Link 23 side:Takumi
…痛い。
苦しい。
何度も叫び声を上げそうなほど締め付ける胸を、俺は思わず手で押さえた。そうしたって痛みが和らぐことはないと知っていたが、そうすることでしか耐えられそうになかった。
愛海を、二度と裏切るようなことはしないと自分が誓ったはずなのに…。その後に、長谷川があの子を誘う場面を目撃してしまったせいで胸が軋む。
今までどれくらい、俺には胸を痛める資格すらないと自分を責めてきただろう?今回だって例外ではなかったけれど、そんな考えに全て払拭されるほど自分の心は単純ではないようだった。
「………」
学校から帰ってきて、どれくらいそうしていただろう。制服のまま転がったベッドの上、すぐ傍の窓はすっかり夜の闇しか映し出さない時刻になっていた。
「あ、いたんだ。真っ暗だからいないのかと思った」
不意に部屋のドアが開けられ、そんな声が俺に投げかけられる。寝転んだ態勢のまま目線だけをそちらへ返すと、そこには一つの影が立っていた。俺に断りもなく電気を点け、微かに苦笑いを浮かべている。明るさの灯った照明に照らされた愛海は、そのまま一歩部屋に踏み込んだ。
「鍵くらいかけなさいよ、無用心よ」
肩を竦めながらの言葉に、俺は「ああ」とだけ小さく返す。…そう言えば、鍵すらかけた記憶がない。…というよりも、どうやってここまで帰ってきたかもあまり覚えていなかった。
「ちょっと話したいんだけど…いい?」
遠慮がちに言う口調から、恐らく明るい話ではないだろうということが想像できる。けれど愛海の表情はどこか晴れやかで…何かを吹っ切ったように笑っていた。
「いいよ」
短く答えて、俺はベッドの上に上体を起こした。足を外へ出して腰かけるだけの態勢に移し、愛海がいつもそうするように隣を勧めてやる。だけど今日の愛海は、わずかに首を横に振ったまま「ここでいい」と部屋の入口に立ったまま俺を見下ろした。
「今日ね、ハルカちゃんと柴田くんにうちに来てもらったの」
急にそう話を切り出した愛海に、俺はわずかに目を見開く。だけどそれくらいで動揺するわけにもいかなくて、「そう」と努めて無表情に戻した。
「うん、それでね。…全部、聞いてもらった。私の家のことも……」
一度言葉を切った愛海が、少しだけ目を伏せる。
「須田先輩のことも」
少しだけ俯いた愛海は、それでもここ数年一度も口にしなかったその名前をはっきりと告げた。
「……」
「全部話せて、すっきりしたわ。それに…ハルカちゃんに救われた。あの子の一言ってすごいのね」
笑って言う愛海は確かに、須田先輩が亡くなる前に見せていた明るい笑顔をしていた。彼がいなくなってからは…愛海は、笑っていてもどこか陰が差していた気がするから…。
「たった一言の重みが、なんだか嬉しかった」
何を言われたのかまでは言わなかったけれど、愛海がどれほど救われたのかは理解できた。
「…そう」
小さく呟いて返すことしかできない俺に、愛海は笑顔のままコクリと大きく頷く。
「准一が、好きになるのが分かる気がした」
続けて、愛海は長い自分の黒髪を少しだけかき上げた。その動作を見るとはなしに目に映しながら、俺は愛海が4年前までと同じ呼び方で自分を呼ぶのを聞く。
「……だから、ね」
顔を上げて、今度は愛海は俺から目を逸らさなかった。まっすぐに見据えて、それでも口元には微かに笑みを浮かべたまま…。真正面から、俺に告げる。
「別れましょう」
……そんな、一言を。
「………」
今日学校の屋上で、愛海とああいった話をした時から…。いつかはこんな日がくると思っていたのかもしれない。俺は意外と冷静に、その言葉を聞いた。
小さく細くため息を吐き出すと、俺はベッドに座った態勢のまま足を組む。そしてまっすぐに愛海を見つめ返すと、「…俺は…」と口を開いた。
「別れないよ」
それは、もう決めていた答えだったから…。愛海があの子への俺の想いに遠慮しているなら、呑むことのできない提案だった。
返ってきた答えが意外だったのか、愛海が大きく目を瞠る。零れ落ちそうな瞳で俺を見つめ、その真意を確かめるように探るような眼差しを送ってきた。
「約束が、果たされてないままだから」
短く答える俺の言葉に、愛海はただ耳を傾ける。
…そう、まだ何も解決していないのに。
あの子と柴田に自分の過去を話せた…それだけでも、愛海は一歩を踏み出せたかもしれない。それでも…何も傷がすぐに癒えるわけじゃない。親に捨てられて先輩を失って…そんな傷、すぐに癒えるわけがない。
ついこの前だって、柴田に会ったせいで中学時代の過去がフラッシュバックしてパニックを起こしたばかりなのに…。そんな状態の愛海と、別れられるわけがなかった。
愛海の傷が癒えて…愛海自身が「もういい」と言うまで、俺は傍にいる約束だったんだから。
「……准一…」
小さく俺を呼ぶ声は、どこか切なさを秘めたような響き方をした。何かを噛み締めるように…愛海は笑顔を消して眉を寄せる。
「私…あなたに一つだけ言ってないことがあるの」
「…………?」
首を傾げて、俺は立ったままの愛海を見上げた。艶やかな黒髪を揺らして、愛海はゆっくりと話し始めた。
愛海が隠していたという…最後の「真実」を。
******
「先輩が亡くなったのは悲しいし、あの時の光景は思い出したくない。母親に捨てられたことも傷ついたし、振り払われた手を思い出すと今でも胸が痛むわ。でも……本当は、思い出したくなかったそんな過去も…徐々に受け入れられるようになってきてた気がするの」
4年も経ったからね、と、愛海は微かに笑って見せた。それでもその笑顔からは無理をしていることは明らかだし、俺からしたら「まだ4年」だ。
「…でも…この前、柴田に会った時に昔を思い出して悲鳴を上げたくらいだろ」
そう指摘すると、愛海は今度は少しだけ苦笑を浮かべる。「そうね」と俺の言葉を肯定してから、小さく首を振った。
「でもね、違うの。あの時は確かに、瞬間的に色んなことを思い出したわ…。だけどそれも、全く傷が癒えていないからじゃなくて…いるはずがないと思ってた柴田くんに不意に会ってしまったからだわ」
柴田が悪いわけじゃない。それでも、不意打ちで当時の人間に会えば心が乱れてしまった。会う覚悟があって会えば、結果はまた違ったのかもしれないけれど…。そう続けて、愛海は少しだけ目を伏せた。
「先輩がもういないってこと…悲しいことに変わりはないけれど、その事実から目を逸らすほど私はもう弱くない。そうなれたのは…他でもない、准一のおかげよ」
「……」
「多分…今なら、一人でも大丈夫。私には力になってくれる友達だって、あんなにいい後輩だっている。彼女じゃなくなったって、准一は変わらず幼馴染でいてくれるはず。…そうでしょ?」
愛海の問いに、俺は答えなかった。
「……」
黙したまま、わずかに視線を愛海から逸らす。
「だから…准一は十分、あの時の私との約束を果たしてくれたのよ」
悲しい微笑みを浮かべて、愛海ははっきりとそう口にした。
だから、もう自分から解放されていいんだと言うように。
でも…。
「それなのにどうして、今まで私があなたと別れなかったか分かる?」
俺がちょうど疑問に思ったことがわかったのか、タイミング良く愛海が俺にそう尋ねた。…恐らくその答えが、愛海が俺に隠していたという「最後の事実」なのだろう。
小さく首を横に振ると、愛海はフッと再び笑って見せた。
「段々と自分の過去を受け入れることができてきても…別れられなかった。一番近くにいて守ってくれるその手を、失いたくなかったから」
「……愛海?」
名前を呼ぶと、愛海はもう一度まっすぐに顔を上げる。俺を正面から見つめて、少し深く息を吸った。
「…准一、私ね」
最後の言葉を紡ぎ始めた愛海から、俺ももう目を逸らしてはいけない気がした。
「あなたのことが、好きなの」
それが、愛海が最後まで秘めていた「真実」。決してそれは俺が思っていたような「家族愛」のようなものではなかった。
それを口にして笑った愛海は…さっきまでとは違い、最初ここへ来た時のような晴れやかな笑顔に戻っていた。
「…………」
意外な一言に、俺は思わず瞠目した。瞬きすら忘れて、言われた言葉の意味を噛み砕こうと頭をフル稼働させる。
「…だから、ね」
俺が今の状況を理解しきる前に、愛海は先に言葉を継いだ。
「もう可哀想な過去から守ってあげなきゃいけない対象じゃないの。ただ、私があなたと離れたくなかっただけなの」
愛海の唇が、わずかに持ち上がって笑顔を見せる。
「守る対象じゃなくて…一人の女として見た時、准一はさっきと同じ言葉を私に言える?」
「………」
俺は、返すべき言葉がすぐに見つからなかった。そんな俺に…愛海は、決定的な質問を投げかける。
愛海自身…答えなんてわかっているという風に。
「一人の女としてハルカちゃんと比べた時、それでも准一は『別れない』って私に言える?」




