Link 9 side:Takumi
「ホントに、うちじゃなくていいのか?」
あのまま気を失ってしまった愛海を抱きかかえ、俺は名取先生に車で家まで送ってもらった。家の門の前に着いたところで、名取先生はそう尋ねてくる。
「大丈夫です、すみません」
涙を流したまま疲れたように眠る愛海を車から降ろしながら、俺はそう応じた。
先生の家に連れて行って、つわり中の姉に迷惑をかけるわけにもいかない。何より、愛海自身が目を覚ました時に気を遣うだろう。
軽く頷いて納得してくれた先生は、足に使ったことに気分を害した様子もなく再び車に乗り込んだ。窓越しにお礼を言って、俺はただその車が走り去るのを後ろから見送る。
車が見えなくなったところで、門を開けて玄関のドアへ向かった。気を失っているとはいえ、俺の首に巻きついた愛海の腕は無意識に力がこめられているようだった。ちょっとやそっとでは離れそうにないそれに、鍵を出すのさえ苦労する。
「……」
何とか鍵を開けて中に入った俺は、そのまま二階の自分の部屋へ愛海を連れて行った。起こさないようにそっとベッドに横たえると、やはり腕だけ離すのが大変で…。ぎゅっとしがみついた腕をゆっくりとほどかせて、ベッドのすぐ傍に座り込んで俺は大きく息を吐く。
ベッドのフレームを背もたれにして、少しだけ顔をあお向けた。長く細い息が、ため息のように漏れる。
狂ったような愛海の悲鳴と共に思い出されるのは、茫然と立ち尽くした柴田の顔。そして、心配そうにそれを見守るしかなかったあの子の表情だった。
…こうなることがわかっていた。
だから、柴田と愛海を会わせたくはなかった。彼に何の罪もなくても…愛海を狂わせるには十分な存在だったから。
「……」
何度目かの息を吐き出した頃、不意にベッドの上で愛海が身じろぎした。ゆっくりと覚醒したらしく、薄く…徐々にその瞼が開いていく。丁寧にマスカラが塗られたその目は、やがて俺の方を向いた。
「…准一…」
もちろん、さっきまでのことを忘れたわけじゃない。俺を呼ぶ声は少し掠れ気味で、瞳はどこか潤んでいた。
どれくらいぶりだろう。
愛海が、俺のことを下の名前で呼ぶのは…。どこか懐かしさすら感じたけれど、それは浸れるようなものでもなくて…。ただ、互いに昔負った傷を思い知らされるだけだった。
「……」
愛海の眼差しはまだどこか虚ろで、覚醒しきっているようではなかった。頭をそっと撫でてやると、少し不安そうにこちらを見やる。その表情に少しだけ微笑んで、俺は安心させるために小さく呟いた。
「…大丈夫、ここにいるから」
さっきの学校でと同じ言葉を告げると、愛海はどこかホッとしたのか再びゆっくりと瞳を閉じていった。
それから再び眠りについて、数時間。俺は何をする気にもなれず、ただ言葉通りそこに座っていた。
時折うなされるように小さく声を上げる愛海の手を握りながら。
階下で音がしたのは、20時を回った頃だった。
電気も点けずに真っ暗なままだった家の中に、パチッとスイッチの音と共に明るさが灯る。愛海を起こさないようにそっと部屋を出てから、俺はそのまま階段を下りた。
「おかえり」
玄関で靴を脱いでいた父親に、そう声をかける。
「ただいま。…愛海ちゃん来てるのか?」
そこにある愛海の靴を見て、父はそう尋ねてきた。愛海がうちに来ることはさして珍しいことでもないので、気にしている風ではない。だけど小さく頷いて応じた俺の様子に今日の異変を読み取ったのか、父は少しだけ眉を上げて俺を見つめ返した。
父は40代後半の、典型的なサラリーマンだ。昔から子煩悩で、俺と姉はかなりかわいがられて育ったと思う。かと言って甘やかすだけではなく、怒る時はこちらが萎縮するほど厳しい。厳格さと優しさを兼ね備えた、一般的には理想の父親像だと息子からしても思う。
だから、すぐに俺の様子に気づくのも早い。
元より隠し事をするつもりもなかったけれど…。
「…今日、またちょっと……。今は上で寝てる」
「…そうか」
その一言で全てを理解してくれたらしく小さく頷き返した父は、そのまま一階の一番奥にある自室へ向かった。それにまるで子どものようだと自分でも思いながら…後をついていって話を続ける。
「それで…夕飯の用意もできてないんだけど…」
「あぁ、いいよ。今日は俺が作る。食べやすいものにしておくから、愛海ちゃんが起きたら食べさせてあげなさい」
ネクタイを外しながら、父は脱いだ上着は俺の方へ投げて寄越す。それを俺がハンガーにかけていると、確認のために口を開いた。
「愛海ちゃんの家には連絡したのか?」
問われて、軽く頷き返す。それを見てから、父は「…そうか」とだけ呟くと、着替えを終えてリビングとキッチンのある方へと向かった。
その際に、自分の部屋である和室を抜ける前に…父はふと部屋の隅にある仏壇を振り返る。ここ数年かわらずに飾られた懐かしい笑顔の前で、両手を合わせた。日課であるそれを終えて、父は小さく言う。
「佳奈の命日ももうすぐだ。…愛海ちゃんも辛くなる時期だもんな」
「………」
その呟きに特に言葉は返さずに、俺は黙然とそこにある母の遺影を眺めた。
そんな俺の脇をすり抜けて、父はリビングへ向かう。後ろ姿を目で追ってから、俺はその部屋の電気を静かに消した。
******
シャッと勢いよく開けられたカーテンの音と共に、朝の眩しい光が瞼越しにさえ伝わってきた。ベッドの傍に布団を敷いて眠っていた俺は、その眩しさに思わず顔を顰める。
「おはよー、タクミ」
ベッドの傍らからカーテンを開けた態勢のまま、そう声をかけてきたのは愛海だった。すっかりいつも通りに戻ったような表情の彼女は、俺を呼ぶ名前も普段通りだった。
「昨日はごめんね。すっかり寝ちゃったわ」
肩を竦めて言いながら、愛海はこちらへ近寄ってくる。精神的にも疲れて…更に泣き疲れてよく眠ったせいか、今は少し晴れ晴れとした表情だった。…恐らく…目を覚ましてから、本人なりに気持ちの整理もつけたところだろう。いつも通りに俺に接しようと努力しているのがよくわかる。
「でも欲を言うとさぁ、スカートがグシャグシャなんですけど…。制服のまま寝させないでよねー」
「…よく言うよ。そう思って前の時、着替えさせたら散々怒ったくせに。『変態!』って」
「……そうだっけ?」
「そうだよ」
とぼけたように首を傾げる愛海に、俺は苦笑い気味に応じる。いつも通りのテンションの会話をして、いつも通りの表情を作る。お互いのそんな白々しい努力も、気づいているはずなのに…そうするしかなかった。
階下に下りると、父はもう仕事に行った後だった。2人分の朝食も用意しておいてくれているらしく、ダイニングのテーブルには小奇麗に皿が並んでいる。
「相変わらずおいしそうねー、タクミ父のご飯」
目を輝かせて言う愛海を、コーヒーを沸かす間にと浴室の方へ追いやった。シャワーを浴びさせて、その間に父の用意した朝食を皿に盛り付ける。
今日、土曜日が学校が休みの日で助かった。愛海も今は元気になった風を装っているけれど、きっとまだ精神的に本調子じゃない。思い出した傷というのは、時に当時よりも癒すのに時間がかかるものだ。
俺はというと、どうしてもまだあの子と平然と顔を合わせる自信もなかった。自分の中でああするしかなかったとは言え、あの子の目の前で愛海を抱きしめたのは事実だからだ。見られたくなかったという身勝手な思いと、一瞬見えた少し傷ついた顔をした彼女の表情が思い出される。
…だから、正直今日が休みでホッと安堵の息さえ漏れる。
「シャワーありがとう」
手早く終わらせたらしい愛海が、着替えも終わらせてダイニングへ戻ってきた。幼馴染なので幼い頃からよく泊まりに来ていた愛海は、俺の部屋に私服も何着か置いて行っている。それを身にまとってすっかり身支度を整えてから、テーブルに着いた。
「『愛海ちゃん、朝ご飯くらいはちゃんと食べなさい。…父より』だって」
テーブルに残されていた父親からの手紙を声に出して読み、愛海は嬉しそうに笑う。目の前の食事と手紙に「いただきます」と手を合わせてから、サラダにフォークを伸ばした。
「おじさんに悪いことしちゃった。お礼も言えないままで…」
「別に気にしてないよ。いつものことだろ」
ハムとレタスが挟まったベーグルサンドを口にしながら、俺は小さくそう応じる。
愛海が来た時には大体父親は「ベーグル」だの「サンドイッチ」だのを用意する。女子高生受けすると思い込んでいるらしい。……とんでもない偏見だけれど。
「それもそっか」と俺の言葉に軽く答えて、愛海は肩を竦めた。それからしばらく沈黙して、ただ黙々と目の前の料理を口へ運ぶ。この言葉が途切れた時の少し重みのある空気が…今の俺たちの本当の空気だった。…少しでも気を緩めると…互いに物思いに耽ってしまう状態だ。
「………ねぇ」
長い長い沈黙の後、やがて愛海がコーヒーに口をつけながら言葉を継ぐ。小さな呼びかけはどこか真剣味を帯びていたので、俺は不意に顔を上げた。目の前の愛海は、ゆっくりとマグカップをテーブルに戻す。それから、俺の方は見ないまま呟くように続けた。
「…柴田くんに、ひどいことしちゃった」
昨日のことは、はっきりと覚えているらしい。続いたそんな言葉に、俺はただ耳を傾けた。
「いくらなんでも…化け物見たかのように叫ばれたら傷つくよね…」
「………」
返すべき言葉も見つからず、黙って愛海を見つめ返す。少し伏せ目がちの愛海は、マグカップを手のひらで包むようにしながら小さく息を吐いた。
「…タクミはさ、知ってたの? 柴田くんが、うちの学校に転入してきてたこと」
「………うん」
静かに…だけどはっきりと肯定すると、愛海はようやく顔を上げる。
「…知ってて…私を守ろうとしてくれてたんだ」
少し口元を緩めた微笑は、どこか切なさを感じるものだった。笑っているはずなのに…ただ悲しさしか感じ取れない表情。
…そして、静かに続ける。
「ありがとう、タクミ」
愛海がそんな言葉を口にしてから、2人の間には再び沈黙が訪れた。