タイトル未定2026/09/16 16:24
部活が終わったあとの教室は、
昼間より少し広かった。
机が夕陽を反射して、
黒板の端っこだけがオレンジ色になっていた。
窓の外では、
野球部がまだ声を出している。
カキーン。
少し遅れて、
金属バットの音が届く。
「帰らんの?」
窓際の席で、
彼女が言った。
「お前こそ」
「迎え待ち」
「俺も」
「嘘。チャリやん」
ばれていた。
机の横には、
ちゃんと俺の自転車の鍵がぶら下がっている。
彼女は笑って、
また窓の外を見た。
俺も見る。
別に、
見るものなんてなかった。
グラウンド。
校舎。
電線。
遠くの山。
毎日見ている景色だった。
なのに、
その日は妙にきれいだった。
「ねえ」
「ん?」
「卒業したらさ」
そこで彼女は黙った。
「なに?」
「……やっぱいい」
「なんやそれ」
また、
カキーン。
今度は誰かが打ち損じたらしく、
野球部の笑い声が聞こえた。
時計を見る。
六時二十二分。
「迎え、何時?」
「半くらい」
「あと八分やん」
「うん」
俺は、
八分という数字を初めて憎んだ。
何か言わなきゃと思った。
好きだとか。
また会おうとか。
卒業しても連絡しようとか。
たった一言でいいのに、
そういう言葉だけ、
喉のところで急に重たくなる。
「ねえ」
彼女がまた言った。
「ん?」
「あと五分だけ、帰らんで」
俺は時計を見た。
六時二十五分。
「……おう」
それだけだった。
彼女も何も言わなかった。
俺たちは並んで、
窓の外を見ていた。
校庭を走る誰か。
吹奏楽部の音外れ。
廊下を転がっていくボール。
どこかの教室から聞こえる笑い声。
夕陽。
風。
彼女の髪が、
少しだけ揺れていた。
たぶん俺は、
あの五分間にあったものを、
あの頃は何ひとつ
分かっていなかった。
六時三十分。
校門の前に、
白い車が止まった。
「じゃあね」
「おう」
彼女は走っていった。
途中で一度だけ振り返って、
手を振った。
俺も振った。
それから何十年も経った。
あの校舎はもうない。
グラウンドも整備され、
制服も変わったらしい。
彼女が今、
どこで何をしているのかも知らない。
それなのに、
夏の終わり。
夕方六時二十五分くらいになると、
ときどき、
金属バットの音がする。
カキーン。
もちろん、
近所に野球部なんてない。
それでも俺は、
あと五分だけ、
帰らない。




