるわけねぇだろ」
それはそうだ。だから別に本当に答えてもらえるなんて期待していない。ただ、名取先生はタクミ先輩と仲が良いから聞いてみただけだ。
…そう、そう言えば、どうしてこの2人が仲良しなんだろう?タクミ先輩は部活がない放課後…もしくは部活が終わってから、よくこの数学準備室に入り浸って受験勉強をしていた。真面目…とは少し違うけれど型から外れないタイプのタクミ先輩と、この不良教師では接点が見つからない。
「まぁ、今のお前じゃ入るのは難しい大学だってことだけ教えといてやる」
わざとらしく唇を尖らせていた私に、先生は譲歩したようにそう告げた。
「……先生、タクミ先輩ってやっぱり頭いいの?」
おそるおそる聞くと、先生は煙草を口から離してニヤリと笑ってみせる。
「お前よりはな」
返ってきた答えに、私はまた膨れっ面を返してそれに応じた。
これ以上粘ったって教えてもらえるわけもない。諦めて、私は目の前の紙にペンを走らせる。とりあえず、適当に家から一番近い4年生大学の名前をそこに書いた。
書き終えて椅子から立ち上がり、先生に「はい」と手渡す。受け取ってそれを見た先生は、もう片方の手で煙草を灰皿に押し付けながら「お前、適当だろこれ」と口にした。
「どこでもいいから書けって言ったのは先生ですよ」
すまして答えて、私は踵を返す。二の句を告げない先生の空気を背中に感じながら、私は思わず笑みをこぼした。
あんなに苦手だと思っていたのに、たった数分話をしただけでそんな先入観は全く消え去っていた。不思議な先生だな、と、思う。
「あ、夏川」
帰ろうとした私の足を、先生の呼ぶ声が止めた。
「?」
ゆっくりと振り返った私は、そこにさっきまでと違った少し真面目な表情をした先生を見る。
「一つ、聞きたいことがあるんだけど」
「…? はい」
その少し緊張を持った空気を感じ、私は体ごとそちらを振り返った。少しだけ、居ずまいを正す。
「教師らしくない質問だから、教師じゃなく一個人として聞くけど…」
前置きをして、先生はわずかに言葉を切った。そして、続ける。私をまっすぐに見据えて。
「お前、タクミのこと本気で好きなのか?」と。
本当に先生に聞かれるとは思っていなかった問いだったため、私はわずかに目を見開いた。
だけど…。
「はい」
答える義理はないけれど、なぜかごまかしてはいけない気がした。まっすぐに視線を返して正面きって答え、私は先生を見据える。
「…春日がいても?」
続いた先生の声に、一瞬だけ息を飲んだ。
春日……マナミ先輩。タクミ先輩の、彼女だ。
「……」
答えに詰まった私に、先生は「…どうした?」と重ねて尋ねてくる。
「わからないんです」
正直な今の気持ちを、私ははっきりと告げた。
「私ははじめ、多分タクミ先輩のことが好きというより…タクミ先輩を追いかけてる自分が好きだったんだと思います」
思春期によくあるという、恋に恋するという状況だ。ゆっくりと話し始めた私を、先生は少しだけ目を細めて見つめていた。
「だから、マナミ先輩の迷惑なんて考えずにただタクミ先輩を追いかけてました。それどころか、別れればいいのになんて思ったことだってあります」
「……」
先生は、口を挟まなかった。…どうして私はこんなことをこの人に話しているんだろう?答えはわからなかったけれど、どういうわけか言葉は止まらなかった。
「…でも、タクミ先輩を追いかけてるうちに本当に先輩のことが好きになって…。そうして冷静に先輩を想えるようになってから、先輩の一番近くにいるマナミ先輩のことも見えるようになりました」
タクミ先輩抜きで会ったマナミ先輩は、こちらが「なぜ」と思うくらい優しかった。それはそれまで抱いていた印象すら払拭するほどで…。面食らう私に、彼女は「自分に似ている」と言っていた。
「マナミ先輩を知れば知るほど、私はこの人が嫌いじゃないなと思いました。そうしたら、自然と『別れればいい』とは思えなくなって…」
あのホワイトデーの後、マナミ先輩と一度だけ話をした。彼氏につきまとううっとうしいはずの私の味方を、どうしてしてくれたのかと尋ねたのだ。鈴元くんの暴挙をマナミ先輩はタクミ先輩に話し、そうしてタクミ先輩は私のところへ来てくれた。私は嬉しかったけれど、どうしてマナミ先輩がそこまでしてくれるのかわからなかったから…。
『フェアじゃないことは嫌いなの』
一言だけそう言って、マナミ先輩はニッコリと笑った。その言葉に、あぁ、この人は私をライバルとして戦う気持ちでいてくれてるんだと思った。タクミ先輩の彼女なのはマナミ先輩であって、私なんて相手にする必要はないはずなのに…。
そう気づくと、きっとこの人はどこまでもまっすぐな人なんだろうと思った。
「キレイごとと思われるかもしれませんが、私は今あの2人に別れてほしいとは思っていません。でも、いつかタクミ先輩がこっちを振り向いてくれたら…と思ってしまうのも本当です」
矛盾してますよね、と付け足して少しだけ笑うと、先生は意外にも真面目な顔で首を横に振ってくれた。
そうして、伏せ目がちに長いため息を吐き出す。しかし、そこに呆れなどの負の感情は見受けられなかった。
「…よく、わかった」
先生の私を見る瞳の色が、さっきまでと少し違って見える。私の答えが…彼の望むそれとかけ離れていなかったということだろうか?
「さて、引き止めて悪かったな。そろそろ帰れ」
さっきまでの不良教師の表情に戻り、先生は「しっし」と手で私を促す。自分が質問したくせに、と眉を寄せて、それでも私はどこか憎めないまま再び踵を返した。
「失礼します」と声をかけてドアに手をかけようとした…その時だった。
コンコンと外からノックの音がして、こちらの返事を待たずにドアが開かれる。そこにいた人の姿を見て私は思わず驚きの声を上げた。相手も、わずかに目を見開く。
「…タクミか」
名取先生だけが、普通にその名前を呼んだ。
私がここにいることが意外だったんだろう。先輩は数回私と名取先生を見比べた。そして何かを納得したように頷いてから、「もしかして…」と私に声をかける。
「担任?」
「……はい」
残念そうな声をわざと出すと、名取先生が部屋の奥から「おいおい」とツッコミを入れてきた。不満そうな顔をして、先生はもう一本煙草を取り出す。それに火をつけて一息吸うと、煙を吐き出しながら目を細めてタクミ先輩を見た。
「タクミ、悪いが今日はここ自主勉強で使えねぇぞ。俺もう帰るから」
一瞬だけ目を見開いたタクミ先輩が、「そうですか」と小さく息を吐く。
「珍しいですね、こんなに早く帰るの」
「まぁな。今日うちのカミさん、ちょっと体調壊してんだわ」
続いた先生の言葉にタクミ先輩が何か答えるより早く、私は「えっ」と声を上げてしまっていた。
「先生、結婚してたんですかっ?」
「俺が結婚してたらおかしいのかよ」
相変わらず不満そうな顔をして、先生はそう漏らす。…別にそこまでは言っていないんだけれど…拗ねた先生も面白いので放っておくことにした。
「てわけでタクミ」
先生が、改めてタクミ先輩に呼びかける。呼ばれて顔を上げた先輩は、まっすぐに先生を見つめ返した。
「一個頼みがあるんだけどよ」
ニヤリと笑った先生の表情に、先輩は嫌な予感がしたのか半歩だけ後ずさる。
「お前のバカな後輩が、この前の年度末の実力テストで目も当てられない点数取りやがったんだよ。ちょうど補習分の宿題出したところだから、せっかくだから今から見てやってくれよ」
先生が顎で何かを指し示しながら、先輩にそう言った。その顎の示す先は………、
…私?
実力テストで目も当てられない点数なんて取ってません、とか、補習分の宿題なんて聞いてないとか、言いたいことは色々あったけれどそれは全て飲み込んでしまった。こちらを振り返った先輩の向こう側で、先生が私に向けてウィンクして見せたからだ。
…そういう、ことか。
不名誉なやり方だけれど、先輩と2人っきりになれるチャンスをくれたことは感謝しようかな、と思う。
「じゃあ、図書室でも行く?」
いつも通り読めない無表情で、先輩はそう言いながら私を見た。コクコクと慌てて頷いた私は、「鞄取ってきます!」と急いで廊下へ踊り出る。とりあえず先輩をそこに残して、私は長い廊下を全力で走った。
先生に、感謝しながら。
それでもそんな私は、先生の真意なんてもちろんこの時は知るはずもなかった。