Loose 12 side:Haruka
……沈黙が、ただ痛かった。駅へ向かう途中も、電車に乗ってからも…先輩は一言も口を開かなかった。そんな後ろ姿を見つめる勇気すらないまま、顔を伏せて私は1歩後ろを歩いて行く。
言うべきことも言いたいことも見つからず、ただこの空気に耐えるしかない。その間、頭の中を巡り巡るのは理沙さんと先生に言われた言葉ばかりだった。
『迷惑』は先輩の本心じゃない…?先輩が私に惹かれてる……?
そんなことあるはずがない、と思いながらも、「もしそうなら」と淡い期待を抱いてしまいそうで…。葛藤する思惑に、頭を振って吐息を漏らした。
私の自宅の最寄り駅で電車を降りて、ホームへ流れる人の波に乗る。そうして階段付近までたどり着いた時に、私はついにこの空気に耐えかねて先輩の前に躍り出た。思い切って、精一杯の勇気を振り絞って…。
「あのっ、もうここで大丈夫です。まだ暗くないし…」
顔を見ることはできなくて、少しだけ目線を逸らしがちにそう口にする。
家まで送ってもらうのも図々しい気がしたし、何よりこれは理沙さんの作戦なだけだ。送ってもらわなくてはいけないほど外が暗いわけでもないし、何か事情があるわけでもない。
立ち止まった私たちの脇をすり抜け、ホームからほとんど人がいなくなる。決して田舎なわけではないけれど、次の電車が来るのは10分後だ。刹那の間静まり返ったそこで、私は「それじゃ」と言いかけた。
だけど、その瞬間…。
「……ごめん」
言いかけた私の言葉よりも早く、先輩がそんな呟きを漏らす。少し伏せ目がちな彼の顔を見上げて、私は「え」と目を見開いた。
「…姉が、余計なことして」
続けた先輩は、何かの痛みに耐えるような…少しだけ、苦しそうな表情をしていた。…まるで、最後に話したあの日の夜のように…。
「…謝らないで」
気づくと、無意識のうちに私は震える声でそう口にしていた。今度は逆に、先輩が目をみはる。怜悧な瞳が今日初めて私をまっすぐ見据えてくれた気がした。
「どんな理由にせよ…先輩のその言葉、もう聞きたくないんです」
『ごめん』なんて…。忘れたいのに、あの日の痛みが熱を持って蘇ってきそうだった。
「……」
何かを言おうとした先輩は、それがまた謝罪の言葉だったのか、苦い顔をして飲み込んだ。
再び訪れた沈黙が、ピリ、と空気を強張らせる。冷たさを携えたそれが、頬をひんやりと撫でていくようだった。
「…タクミ先輩」
私は、もう目を逸らさない。見上げた先輩は、少しだけ戸惑ったようにこちらを見つめ返してくれる。眉を寄せて何かに傷ついた表情をした彼は、ただ私を見下ろしていた。
…フラれたのは私なのに……。
どうして、先輩がそんな顔をするんだろう…?
「私、これで最後にします」
口から漏れた声は弱々しくて小さかったけれど、それでも確実に先輩の耳に届いていたはずだった。微かな声でも、言葉に込めた決意のようなものは凛とした響きを持っていたから…。
「諦めが悪くてすみません。…だから、最後にもう一回言ってください」
見つめた目は泳ぐこともなく、ただ互いを捕らえて離さなかった。…私も先輩も、ここで逸らしたら全てが終わってしまうのが分かっていたからだ。
「『迷惑』だって」
思い切って言った最後の一言は、私のありったけの勇気だった。
『ごめん』はもう聞きたくないから…。あの日のように逃げ腰じゃなく、正面から、最後にその一言を受け入れようと思った。
「………」
先輩の瞳が、少し揺らいだ気がした。ただ私は、来るべき一言を待ってその瞳を見つめていた……はずだった。
「……!」
一瞬後に、泣きそうな目をした先輩の腕に、グイと引かれるまでは。
引き寄せられて、次の瞬間にはそのまま先輩の体温を全身で感じていた。
つまり今自分が先輩の腕の中にいるんだということと…抱きしめてくれるその腕がびっくりするほど力強いことを、ゆっくりと認識する。それでも混乱する頭はついていかずに、私はきっと目を白黒させていただろう。
「…2回も言えるわけない」
ぎゅうっと抱きしめられて耳元で囁かれた声は、少しだけ掠れて震えていた。
「…あんな嘘」
付け足すように、だけど確かに先輩はそう言った。その言葉を受けて目を大きく見開いた瞬間、先輩がより一層腕に力をこめる。
まるで、何かに耐えるみたいに。
まるで、何かに怯えるみたいに…。
「先輩、先輩…」
思い出したのは、理沙さんの話。私に惹かれてる先輩が、愛海先輩と別れられない事情があって苦しんでるって…。ろくに信じていなかったそれも、今のこの人を見ていたら何となく受け入れられる気がした。
「泣かないで、先輩…」
どうして、先輩が泣いていると思ったんだろう?顔も見えなかったし、声だって震えるようだっただけで泣き声ではなかったのに。感染するように目に涙を浮かべながら、私は祈るようにそう続けていた。
ホームには、徐々に次の電車を待つ人たちが集まってくる。だけどそんなことを気にする余裕もなくて、ただ私は先輩の背中に腕を回し返した。ぎゅっと、それに力をこめる。
「タクミ先輩」
呼びかけた私の方が、完全に泣き声だった。鼻をすん、と鳴らしながら、私は彼の腕の中で改めてそう呼びかける。
「…もし、先輩が私のこと少しでも気にしてくれてるなら…」
付き合って、なんて言わない。
愛海先輩と別れて、なんて絶対言わない。
「ただ、私が先輩のこと好きでいるのは拒まないで…」
真帆が見た、先輩に告白してフラれた女の子のように。想うことも拒絶しないで…。
私が願うのは、今はそれたった一つだから。
「……」
先輩は、何も答えなかった。ただ私の後頭部に添えられた手が、ぎゅっと更に引き寄せてくれる。
「それでたとえ先輩が振り向いてくれなくても…私、後悔しないから。どうせ後々傷つくなら今…なんて、先輩が私のことそんな風に気遣ってくれなくていいの」
顔を埋めた先輩のシャツから、柔軟剤の優しい匂いがした。その香りに少しだけ落ち着きを取り戻しながら、私は続ける。
「そういう道を選んだのは…私だから」
…そう、全ては私自身の問題なんだ。それにここで二股なんて、先輩にそんな器用な悪い男の真似事をさせたくなんてない。なにより、そうできずに葛藤してしまうこの人が、私は好きなんだから…。
「だから、先輩。信じて待ってる。先輩がいつか振り向いてくれるかもしれないことと…」
先輩が、いつかその身に背負っている全てを話してくれることを…。
背中に回した手を少し緩めると、先輩も同じように力を解放してくれた。顔だけ少し離して、近距離で互いにまっすぐ見つめ合う。
先輩は、やっぱり涙を流してはいなかった。でもその顔を見ると、やっぱり痛みを堪えるような…泣きそうな顔。
そこで、やっと気づく。あぁ、泣いて悲鳴を上げていたのは先輩の心の声だったんだ、と。
「…ありがとう」
『ごめん』でもなく、先輩は静かにそう言った。今の私には…一番嬉しい言葉だった。
微笑んで見上げた先輩は、つられたように…でも少し困った顔で笑った。今は、それだけで十分だった。
認識したのは、この人が好きだという改めての実感と…。先輩が少しでも同じ気持ちでいてくれるかもしれないという、さっきより現実味を帯びた淡い期待だった。
ここから、きっと本当の関係が始まるんだろう。やっとスタート地点に立てたような感覚で、私は大好きな先輩の顔を見上げた。