名もない花
「cool」本編「Link」後、夏休み中の一真の話です。
友人からの着信音で起こされたのは、まだ朝の7時を回った頃だった。寝ぼけた仕草で手元の携帯電話を手繰り寄せると、そこに浮かび上がる名前は中学時代のクラスメイトのもの。
そういえば昨日、久々にメールをしてみたけれど夜遅くのことだった。その返事を打つタイミングを逸していて、早朝に電話をかけてきたのだろうと思う。
「…なんだよ」
起こされて不機嫌きわまりない声で出たが、相手はそんなことには慣れているのか気にした様子もない。
『つうか「なんだよ」はこっちのセリフだっつーの』
どこか興奮した様子のその友人…瑛人は朝に似つかわしくない高いテンションでそう言う。…まったく、起こされなければ後数時間は寝られたっていうのに…。せっかくの夏休みの朝を台無しにされた気分で、俺は携帯を耳にあてたままカーテンを左右に開いた。まだ7時だというのに既に外は昼間のように明るい。差し込むその日差しに眩しそうに眉を寄せていると、瑛人はまくしたてるように電話の向こうで続けた。
『久々にメール寄越したと思ったら…「もう日本に帰ってきてる」ぅ? そういうことは早く連絡しろって!』
中学卒業と同時にアメリカに発っていた俺は、一年と数ヶ月をあちらで過ごした後単身で日本に戻ってきていた。編入するのに選んだ高校は中学時代の地元からは相当離れた場所にあったので、今では高校近くで一人暮らしをしている。だから中学時代の連中に偶然会うなんてことはなかったし、連絡するのも何もかもが後回しになってしまっていた。
当時一番仲の良かった瑛人にメールするのさえ、やっと昨日の夜になって思いついたくらいだ。
『しかもいきなり「明日会えるか」って…急すぎだろ』
そう文句を言いながらも、瑛人は嫌そうな口調ではなかった。それに笑って応じながら、俺はベッドから立ち上がる。
『ちょうど今日、克義たちと会う約束があるからお前も来いよ、一真』
これまた中学時代のクラスメイトの名前に、俺は「あぁ」と二つ返事で頷いた。懐かしい…とは思うが、恐らく日本にいたとしても高校が離れてしまえばこれくらいたまにしか会わなかっただろうとも思う。
『あぁ、でも…』
「?」
俺が返事をした途端に何かを思い出したかのように、瑛人は何かを渋るような声を出す。少し逡巡した後、「実はさ」と言葉を継いだ。
『今日みんなで集まるのは、ちょっと行くところがあるからで…』
「…? 俺が行ったらまずいのか?」
『いや、そういうわけじゃない。一真さえよければ一緒に行こう』
そう言う瑛人だったけれど、どこへ行くのかは電話の中では明言しなかった。ただ「来れば分かる」と曖昧な言葉だけ残して、時間と待ち合わせ場所の約束を取り付けると早々に電話を切った。
******
「…なるほどね…」
集まった連中に待ち合わせ場所でその後の予定を聞いて、俺は小さくそう呟いた。そこにいたのは俺や瑛人が仲良くしていた連中ばかりで、どいつも1年ちょっとの月日ではあまり変わった様子もない。懐かしいと思うと同時に、それよりもその後訪れる場所を聞いたことでやはりどこか複雑な感情が渦を巻く。
「悪ぃ、一真。言ったら来ないかと思ったから」
「……いや、別にいい」
全員で揃って乗った電車の窓側にもたれた俺に、瑛人は申し訳なさそうにそう謝った。
連中がこれから向かうのは、墓参りだった。
須田先輩という…俺たちの小、中学では有名すぎた先輩の、だ。誰からも好かれていて、誰からもその死を惜しまれた人だった。だからこそ瑛人たち後輩も、今でも彼の命日に墓参りに訪れるんだ。
「俺らは毎年来てたんだけど…さすがに一真は誘えなかった」
正直に、瑛人が嘘のない言葉を口にする。それは、須田先輩のことでずっと苦しんでいる愛海先輩に、俺がずっと片想いをしていたからの配慮だろう。
「だけど…そろそろお前も解放されてもいいんじゃないかって、今日電話しててふと思って」
「……」
そういう瑛人の屈託のない笑顔は、いつもその笑みで誰かの救いになる「あいつ」のそれと似ている気がした。
「一真が日本に帰ってきて編入したっていう高校…確か愛海先輩と同じところだろ?」
「……あぁ」
「どうだった? 会えた?」
「会えたよ」
電車がそれなりに混んでいたせいで、他の連中とは少し離れた場所に乗ったためか、瑛人は遠慮なく尋ねてくる。
「わざわざ家族と離れてでも愛海先輩の近くにいることを選んだってことだろ? でもお前のことだから、きっと愛海先輩に自分の好意を押し付けるなんてことしなかったんだろうな。もう、そろそろ須田先輩への気兼ねとか愛海先輩への想いとか…お前のそういうの全部報われていい頃だと思う」
「……」
そうだろうか。少なくとも俺は、自分の感情を優先させただけで須田先輩に「気兼ね」をしていたわけじゃなかった気がする。
そう口にしたけれど、瑛人は苦笑いを浮かべて続けた。
「お前は結局、他人の思いを優先して自分の感情だけを押し切ったりするタイプじゃねぇよ」
「……どちらにせよ、報われることはねぇな」
「………それはまだ…タクミ先輩が?」
「いや、あの2人はもう別れたけど」
窓にもたれかかったまま、俺はふと外を見やる。駅近くになってきて徐行し始めたその速度の向こう側に、初めて見る景色が広がっていた。
電車を下りると他の連中がまた近くに来たため、瑛人はそれ以上俺とその話を続けるのをやめた。それぞれの高校の話や、俺のアメリカ滞在中の話で盛り上がりながら、墓地までの道を歩く。7月下旬のうだるような暑さの中、途中で墓に供える花も買った。
瑛人は、中学時代からずっと俺の愛海先輩への想いを見てきた。だからこそ「報われてもいい頃だ」と言うんだろう。
だけど多分、俺はもうこの時知っていた。
自分の想いが報われることは、この先ないだろう、と。それは投げやりになったわけでも「諦め」でもない。
ただ、本当に「知っている」だけだ。
「…あれっ?」
墓地に着いた時、誰か一人が不意にそんな声を上げた。そうしてその目線を全員で追った先に、一つの墓の前で佇むスラッとした影を見つける。
「…愛海先輩!?」
連中の誰もが驚いて、何人かの声が重なった。日傘をさして、俺たちの目当てでもあったはずの墓の前にいた彼女は、ゆっくりとこちらを振り返る。
……泣いているかと思った。だけど意外にも、彼女は振り向いてそのまま俺たちに向けてニッコリと笑顔を見せた。
「皆も来たんだ? 私もさっき来たところ」
「そうなんですか! お久しぶりです」
「うん、久しぶりー」
屈託なく笑う彼女の表情は、最近学校で見るものとまた違って見える。こいつらに会ったせいか…それとも彼女の中での意識改革のせいか。その笑顔は、中学時代のそれと被る。
「ただ須田先輩やっぱり人気みたいで、もう花もお菓子も飾るところがあんまりないのよー」
笑って言いながら、彼女は目前の墓を振り返る。確かにそこには、もう既にたくさんの人が訪れたのだろう物が所狭しと並んでいた。
「あ、俺たちやりますよ」
「ありがとう」
自分たちの持ってきた花を掲げて見せながら、誰かがそんな風に言った。それに軽く礼を言って、愛海先輩も自分が手にしていた花を託す。
そうしてあいつらは、もう既に今日どれほど水をかけられたか分からないその墓をそれでも掃除し始めた。持ってきた水をかけ、線香をたく。それを後ろで眺めていた俺の隣に、日傘を持ったまま愛海先輩が並ぶ。
「柴田くんも来てくれたんだ、ありがとう」
「………いえ」
「こんなに皆が来て賑やかにしてくれて、先輩もきっと喜んでるだろうね」
笑う彼女の方を、俺は振り向かなかった。ただ前を凝視して、ああでもないこうでもないと花を飾るのに四苦八苦する連中を眺める。そんな俺に気づいていないのか、彼女はそのまま言葉を継いだ。
「…私、去年まではここにも来られなかった」
独白のようなその言葉は、確実に俺に向けられたものだと分かっているのに。
「でも、今年はやっと来ることができたわ」
どうして、こんなにも胸に空しく響くだけなんだろう。
「ありがとう」と、愛海先輩は最後に続けた。
俺とハルカのおかげだ、と。
でも…それは違う。
きっかけはハルカかもしれない。あいつと一緒に愛海先輩の話を聞いたのは確かに俺かもしれない。それでも、最終的に愛海先輩を前へ進ませたのは、他でもない彼女自身だ。
「愛海先輩ー、これどうしたらいいと思いますー?」
結局うまく飾ることができなかったのか、瑛人が彼女を呼んだ。
「どれどれー?」
楽しそうに笑いながらそちらへ再び向かう彼女は、もうきっと泣かないんだろう。凛とした後ろ姿は見とれるほど眩しくて、俺は思わず目を細めた。
ずっと来ることができなかったここに、今彼女が立っている。直視できずにいた須田先輩の死を乗り越えて、今笑っている。そうして自分の足で立ち上がった彼女に、俺ができたことなんてきっとほとんどない。
…だから、「知ってる」んだ。
彼女の傍に、俺の居場所がこの先もできるはずがないってことを。俺がいなくたって、彼女には何の影響も及ぼさないことを。
何年片想いしただろう。
それでも、年月の長さは関係ない。今すぐに気持ちがなくなるわけでも、諦めるつもりでいるわけでもない。ただ、彼女にとって俺が必要な存在かそうでないか…直感的に感じ取ってしまった。
どうしてだろう。理屈じゃない、頭で考えるよりも胸の方が先にそう予感してしまっているんだ。
「…変な感じだな」
首を捻って呟いた俺のそれは、胸の痛みをごまかしただけだったのかもしれない。
******
まだこの後用事があるという愛海先輩とは駅前で別れ、俺も、これから遊びに行くという連中を見送って家へ帰ることにした。
誰もが俺に気を遣ったのか、それを咎められもしない。ただ夏休み中にまた何回か会う約束をして、笑ってその場で別れた。
陰鬱な気分も、遊びでごまかせるようなものでもなかった。だから、帰った方があいつらにもそれ以上気を遣わせない最善の策だっただろうと思う。
「……」
途中で、気分転換も兼ねて一駅分早く下りた。そこは住宅が多くて騒がしさもない小さめの駅だ。この気分だと人の喧騒は余計にうんざりしそうだったから丁度いい。一駅一駅の区間が広い路線だから歩くと結構あるけれど、今の自分にはそれが逆に好都合のようにも思えた。
「……っと、もうちょ…っ」
住宅街を抜けて自宅マンションへ向かおうとしていた途中で、人気のほとんどない角の向こうからそんな声が聞こえてきた。曲がるとそこにいたのは一人の女で、何やら必死に背伸びをして高い木の枝に張り付いている紙に手を伸ばしている。どうやら手にしていたその紙を風に飛ばされてしまったようだ。150センチちょっとくらいの身長で必死で背伸びしても、「もうちょっと」も何もないだろうと思うんだが…。
「……」
黙ったまま後ろから手を伸ばし、スッとその紙を取ってやる。こんな時に自分の長身が役に立つとは思っていなかった。取ったそれをそのままその女に差し出そうと振り返って、俺は思わず目を瞠る。
向こうも顔を仰向けて俺を見上げ、「あっ」と声を出した。
「か、一真くん!」
「……よぉ」
後ろ姿では分からなかった。正面から見るその女は、同じ学校の生徒だった。
名前は、野崎茜。ハルカたちを除いてほとんど親しい女子のいない俺が、珍しく話をする女だった。同じクラスでもない彼女と転校生の俺がそもそも知り合ったきっかけは、上級生の陰湿ないじめにあっていたこいつを流れで助けたからだ。
「ありがとう。…もう、全然届かないからどうしようかと思ってたところで…」
「お前『もう少し』って言ってなかったか」
「…うっ、聞いてたの? あれはほら…『全然無理』って思うより、『もうちょっと』って言った方が本当に届きそうな気がしたというか…」
「何だそれ」
意味の分からないことを言う野崎に、俺は思わず笑ってしまった。その妙な前向き加減は嫌いじゃない。
「一真くんは? 出かけるところ?」
俺から紙を受け取りながら、野崎はそう言って見上げる。
「…いや、出かけてきたとこ」
答えながら目に入ったその紙は、どうやら部活で使う重要なものらしく家庭科部の名前が入っていた。
そんな重要なものを飛ばすか? そう思って目を細めて野崎を見やると、あいつは「え? な、何?」とビクついたように肩をすぼめる。
「お前ホントにトロいよな、色々と」
「……うっ、そんな正面から本当のこと言わなくても…」
自分でも認めているらしくあまりにも弱気な返答をするので、俺は「ハハハッ」と今度は声をたてて笑ってしまった。
そしてそれから、ふと思う。
「…お前はあれだな、確実に一人じゃ生きていけねぇタイプだよな」
思ったことを正直にそう口にしてしまっていたのはなぜか…。
自分でも分かったのは、同時に頭をよぎったのが愛海先輩の凛とした姿だったってことだけだ。
脳裏に浮かんだ彼女のその姿は、目の前の野崎とは全く正反対だ。
どうしていきなりそんなことを言われたのか理解できていない野崎だったけれど、一瞬目を丸くした後苦笑いを浮かべてみせる。
「うん、それはもう自分でも自信ある」
「自慢げに言うな、自慢げに」
笑いながら言った瞬間、なぜかさっきまでの鬱々とした気分が自分の中から消えているのに気づいた。
それと同時に思わず胸に抱きかけた感情にハッと我に返り、慌ててそれを奥底へと押しこむ。
愛海先輩の隣に俺の居場所がないことを直感的に感じ取ってしまったように…。
この時一瞬だけ理屈もなく感じた想いに、名前をつける日がいつか来るのだろうか。
改めて礼を言い、手を振って去っていく野崎の後ろ姿を見送りながら、俺は漠然とそんなことを考えていた。
どんなに好きでも、「縁がないな」っていうのを漠然と感じ取っちゃう相手っていると思うんですよね。
…でもこれで2人の話が終わるわけではないのですが…。
一真が愛海と茜との間でどういう決断をするかは、今後「cool」の続編を書く時に重要な話になるかなと思います。
「cool」を読んでくださっている人の中にはもちろん茜のことが分からない方もいらっしゃると思います。
もしよろしかったら「bitter」シリーズの「akane」という番外編をご覧ください♪