優しい微笑み side:Manami
長い校長の話をうんざりしながらもやりすごし、一年を締めくくる終業式が終わった。これから、学校は春休みに入る。長くもなく短くもない中途半端なそれを終えれば、また学年が一つ上がる。
次は、受験の年だ。避けて通れないその学生の運命に抗おうとは思わないけれど、面倒くさいと感じることは否めない。…やりたいことが、制限されてしまうからだ。
遊びに行くことも、大好きな買い物へ行くことも。だから、この春休みのうちに遊んでおこうと思った。終業式を終えた時点で、気分はもう春休みだ。今日もこの後街まで行って、新しくできたショップへ行く予定。帰りに駅前のカフェに寄って…と、柄にもなく浮かれる足取りでそんな計画をたてる。
「あ、マナミ」
さすがにスキップまではしないけれど、いつもより機嫌の良いのがわかるのだろう。声をかけてきたクラスメイトの瑞穂は、そんな私の様子に苦笑い気味だ。
「今日さ、いつものお店に行かない? 前からマナミが欲しいって言ってたいっつも売り切れのコスメ、新しく入荷したみたいよ」
「え、ホントに?」
瑞穂の言葉に、私はパッと顔を輝かせる。だけど「…あー」とすぐに申し訳ない顔をして、目の前で両手を合わせてみせた。
「ごめん、今日先約があるの」
「えーっ、売り切れちゃうよ?」
「うーん…ごめん…」
謝り倒すように言うと、瑞穂は「仕方ないなぁ」と呟く。
「彼氏との約束もいいけど、たまには私とも遊んでよねー」
膨れっ面で瑞穂はそう続けたけれど、実際に怒ってはいない。「ごめんね」と最後にもう一度謝ってから、私は瑞穂と別れた。
人気のコスメも惜しいけれど、それよりも大事なものだってある。
長い廊下を奥へと進み、私は一番端の教室のドアに手をかけた。もうほとんどの生徒が帰ってしまっている。教室を出ようとしていた生徒とうまくすれ違いながら中へ入っていくと、一番後ろの席から窓の外を見下ろしている一つの影を見つけた。
「…タク……」
教室の前の方から近づきながら、その名を呼びかけようとした私は思わず口をつぐむ。
「……」
椅子に座って窓枠と壁に肩を寄せたタクミは、外を眺めていた。その横顔が、少しだけ笑みを浮かべているのに気づいて、私は足を止める。いつも穏やかな笑顔を浮かべるタクミだけど、今日のそれは少し違っていた。…うまく言えないけれど…いつもより、優しい微笑みに見える。
不意に、何を見ているのだろうと気になった。私が来たことに気づいていないタクミにバレないように、私も窓の外に目をやる。次の瞬間、その彼の視線の先にあるものに気づいて、私は思わず息を飲んだ。
「……」
そこにいたのは、…夏川ハルカちゃん。友達と楽しそうに校門へ向かっているから、帰るところなのだろう。私とタクミより1学年下で、数ヶ月前からタクミを追いかけている女の子だ。
はじめは人の彼氏にちょっかいを出してきてうっとうしいと思ったし、気に入らなかったのも事実だ。だけど彼女自身はまっすぐで明るくて、憎めない性格をしていた。加えて、タクミに「好き」だのなんだのとつきまとっている姿は、数年前の自分と被る。そのせいで懐かしくも愛しくも感じられ、私自身今はあの子が嫌いではなかった。
でも……。
私にだって、譲れないものはある。離したくないものもある。たとえ、そのせいで誰かを傷つけているとしても…。
「タクミ」
窓の外は見なかったフリをして、私は未だこちらに気づかないタクミに呼びかけた。ゆっくりと振り返ったタクミが、私を見ていつもの笑みを浮かべる。さっきまでの優しい微笑みとは、やっぱり違っていた。ただ、穏やかなだけの笑顔だった。
「行くか」
立ち上がって、タクミは鞄を持ち上げる。こちらへ近寄って来てから、私の頭にポン、と軽く手を置いた。いつもの大きくて温かいタクミの手だ。
「……」
なんとなく、足が重い。動けずにいた私を、先に歩き始めていたタクミが不思議そうに振り返る。
「…どうかした?」
尋ねながら、タクミは小首を傾げた。
そんな言葉に、私はハッと我に返る。なんでもないというように首を横に振ってから、それでも私はついていこうとした足をやっぱり止めてしまった。
「ごめん、タクミ」
突然の私の言葉に、タクミはわずかに目を見開いた。さっき瑞穂にしたように、私は目の前で両手を合わせる。そして努めて明るい声を出した。
「さっき瑞穂が教えてくれたんだけど、私がずっと欲しかったコスメが入荷したらしいんだ」
嘘ではない。自分に言い聞かせながら、言葉を継ぐ。
「すぐに行かないとまた売り切れちゃうって言われて…今日行ってきたいんだけど…」
謝る私の言い訳に、タクミはしばらく沈黙した。
嘘だと見透かされただろうか?
タクミとは長い付き合いだけれど、こういう時はやっぱり緊張してしまう。タクミの目は、全てこちらの思惑なんてわかっていそうな気がするからだ。
「そっか」
思わず目をそらした私に、そんな呟きが投げかけられる。
「わかった。行ってらっしゃい」
続けたタクミは、約束を反故にされたことを怒る素振りもなく笑顔でそう言った。
「うん…ごめんね」
もう一度謝った私に、今度は少しだけ声をたてて笑う。
「いいよ。別に俺との買い物はいつでも行けるだろ」
早く行くように手で促されて、私は先に教室のドアへ向かった。そのまま出ようとしたところで、タクミが「愛海」と私の背中に呼びかける。
振り返った私に、タクミは続けた。
「遅くなるんだったら電話して。迎えに行くから」
最近繁華街では女子高生を狙った変質者が多いという噂がある。そのせいで気を使ってくれたんだろう。そう言ったタクミに、私はニコっと笑ってみせた。
「うん、ありがと」
じゃあねと手を振って、私は教室から廊下へ歩み出る。
後ろ手にドアを閉めて、慣れない嘘をついた緊張感から解き放たれて大きなため息をもらした。
「……ごめんね…」
思わず、胸の痛みと共に小さな呟きが漏れる。誰の耳にも届くことのないそれが、空しく自分の中で響く気がした。
約束を反故にしたことにじゃない。
嘘を、ついたことにでもない。
「……別れてあげられなくて、ごめんね…」
タクミに聞こえないように告げて、私はゆっくりとそこを後にした。