Link 17 side:Takumi
七夕祭りの翌日は、梅雨明けしていないのが嘘のように快晴だった。
風がなくなればじっとりと汗ばむほどの湿気。本格的な夏の到来を感じつつ、その暑さに嫌気がさす。…いや、何よりうんざりなのは、そんな気候のせいじゃなく自分自身に…だ。
「……何を言ってんだ、俺は…」
誰もいない校舎の屋上で、俺は手すりに寄りかかって独白のように呟いた。思い出すのは昨夜の七夕祭りでのこと。無意識のうち…というと語弊があるけれど、自分でも意図せずにあの子にとんでもないことを言いかけた。彼女に遮られなかったら、どうなっていただろう。抑え切れないままに…告白、してしまっていたかもしれなかった。
他に好きになりそうな人がいる…と、あの子が口にした瞬間。俺はやっと我に返って、それと同時に後悔した。自分の想いを口にしてしまいそうになったことに…じゃない。…ただ、自分のしようとしたことが愛海への裏切りだと自覚したからだった。
「……」
ため息が、漏れる。我に返って後悔した後、俺はあの子の言葉に少なからずショックを受けたけれど…。それでもどこか、ホッとした部分が大きかった。結果的に、愛海を裏切らずに済んだ…と。だからこそ、その後会った梶の言葉に驚いてしまったんだった。
「なぁに、話って」
屋上のドアがギィっと開いたかと思うと、入口からそんな声が聞こえてきた。振り返ると、そこには小さく小首を傾げた愛海の姿。 長い黒髪をなびかせて近寄って来る愛海は、何食わぬ顔でいつも通りの様子だった。
「話なら別にこんなところに呼び出さなくてもいいのに」
「……誰にも聞かれたくなかったから」
「変なタクミ。電話かメールでいいじゃない」
苦笑いを浮かべる愛海に、俺は口に出しては反論しない。その電話に昨日出なかったのは誰だ、という抗議は飲み込んでおいた。
「で、何?」
ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた愛海は、俺の隣で同じように手すりにもたれかかる。少し首を傾げてこちらを覗きこんでくる愛海の表情は、後ろめたいことなんて何もないかのようだった。それが、演技なのか…素なのか。情けないことに、俺には計り知れない。
「…何で嘘ついたの」
俺の表情から張り詰めた空気を読み取ったのか、愛海は少しだけ浮かべていた笑みを消す。真剣な表情になりながら…「嘘?」と俺の言葉を復唱した。
「昨日。向井くんと一緒だって言ってたのに、実際は柴田と一緒だったんだろ」
そう続けた途端、愛海の動きがピタリと止まる。それでもやはり悪びれる様子もなく…ただ、口元だけを上げて俺を見つめ返した。
「そうだけど…何で知ってるの?」
「梶に会った。愛海と柴田が一緒にいるのを見かけたって言ってたから」
「……あいつぅ…」
梶に目撃されていることは本当に気づいていなかったらしい。少しだけ目を見開いた後、愛海はそう言って恨めしそうに呟く。
どこか冗談めかして笑い話にでもしたかったのかもしれないけれど、俺はそうじゃなかった。ただまっすぐに愛海を見据えると、向こうも観念したのか首を竦めてみせる。
「だって、柴田くんと2人だって言ったらタクミ絶対あのまま解散にしなかったでしょ?」
「……」
当たり前だ、と怒鳴りたいところを、俺は何とか押しとどめた。2週間ほど前に…あんなことがあったばかりなのに…。愛海を狂わせる『過去』を思い出すのに十分な人間と、一緒にいさせるわけがない。
そんなこちらの思惑も全て読み取ったのか、愛海は小さく息を吐いた。「あのね、タクミ」と吐息まじりに呼びかけてくる。
「柴田くんは、何にも悪くないでしょ?私はただ謝りたかったの。彼に」
「だから七夕祭りも一緒に回ろうなんて言い出したわけ?」
「…そうよ」
「だったら何で俺とあの子を2人で帰したりした?」
「だから、それは言ったでしょ!?ハルカちゃんが心配だったからよ!」
俺の追及にイラついたのか、愛海が声を荒げる。いつもはここで愛海を宥める方に回る俺だけれど…この時は、こちらも引く気はなかった。正面から対峙するように向い、手すりを握る手に力をこめる。
「…愛海が今何を考えてるのか、俺にはさっぱりわからない」
目を逸らさないまま言うと、愛海もグッと顔を上げた。睨むように見据える目が、面倒くさそうに光る。
「言った通りよ。私は柴田くんに謝りたかったし、ハルカちゃんは心配だから早く帰してあげたかった…ただそれだけ」
「……」
「変な連中に絡まれたとしたって、私たちが全員でついてるよりもタクミが一人いれば十分。そうでしょ?あんた強いんだから」
「…………」
愛海の言葉に、確かに間違いはない。だけど……。
「もういいでしょ」
納得できずに尚も言葉を次ごうとした俺だったけれど、愛海のそんな言葉に遮られた。片手を振ってそれ以上の追求を拒む素振りをして…愛海は吐息を漏らす。
「誰も損してないんだから、別にいいでしょ」
「……何?」
眉を寄せて聞き返した俺に、愛海は再び肩を上げた。怒りなのか、何なのか…今愛海を取り巻く感情が、俺には読み取れない。
「タクミだってハルカちゃんだって、2人っきりになれて嬉しかったでしょ?だったら結果オーライじゃない!感謝してほしいくらいよ!どうして私が怒られなきゃいけないの!?」
吐き捨てるように叫んだ愛海の言葉に、俺は頭の中で何かが弾け飛ぶような感覚に襲われた。自分でも無意識のうちにガンっと手すりを力いっぱい叩きつけると、愛海がビクリと一瞬だけ肩を震わせる。
「…愛海」
静かに…だけど低く呼びかけると、愛海は睨むように視線だけをこちらへ返してみせた。
「…悪かったと、思ってる」
俺が小さく言うと、愛海は少しだけ眉を寄せる。イラつきを抑えようと深呼吸した俺の言葉の続きを、小首を傾げてただ待っていた。
「バレてるから嘘はつかないけど…俺は、確かにあの子のことが気になってた」
「……」
俺の言葉を受けて、愛海が小さく唇を噛む。本当は「気になってた」程度の想いじゃなかったけれど…そう言う以外に術がなかった。
「だけど…あの子のことはもういいんだ。今まで通り、俺はあの時の愛海との約束を守りたいと思ってる」
勝手な言い分でしかないけれど、そうとしか俺は伝えられない。愛海もそう思ったのか、俺を睨み据える目には段々と涙が浮かんできていた。
「だから、愛海にも今まで通りにしてほしい。あの日の自分の言葉に、責任を持ってくれ」
言いながら、俺は4年前のあの日の…愛海の悲鳴に似た叫びを思い出す。俺の腕で泣き崩れながら…叫んだ言葉を。
『准一だけはずっと私の傍にいて!私のことだけ想ってて!勝手にどこにも行かないで!』
…同じことを思い出したんだろう。愛海の瞳から、とうとう雫が頬を伝って落ちた。
「愛海が望む限り、俺は傍にいるから」
手を伸ばして、長い髪に触れる。幼い頃から、愛海が泣いた時はそうしてきたように…。ただ、違うのは今日の涙は俺が流させているということだけだ。
「それと…もう一つだけ」
梳くようにして髪を撫でながら言うと、愛海が少しだけ顔を上げた。この時にはもう、互いに瞳から怒りの色は消えていた。
「あの子は…もう俺のことなんて好きじゃないよ」
「………え?」
ここでようやく、愛海が俺の言葉に対して声を返した。唇を少し開いて、目を瞠る。
信じられない、とでも言うような表情だった。
「昨日、言われたんだ。気になる人がいるらしい」
「……う、そ……」
「嘘じゃないよ」
驚いたのか、何なのか…愛海はそう言ったきり、口をつぐんでしまった。…そう、彼女にそう言われたのは嘘ではなかった。
そのあの子の言葉が真実なのか、否か…。
そんなことは、俺にとってはどうでも良かった。
彼女に本当に好きな奴ができたのか、それとも嘘だったのか。問題は、そこじゃない。
それが嘘だったとしても、そんな嘘を彼女に吐かせたという事実が問題なんだ。どちらにせよ、彼女が俺に見切りをつけたというのがたった一つの真実だった。
「タクミは、それでいいの…!?」
俺の腕を両手で掴みながら、愛海が再び声を荒げた。だけどそれはさっきまでの怒りではなく…どこか焦ったような、必死な声だった。どうして愛海がこんな顔をするのか…。その意外なリアクションに、俺は少なからず面食らってしまう。
「絶対、そんなの嘘よ!ハルカちゃんが他の人を好きになるなんて、絶対ない!」
「……愛海…」
「いいの!?タクミはそれでもいいの!?」
「愛海!」
縋りつくように俺の腕を掴んで力いっぱい抗議してくる愛海を、俺は止めるように大声で名前を呼んだ。ビクリと動きを止めた愛海が、俺を掴む手を少しだけ緩める。
「さっき言っただろ。自分の言葉に責任を持てって」
愛海の手からゆっくりと腕を引き抜きながら、俺は静かにそう続けた。自分でも、自嘲の笑みがこぼれそうだ。昨日愛海を裏切りそうになった俺が…偉そうに言えることじゃないはずなのに。本当に自分の言葉に責任を持たなきゃいけないのは、俺の方なはずなのに。
「愛海が俺に傍にいろって言うなら、そうする。だけどそれなら、俺とあの子のことなんて考えなくていい」
「…タクミ…」
これ以上話したところで、きっとお互い平行線だろう。俺が自分の想いに蓋をしてでも愛海の望むままにしてやりたいと思うのは本当だし、愛海が俺に傍にいてほしいと思いながらもあの子の気持ちを犠牲にしきれないのも本当だからだ。
そうやって、人はいくつ矛盾した想いを抱えて生きていくんだろう。
……今も、あの時も…。
踵を返して、俺は先に屋上を出ようとした。取り残された愛海が、自分の中で沸き起こる葛藤と戦っているのだろうということは安易に想像できた。…だから…最後に、一つだけ。愛海が間違って抱いている想いを、打ち消す言葉を口にした。
「愛海」
静かに呼びかけると、後ろで愛海がゆっくりと顔を上げる。
「あの子と、愛海は違う」
肩越しに振り向いただけなので、愛海の表情までは読み取れなかった。ただ、俺の言葉にどこかハッとしたように息を飲んだのはわかった。
「愛海が過去の自分とあの子を重ねて見てることはわかってる。だけど…あの子は愛海じゃない」
「………」
愛海は、答えなかった。だから俺は、そのまま青空の広がる屋上を後にした。
扉は重い音を立てて開く。明るいところから暗いところへ…目が順応しきれずに小さく眩暈を感じた。それが今の自分の頭痛と相まって、俺はわずかに眉を寄せる。
「…だから、言ったんだ」
扉が閉まり、そんな暗い空間に目がようやく慣れてきた頃…。そのまま階段を下り始めようとした俺に、後ろからそんな低い声がかかった。
驚いて振り返ると、そこには黒い一つの影。随分前から扉の隣に立っていたらしいその姿に、俺は入ってきた時全く気づかなかった。
「あんたは偽善者だって」
続く言葉を吐くように告げながら、そこに立っていた柴田一真は一歩だけ俺に歩み寄った。秀麗なその顔立ちに刻まれたのは、あざ笑うような歪んだ笑み。中学時代から俺にだけ向けられる、彼の特別な表情だった。
「結果なんてわかってた。恋愛感情のない偽りの恋人ごっこなんて、ずっと続くわけがない」
「………」
「だったら最初から、愛海先輩を甘やかさなければ良かったんだ。嘘でもいいから恋人でいてくれなんて提案…呑んだあんたは偽善者以外の何者でもない」
俺をまっすぐに断罪する瞳。逃げるわけでもなかったけれど、俺はすぐにその視線から目を逸らした。…今柴田に何を言われても、反論する意味も理由もなかったからだ。身を翻してそのまま階段を下り始めた俺は、振り返ることもなくそこを後にした。
後ろで柴田が何かを続けたそうに口を開くのが空気で読み取れたけれど、俺は意図して自分の意識を深くに沈めてしまった。