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Sweet&Cool  作者: みずの
Loose
14/57

Loose 7  side:Haruka


 あの後、どう家に帰って家族とどういう会話をしたのか、全く記憶がなかった。ただ気がつくと自室のベッドに横になっていて、窓の外は白々と明るくなり始めていた。


 制服のまま倒れこんだらしく、スカートのひだがすこし乱れてしまっている。それを気にしながら立ち上がった私は、自分の目が腫れていることに気がついた。



 意識を失うように眠りながらも、尚も泣き続けていたらしい。目尻から耳の方へ向けて、涙の流れた跡がある。



 それを自覚すると、昨日の胸の痛みがぶり返してきそうだった。



 ごまかすように頭を振り、意識が昨日のことへ集中してしまう前に熱いシャワーを浴びることにする。何も見たくないし、何も聞きたくない。意識を閉ざして、私は心に蓋をするようにして学校へ行く身支度を整えた。



 失恋くらいで学校をサボるわけにはいかないし、何より自分のことだけでなく昨日の真帆のことも気になる。あの後の記憶が全くないから、もちろん真帆にも電話をかけ直していない。何を謝っていたのかわからないけれど、普通じゃない様子の真帆と、話をしなくてはいけないと思った。



 真帆はほとんど眠れなかったらしい。まだ誰もいないはずの時間帯に教室へ向かうと、もう自分の机に座っていた。私を待っていたのかもしれない。教室の入り口に立った私に気づくと、泣きそうな顔を向けてきた。

「ハルカ…っ」

「電話、昨日ごめんね」

 微かに笑うと、真帆は本格的に泣き出す。弱々しくても、私の笑顔を見て少し安心したのかもしれない。



「…何かあったの?」

 尋ねると、真帆は申し訳なさそうに顔を顰めた。



「ハルカこそ…何かあった?目が真っ赤」

 真帆の前の席に座りながら聞いた私に、彼女はそう返してくる。うん…と小さく頷きながら、私は昨日タクミ先輩が自分に会いに来たことと、どんな話をして行ったのかをかいつまんで話した。



「ごめん…それ、私のせいなの」

 聞き終えた真帆は、青ざめた顔で第一声にそう言った。真帆のせい…という意味がよくわからなくて、私は小首を傾げる。机に肘をついて手で顔を覆った真帆は、後悔の念に駆られたようにゆっくりと話し始めた。



 真帆が見た、女の子からタクミ先輩への告白シーン。そして、タクミ先輩がその子にどういう返事をして、真帆がそれをどう思ったのか。真帆が、抑え切れない怒りをどうタクミ先輩にぶつけたのか…。


「真帆のせいじゃないよ」

 気を使ったわけでもなく、私は一連の話を聞いて自然とそう口にしていた。


「でも…」

 言いかけた真帆の言葉を、私は首を振って遮る。

「真帆が言ったことがきっかけにはなったかもしれない。でも、あれは先輩の本心だよ。遅かれ早かれ、どうせこうなってたに違いないんだから…」

 思い出すだけで、涙が溢れそうになる。それをこらえるために、眉間に皺を寄せた。そんな私の表情を同じように泣きそうな顔で見る真帆に、微かに笑顔を向ける。もちろん、無理した作り笑いだとはお互いに十分すぎるほど承知していた。



「私のために怒ってくれて、ありがと」

 そう言うと、真帆も同じように無理して笑顔を浮かべた。



 そこで、段々と教室にクラスメイトたちが登校してくる時間になった。騒がしくなり始めた校舎内の様子に、私たちはお互いに口をつぐむ。黙ったままそれぞれ物思いにふけるように、ただHRが始まるのを待った。



******



 いつも私のことを心配してくれているもう一人の親友・華江にもこのことを話さなくちゃいけないと思った。だけど、同じことをもう一度自分の口で説明するには私には打撃がありすぎた。だから、甘えかもしれないけど昨日の事情を華江に説明するのは真帆に頼んだ。


 タクミ先輩のことはもう諦めると、付け加えて…。


「ハルカはそれでいいの?」

 一日そのことに触れないでいてくれた華江は、放課後になってようやく私に尋ねてきた。

「それでいいも何も…迷惑だって言われちゃったら、どうしようもないよ」

 無理した苦笑いを浮かべながら、私は鞄に荷物を入れながら帰り支度を始める。部活へ向かう真帆が教室の前の方から手を振ってきたので、「バイバイ」と笑顔で振り返した。



「でも…」

「夏川、ちょっといい?」

 華江が何か言いかけた言葉は、後ろから不意にかけられた声に遮られる。振り返ると、そこには去年も同じクラスだったクラスメイトの宮川くんが立っていた。



「…何?」

 首を傾げながら尋ねると、宮川くんは少しためらいがちに「えーっと…」と頭を掻く。スポーツマンで爽やかな感じの彼は、去年もそれなりに仲良くしていたクラスメイトの一人だった。


「あのさぁ、お前、今日これから暇?」

 どうして自分の予定なんかを聞かれているのかわからなくて、私は少しだけ訝しげな顔をする。その表情に宮川くんは少し慌てて、顔の前で手を振って見せた。


「いや、無理にとは言わないんだけどよ…。実は今日、隣のクラスの長谷川が誕生日でさ。仲間でお祝いにカラオケでもパーッと行くかって話になったんだけど…お前にも来てもらえないかと思って」

「……何で私?」

 確かに1年の時は宮川くんとグループで遊びに行ったことは何度かあった。でもその今日の主役らしい「長谷川くん」とやらと私は面識すらない。そもそも、宮川くんとだって私がタクミ先輩を好きになってからは遊んだこともない。


「いや、それは……」

 言いにくそうな宮川くんが、口ごもる。その様子に、私の隣で華江が「ふぅん」と意味ありげに呟いた。

「その長谷川くんが、好きなんだ?ハルカのこと」

「え?」

「え!」

 疑問符をつけた私と、驚いた様子の宮川くんの声が重なる。図星だったらしく、また参ったように頭を掻いてから宮川くんは拝むように私の前で手を合わせた。



「実は…好きっていうか、気になってるみたいで…。頼む、ちょっとだけ付き合ってやってよ」

「無駄よ」

 友達のためを思ってか、必死で頼む宮川くんに向けてそう言ったのは華江だった。「え」と顔を上げて、宮川くんが華江を見る。


「だってハルカには好きな人が…」

「いいよ」

 言いかけた華江の言葉を遮るように、私は宮川くんにそう返事をした。「マジで!?」とパァッと顔を明るくした宮川くんと、「ハルカ?」と怪訝な顔をした華江とが同時に私を見る。



 華江は好きな人がいるって言うけど、もうタクミ先輩にこだわっているわけにはいかないし…。何より、今日も一人になるのが嫌だった。誰でもいいから、一緒にいてくれる人がほしい。浅はかな考えだとは自分でもわかっていたけれど、どうしようもなくそれが私の本音だった。



「その代わり、華江が一緒に来てくれるなら」

 続けると、宮川くんはバッと華江を振り返った。お願いするような眼差しで見られて、華江は小さく息を吐く。多分、華江は私が彼らと遊びに行くのは反対なんだと思う。私が逆の立場でもそう思うだろう。だけど、きっと私の今の精神状態もわかってくれている。だから、はっきり拒むことができない。華江はそういう優しい人だから…。それがわかっていてそれに甘える私が一番間違っているんだろう。



 小さく息を吐いて、諦めたように華江は言った。

「いいわよ。その代わり、向井が一緒に来てくれるならね」

 それまで話にも加えていなかった第三者の名前を、華江が口にする。自分の名前を呼ばれて、華江の向こう側の席で何やら雑誌を読んでいた向井くんが「え?俺?」と面食らったように顔を上げた。



 私や真帆以外にあまり友達を作らない華江は、最近なんだかこの向井くんと仲が良い。確かに、宮川くんはともかく面識もない他の面子と密室になるカラオケに行くには少し勇気がいる。



 華江のそんな気配りを受けて、可哀想な向井くんは道連れにされるハメになった。



******



「ハルカ、聞いてる?私の話」

 帰り支度を整えて、昇降口に集合。宮川くんのそんな指示を受けて、私は華江と向井くんとそこへ向かった。

「うん、聞いてる」

「ホントに?今ハルカが辛い時だっていうのはわかるけど、勢いで長谷川くんと付き合ったりしちゃったらダメだからね」

 釘をさすように華江はそう言う。向井くんに聞こえないようにヒソヒソと言ってくれる辺り、気を遣ってくれているみたいだった。



 確かに、漫画やドラマならここで私は長谷川くんになびいちゃいそうだ。でも、今はそんな気力すらない。ただ、一人にならなければそれでいい。…そんな気分だった。



「お、来た来た」

 昇降口に着くと、宮川くんたちはもう既にそこに集まっていた。隣のクラスの面子と合わせて、男子5人。そこに向井くんと、女子は私たち2人だけ。傍からみれば相当不思議な組み合わせだろう。


「夏川、こいつが隣のクラスの長谷川。今日誕生日の主役」

 宮川くんに紹介されて、その中にいた一番人の良さそうな背の高い男子が笑顔で頭を下げた。

「よろしく、夏川。なんか今日は宮川が無理言ったみたいでごめん」

「ううん。お誕生日おめでとう」

 我ながら心のこもっていない言葉だったが、長谷川くんはそれでも笑ってくれた。…いや、こちらの感情には気がついていなかっただけかもしれない。


「長谷川、せっかくなんだからもうちょっと自己紹介がてら自分をアピールしろよ」

 からかうように、他の男子が言う。えっと困ったように声を上げてから、長谷川くんは笑って「そうだなぁ」と続けた。

「趣味は散歩で、得意なのは囲碁かなぁ…」

 長谷川くんの言葉に、「じじくせぇ」と周りがどっと笑う。作り笑いとは感づかれないように、私もニッコリ笑ってみせた。

「あ、あと弓道部に所属してる」

 続いた長谷川くんのセリフに、そんな私の笑顔は本格的に凍りついた。


 弓道部、と聞いて、よぎるのはタクミ先輩のこと。


 どうしたってタクミ先輩のことがふわっと浮かんできてしまうこの頭が、本気で今は恨めしかった。


「そんじゃ、移動しようぜ」

 靴に履き替えて、昇降口を出る。ワラワラと談笑しながら移動する集団の中、長谷川くんはずっと私の隣にいた。そして、そんな私のすぐ後ろには心配そうな華江と向井くんがついてきてくれる。



「……あ」



 校門をくぐろうとしたところで、不意に長谷川くんが私の隣で声を上げた。それにつられて、全員が長谷川くんの視線を追う。そうしてたどり着いた先にあるものに、私は自分が固まってしまうのに気づいた。華江が、そっと後ろから私の肩に手をかけてくれる。大丈夫だと言うように…。


「タクミ先輩、今帰りですか?」

 校門のところで出くわした彼に、長谷川くんはニコニコと声をかける。その隣にはマナミ先輩もいて、私は2人を見ないように顔を背けた。



 ……胸が、痛い。



 心が、キシキシと悲鳴をあげる。


 「うん」と小さく答えるタクミ先輩の声が聞こえる。

「そうですか!先輩、引退してもまた部活に遊びに来てくださいね」

 そう言う長谷川くんの隣で、私はずっと顔を上げられないでいた。


 見たくなかったし、見られたくもなかった。


「行こうぜ、長谷川」

 少し先を行く宮川くんたちに促されて、長谷川くんは「それじゃ失礼します」と頭を下げているようだった。


 タクミ先輩とマナミ先輩の脇をすり抜ける時、マナミ先輩の方が私に何か言いかけるように口を開くのが気配でわかった。でもそれも顔を上げないままの私の空気を汲んでか実現せず、彼女は口をつぐんだようだった。



******



「さっきの3年ってさぁ、お前の弓道部の先輩だったんだ」

 カラオケボックスについてから談笑している間に、誰だかがそんな余計な話題を長谷川くんに引っ張り出した。

「タクミ先輩?そうそう。結構カッコイイ先輩なんだぜ」

「いや、俺はどっちかっていうとあの男本人より、あんな美人を彼女にできるところが羨ましい」

「噂で聞いたことはあったけど、春日先輩の彼氏ってホントにふっつーな男なんだな」

 誰かが悪気もないようにそう言うと、長谷川くんは「だから、タクミ先輩はカッコイイって!」とかばうように抗議していた。


 …よっぽど、タクミ先輩を尊敬しているんだろう。


 でも今の私には、聞きたくない話に違いなかった。


「でも、最低な男だわ」

 耳を塞ぎたくなるくらいの気分な私の様子がわかったんだろうか。カラオケの歌本をめくりながら、華江が一蹴するようにそんな一言を放った。その一言で、場がしん、と静まり返る。さすがの長谷川くんも抗議するのも忘れるほど、呆気にとられていた。


「ま、まぁまぁ、せっかく来たんだし、パーッと騒ごうよ」

 慌てて場を取り繕うように、向井くんが言う。その一言に我に返った皆は、「おぉ」と話題を変えて再び盛り上がり始めた。


 その様子に、ホッと安堵の息を漏らす。それと同時に、私は真帆だけでなく華江も相当タクミ先輩に対して怒っているらしいことを、この時初めて知った。



******



 カラオケに来てから、3時間ほど経過した。その間宮川くんはずっと盛り上げ役に徹していたし、人見知りしない向井くんは他の男子とすっかり打ち解けていた。華江はそんな向井くんの隣でずっと私を気にしてくれていたし、長谷川くんは終始私の隣で色んな話をしてくれていた。


 だけど、申し訳ないけれど長谷川くんのどんな話も頭に入ってこない。愛想笑いと相槌だけを返す自分が、とんでもなく嫌なヤツに思えた。



 それからまたしばらく時間が経った頃、宮川くんが誰とはなしに向けて口を開いた。

「あ、なんか鈴元たちがこれから合流したいって」

 メールが届いたんだろう。携帯を見ながら、宮川くんが言う。

 鈴元くん…。その名前を聞いた途端に、体が硬直するのがわかった。

「ほら、夏川、去年同じクラスだった鈴元」

 何も知らない宮川くんは、悪気もなく笑顔でそう続ける。



「う、うん…」

 口ごもりながら頷く私は、一瞬にして先月の出来事をフラッシュバックするように思い出した。…私のチョコを捨てた、鈴元くん。あれから会話なんてしたわけもなく、顔を合わせたい相手でもなかった。



 そう、思った瞬間。



「あ」

 向井くんが、華江の隣で声を上げた。その声に、全員が慌てて振り返る。

「俺忘れてた。風紀委員の仕事で名取に呼ばれてたんだった」

 急なその言葉に、皆が一瞬静まり返った。それから、一斉にプッと吹き出す。

「向井ー、そりゃお前もう手遅れだろ。名取だってもう諦めてるよ」

「いや、名取、結構しつこいから絶対待ってると思うんだよね…。夏川、お前も風紀委員じゃん?戻った方がいいと思わない?」

 こちらを振り返った向井くんが、そう言った。そう言えば、私も昨日のHRで風紀委員になったんだった。…そっか、一緒に委員をやる相手の名前を確認してなかったけれど、向井くんだったんだ…。



「そうだね。名取しつこそうだし…」

 まだ5時前だから、先生たちは学校にいるだろう。特に呼び出しをすっぽかしたなんてことになったら、あの不良教師に何を言われるかわかったものじゃない。



「ごめんね、今日は戻るね」

 宮川くんや長谷川くんたちに謝ると、彼らは残念そうな顔をしてくれたけれども快く送り出してくれた。

「じゃあ、私も帰ろうかな」

 そう言って華江も腰を浮かす。

「夏川」

 華江の隣で立ち上がった私に、長谷川くんが声をかけた。

「今日はありがとう。また誘っていい?」

 言われて、私は曖昧に笑顔だけを返しておいた。



******



「うまくいった?」

 カラオケボックスを出て、向井くんは開口一番そう言った。なんのことを言われているのかわからなくて、私は首を傾げる。

「上々」

 私の隣で、華江が代わりにニッコリと笑ってみせた。



「どういうこと?」

 目をパチパチさせて問い返すと、向井くんは向井くんで小首を傾げる。

「俺はよくわかんないけど…夏川、鈴元と顔合わせたくないの?あいつが来るって話になった途端に、片桐に足踏まれてさ」

 『片桐』…とは、華江の苗字だ。なんのことかわからずに瞬きを繰り返しながら、私は華江と向井くんを交互に見る。



「なんかよくわかんないけど、カラオケから夏川を連れ出せってことかな、と勝手に解釈してああいう話を…」

「えっ、風紀委員の話って嘘なの?」

 驚いて声をあげる。つまりは、鈴元くんと私を会わせるのがマズイと思った華江が向井くんに何とかしてもらおうとしたってこと?しかも、足を踏まれただけでその意図を汲み取れる向井くんがすごい。



「さすがねー。その調子で、もう一個頼まれてくれる?」

 華江は普段誰に対しても優しくて穏やかなのに、なんだか向井くんに対してだけ女王様風に見えるのは気のせいだろうか。「何?」と聞き返す向井くんに、時計を確認しながら華江は言う。

「私、これからバイトがあるんだ。だからハルカのこと家まで送ってあげてくれる?」

 華江の言葉に、私が驚いて声を上げた。



「え、いいよっ。向井くんに悪いし、まだ明るいし」

「ダメ。今のハルカ一人で放っておくと何するかわからないもの。変な男についていきそうだし」

 言われて、ぐ、と私は返答に詰まる。変な男についていくつもりはないけれど、今の自分が不安定なのは認める。



「俺は別にいいよ」

 ニコっと笑ってナイト役を申し出てくれる向井くんに、私は降参して頭を下げた。



******



 向井くんは、思ったとおりとてもいい人だった。去年も同じクラスだったけれど、ほとんど私は絡んだことがない。年度末くらいから急に華江と親しくなってきたなぁって思っていたところだった。


「ねぇ、向井くんって華江のこと好きなの?」

 遠慮なく何気に尋ねると、向井くんは一瞬目をみはってから、「そう見える?」とニヤリと笑って見せた。


「うん、見える。なんか女王様と家来って感じ」

「…それなんか違くない?」

 てっきり恋人っぽいとでも言われるのを期待していたのか、向井くんはがっくりと肩を落とす。



 その様子がなんだかかわいくて、私は声を上げて笑った。そんな私に、向井くんは「…なぁ」と改まったように呼びかける。

「なに?」

 今日初めての無理しない笑顔のまま振り返ると、向井くんは少しだけ真剣な表情に変わっていた。



「違ったらごめん。夏川の好きな人って…さっき校門で会った3年の人?」

 言われて、私は瞬時にまたタクミ先輩のことを思い出す。思い出さないように蓋をしていたつもりなのに、不意打ちをくらってとめどなく脳裏をよぎった。


「……何で?」

 笑顔を消して、私は問い返す。もう向井くんの目は見れなかった。


「いや…あの時、夏川顔を上げなかったし…片桐があの3年のこと『最低な男』って言ってたし。それに…」

「………『それに』?」

 遠慮がちになった向井くんの言葉を、私は復唱した。半歩だけ後ろを歩いてくれるのは向井くんの気遣いなんだろう。


「…傷ついた、顔してた」

「………え?」

「あの人…タクミ先輩だっけ?」


 何を言われているのかわからなくて、私は向井くんの言葉にただ目を見開いた。


「……」

 しばらく、沈黙が訪れる。その重苦しい空気を破るように、私は息を大きく吐き出した。


「そんなわけないよ。私がタクミ先輩に振られたんだから」

「でも…」

「そんなわけないの!」

 叩きつけるように…でも、八つ当たりでしかない言葉を向井くんに放つ。頑として聞き入れない私の背中に、向井くんはため息を漏らした。



「でも夏川…顔上げなかったんだから、見てないだろ?」

「………」

「顔上げないお前見て……傷ついた顔、してたよあの人」



 呟くように、小さく向井くんはそう言った。背中に響くそんな言葉を、私はまだ受け止めるだけの勇気が持てなかった。




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