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デュナミス 人生は物語のように

作者: 大師士和
掲載日:2026/05/20

   1


 九月のある朝の出来事だった。ホームルームの時間が終わって担任の教師が教室を出てゆき、教室の中はざわついていた。


 もうすぐ一時間目の授業が始まる。


 岩越一至はおもむろに席を立った。そして教室の前方へと歩み出す。彼の左側の席に座していた男子だけがそれを知っていたかのように気づき、その後ろ姿を見送った。


 岩越が向かった場所は、教室の中央、一番前の席。その席の女子の前に彼は立った。


「川口、ちょっといいか?」


 声をかけられた女子は見上げた。長い髪は彼女の清純さを印象づけている。それは川口里桜の性格そのままで、里桜は物静かで少し内気な女子だった。


 岩越は里桜にむかって落ち着き払って言う。


「こんどの体育大会で、1500メートルに出ることにした」


 突然のことに里桜は最初、岩越が何を言っているのかわからなかった。


「それでもし、一位でゴールできたら──」


 教室の一番前で一人立っていた岩越は目立っていた。クラスの者たちが何とはなしに注目していたのも確かだった。


「おれとつき合ってくれ」


 えっ、というふうな口元を里桜は見せる。


「おれは……、おまえが好きだ」


 里桜を中心にその周りの生徒らにもそれは聞こえていた。注目が一瞬時を止める。


 おおーっ!


 すぐにも一斉に教室の中は色めき立った。事の次第がわからない教室の後ろの生徒らにも、瞬く間に彼の仕業が伝達された。


 教室はしばらく騒然とし、みながそれぞれに声をあげていた。


 里桜への告白が言い終わると、タイミングよく始業のベルが鳴り響き、岩越は自分の席に戻る。


「なにやってんだよ」


「おいおい」


「なんかキモっ」


「ばっかじゃない」


 岩越が席に着くと一時間目の授業の教師が教室に入って来た。


 事の始まりは、さかのぼること、ひと月前──。


「席替えしたのか?」


 この時からはじまった。


 夏休みが明けた三日目の朝の教室。気だるさを感じて机に顔を伏していた岩越の耳に、その声が不意に飛び込んできた。


 岩越が上体を起こすと、左隣の窓際の席に、あまり見慣れない顔の男子が立っている。そいつは鞄を机の上に置くと中から教科書やノートを取り出し、机の中へと移動させている。


「おまえってさ、よく学校休むけど……、本当に病気か?」


 岩越は少しまぶしそうに見上げながら無遠慮に問う。夏休み前にも、まったくといっていいほど彼の姿を見たことがなかった。


 問われた男子は、横目でちらっと岩越を見ると、少し微笑んだようだった。


「ああ。心の病気ってことになってるな。この時代では──」


 そのとき、窓から心地よい朝の風がすっと流れ込んできた。


「おれは毎日学校に通うのが嫌なんだよ」


 彼の名は清水裕紀。名前だけは知っていた。


「他人に人生を管理されているみたいで」


 そう言うと突っ立っていた清水は、席に座る岩越を見下ろしながらも、少しおどけたふうに笑った。


 その日の放課後。


「きょう一日、ずっとその本読んでたな」


 帰りがけにようやく岩越は清水に声をかけた。けさの清水とのやりとりで岩越は彼に興味をもっていたのだが、自分から話しかけるのには、やはり何となく気が引けていた。


 清水は岩越の問いかけには無反応で、手にしていた本を閉じると、淡々と机の中の物を鞄の中にしまいはじめる。


 清水はどの授業中も、ただその一冊の本を読みふけっていた。教師たちは彼のことを知ってか知らずか、授業もそっちのけで好き勝手をしている清水に気づいても、声をかけたり注意したりしなかった。


「やるよ、もう読み終えた」


 いきなり清水はそう言って岩越に腕を伸ばした。彼の手にある分厚い文庫本を岩越は受け取った。


「おまえ、本は読むほうか?」


 清水は岩越のほうを見向きもせず、ぶっきらぼうに聞く。


「いや……あまり……」


 なぜかそのときそう答えるのが少し恥ずかしく思われた。


 清水は片付けが終わるといすに座ったまま体を回転させて岩越に正面を向けた。


「学校や家での生活なんて、おれたちの人生の一部分にすぎないんだぜ」


 清水は立ち上がった。そして、


「書物のなかで真剣に物語る人間の声に、耳を傾けてみろよ。おれたちのいま生きている人生の舞台は、思っている以上に大きくて、奥が深いぜ」


 そう言って微笑みを浮かべる。


「──ああそれから、勉強は一人でやるものだ。人に教わることに慣れてしまうなよ」


 立ち去る清水の後ろ姿を見送ると、彼は左手を掲げた。さよならの仕草だろう。


 翌日からまたしばらく彼は学校に来ることはなかった。


「活字にだまされんなよ」


 岩越が朝、たまたま清水からもらった本を読んでいるところに、その声が聞こえてきた。首をひねり本から左隣へと視界を広げると、清水が席に座っていた。


(おいおい……一週間ぶりか)


 そう思いながらも岩越は少し喜んでいた。清水に興味をもち、どんなやつかもっと知りたいと思っていたのだ。


「──世の中には、未だに活字を崇拝している間抜けなやつもいる。くだらん話でも、活字にするとそれなりに聞こえてくるからな。おもしろいもんだぜ」


 清水がそう言う。


 いやおまえのほうがおもしろいよ、と岩越は思う。


「じゃ、どうすんだよ?」


 本を読んだほうがいいのか、読まないほうがいいのか。


「言葉の向こう側にいる人間を意識するんだよ。言葉はあくまでも道具、媒体にすぎないんだ」


 そんな面倒くさいことをいうやつは初めてだった。岩越は少し呆気に取られながら、


「おまえさぁ、家で何やってんだよ。学校休んで──」


 清水は、しばらく岩越を見定めるように見た。それから視線をそらし正面を向いた。そして、思い出すように答える。


「そうだな……、ここんところは……、哲学ってたな、ずっと」


 そう言うと机に片肘をついて、引きぎみに岩越に顔を向け、微笑み、


「テーマは、なぜこの時代がおれに与えられたのか──」


 清水のその微笑みは独特だった。人を小ばかにしたようにも見えるし、ただふざけているだけのような気もする。しかしまた、なにか得体の知れない思慮深さが隠れているようにも見える。岩越は清水に他のクラスメートには感じたことのない違和感と距離感を感じた。


「何をするのか、何をしたいのか。一時代の生活にとらわれていないか。先のことなどわからない、なんて言っている臆病者は、けっきょく人に使われるのがオチだぜ」


 清水は語った。


「変わっているな。おまえ……」


 岩越は本当にそう思った。


「そうか?」


 清水は腕組みし、一息ついてからまた語りはじめる。


「けど、自分自身が何者かわからないまま、他人の人生に付属して生きる人間にはなりたくないのさ。自分がないから何をやってもシンから楽しめない。他人の成功や失敗でニヤニヤしているだけ」


 ふたたび彼はその顔に特有の微笑みを浮かべた。


「おまえは誰かの人生の傍観者で満足か?」


 清水がそう問いかける。


 ──それからだった。清水と出会って自分が変わっていくことを、岩越は自覚することになる。


   2


「おいおい、5分かかってるぜ。これじゃ話になんないぞ」


 夕暮れの校庭、清水がタイムを計っていた。トラックを走り終わって息を切らしている岩越のもとに、清水はそう言いながら歩み寄ってくる。そして、


「もう一本、やるだろ?」


「ああ。じゃ、こんどは本気でいってみようか」


 負けず嫌いな岩越はそう言葉を返した。


 清水は学校に来るようになっていた。午後から登校してくることもあり、毎日、放課後、岩越のトレーニングに協力している。


「あー! ほら、見て見て」


 岩越のクラスの女子たちは、帰りに彼の姿を校庭で見かけては楽しそうに色々なうわさ話をし、通り過ぎていった。


 男子たちのなかには岩越が一位になれるかどうか賭けをしている者たちまでいた。


 グラウンドに岩越が倒れ込む。


「苦しそうだな。とりあえず余裕で5分以内で走れるようになれよ」


 清水が声をかけた。


「たった4分半の全力疾走と思えば、大したことじゃない」


 岩越は激しく息を切らしていて、すぐに清水のその言葉に返答できなかった。連日ハードなトレーニングを繰り返していたが、思ったほどタイムがよくならない。


「あと三週間しかない……」


 岩越はそう言いながら立ち上がると、辺りをぐるぐる歩き始めた。横になっていると気持ち悪くなる。体を動かしながら回復をはかった。体は徐々に慣れてきてはいる。


「あと三週間もある」


 清水がそう返した。そして、


「まあ、勝手に時の長さを値踏みするなよ。自分が本気になったら、三週間あればいったいどれだけのことができるか、なんて試したことなかっただろ? それが試せるんだから、もうそのこと自体で最高だ」


 そう語る清水を横目に歩きまわる。


「それにだいたい川口に告白したのも、自分を試すという意味もあったんじゃないのか? ま、自分の限界を超えるつもりで、全力を尽くさないと、試す価値もないからな」


「はは……」


 疲れきった岩越の体には、なぜか清水の気取った台詞は心地よかった。


「──タイムは?」


 それから数日後のことだった。グラウンドを走り終えた岩越が、朝礼台の上に座る清水のところにやってきて問う。


 清水はすぐに答えず、ストップウォッチを見続けていた。


「なんだよ、どうした?」


 額の汗を手で拭いながら、岩越は清水に歩み寄った。


「これからはタイムは……気にしないほうがいいな」


「なんだよ、それ。いいから、タイムは?」


「おれを信じろよ」


 清水はまたあの独特の笑顔でそう言う。


「はは……、おいおい」


 冗談を言っていると思っていたが、清水の顔の表情からは、どうやらそうでもないらしい──しかし、ふと、岩越は清水を盲目的に信じても、なにかおもしろそうだなと思えた。


「わかったわかった。だけどただ信じるのはつまらないな。何か理由を言ってくれ。おれは言葉もなく、ただ人を信じるっていうのが苦手なんだ」


 岩越は清水のまねをして少し気取ってそう言った。


「んー、そうだな。おまえが……、おまえ自身を、信じ切ることができるようになるために、か」


「なんだ、それ?」


「きっと将来、何かを成そうとしたときに、人はみな自分を信じることだけを頼りに、前に進んでいかなければならない──ってことだよ。まあ大事なのは、見る夢より生き方──。ひらたくいうと、見てくれをつくろうよりも、かっこいい生き方をしようぜ、ってことかな」


「はは……そうか。まあ、いいや」


 岩越はその場はとりあえず納得したように見せて、家に帰ってから、清水の言ったことについて考えてみようと思った。


 夕暮れの、誰もいなかった教室の中にその声は響いた。


「がんばってるね、里桜の王子様」


 三階の校舎の窓が一枚開けられた。


「べつに関係ないよ」


 その教室の窓からは校庭が見渡せる。川口里桜と、彼女の一番の友達、筧希美がグラウンドを走る男子を見下ろしていた。


「でも岩越ってあんな人だったっけ……?」


 里桜はぽつりとそう漏らした。


「あまりしゃべったことなかったから、知らないけど……いまや話題の人ね。里桜は小学校のときから一緒だったんでしょ? 仲良かったの?」


 筧希美は里桜よりひと回り体が大きい。里桜がやや小柄だったので、二人が並ぶと彼女はより大きく見えた。目のくりっとした丸顔で、明るく活発な立ち居振る舞いは、いかにも面倒見がよさそうな感じだった。


「女子のなかに、岩越を応援するコが増えてきてるって知ってた?」


 希美は自分の知り得た情報を里桜に伝えた。


「それに学校だけじゃなく、朝晩走っているみたいよ」


 里桜は希美の言葉に耳を傾ける。


「ねぇ、もし本当に一位になったらどうするの?」


 希美の問いかけに、里桜はグラウンドを走る岩越の姿をじっと見ているだけで、何も答えなかった。


 一直線に延びたアスファルトの道の向こうに、二つの人影が並んでいる。早朝、ロードワークをしている二人の少年の姿がそこにはあった。徐々にその二つの人影は大きくなってくる。


「よく体がもつな」


「べつに毎日おれにつき合わなくったっていいぞ」


「おれも1500、出るんだぜ」


「…………」


「だからおれに勝たないと、トップには、なれない──」


「でもどうしてわざわざ出場することにしたんだ?」


「役目か……」


「役目?」


「いや、責任だよ……おれのジョークに巻き込んだ」


「言っとくけど、おれが川口に告白した気持ちはジョークじゃないよ」


 会話はそこで止まった。


 話し声が止まると彼らはダッシュした。


 そこは周囲が田園で、舗装された道が静かに横たわっているのどかな農道だった。二人はそこを全力疾走する場所と決めていた。


 二百メートルほど距離を駆け抜けて、彼らは徐々に止まった。


 清水が前屈みになり、苦しそうに喘いでいる。岩越にはまだ余裕があるようで、清水の後ろに立っていた。


「体が意識についてきやしない──。ぜんぜん足りないな……。もっと走り込むか」


 清水が独り言のようにそうつぶやいたのが聞こえた。


 毎日が目まぐるしく忙しかった。だが岩越は、そんなに疲れを感じなかった。それどころか目的に向かっている日々に、心地よさを感じる。いままで感じたことのなかったことだ。


 時も駆け足で流れていった。


   3


 ──大会当日。スタート前。


 スタート地点には二十数名ほどのランナーたちが立ち並んでいた。岩越はその中に囲まれて、なんだか鬱々とした気分だった。


 顔を上げ、さらに見上げると、青空が広がっていた。


「プレッシャーは戦う人間の宿命だ」


 岩越を見つけ、清水が背後から声をかけてきた。


「確認しておくけど、本当に彼女のことが好きなのか?」


「ああ……」


「ならトップを取ってもゴールはするな」


「あ? どういうことだ?」


 清水は何も答えず、いつものように笑っている。


 清水の答えがないのをじれったくも思ったが、岩越は彼のその微笑みで、肩の力が抜け、少し気が楽になった。


 そのせいもあったのかもしれない。いつもは言えないようなことが言えた。


「……正直いうと、おまえには感謝している」


 岩越は少し神妙になってそう言った。


「いままで自分の人生にたいして、本気になれないでいた。何気なく生き、照れたり恥ずかしがったり……、真剣さを忘れていた──」


 岩越の言葉を清水は黙って聞いた。


「おまえといると、たった今こうして生きているということが、ものすごく生きがいのある、重要なものに思えてくるよ」


 けさのことを思い出す。


「──なんだよ、これ?」


 岩越は登校してきたときに清水に紙切れを渡された。清水はすでに体育着に着替えを済ませていて、自分の机の上に座っていた。


「記念にやるよ。おまえの好きな、人をやる気にさせる言葉だ」


 紙切れをひらいて見ると文字が書いてあった。岩越は読んだ。読み終わると紙の上に落としていた視線を、清水に向けた。


「詩か?」


「ジョークだ」


「笑えるのか?」


 言いながら岩越は自分の鞄を机の上に置いた。


「笑えない──。重みのあるジョークだ」


 清水を見ると、彼の顔にはあの笑みが浮かんでいる。


「でも使い方によっては──、人をその気にさせてくれる」


 清水はそう言った。


 前に出て、スタートラインの一番手前に岩越は陣取った。いまにも走り出そうとする構えを取っている者もいる。後ろから背中を押されそうにもなる。


 密集したその集団の中では、じりじりとした緊張感が、みなぎっていた。


 岩越は目を閉じた。腰を落とし、あえてクラウチングスタートの体勢をとる。暗闇の中でスタートを待った。


 この世界を愛せば おのずと力が湧いてくる──


 人を愛せば 強くなれる──


 わが魂よ 目を覚ませ──


 バーン!


 スタートの合図が打ち鳴らされた。


 その人溜まりがじわっとなだれるように動き始める。やがて形を前方へと細長く変形させながらその塊は移動していく。


 川口里桜はそのようすを遠くから見つめていた。岩越は五、六人の実質的な先頭グループの中にいた。清水は岩越のすぐ後ろについた。


 最初に全力疾走して飛び出した二、三人のランナーがいたが、一周したところで彼らは岩越たちのグループに次々に抜かされていった。


「ねェ、里桜は岩越に勝ってもらいたいの?」


 突然里桜の後ろから話しかける女子らが三人いた。


「どっちどっち?」


 戸惑い、里桜が答えられないでいると背の低い女子が言った。


「もし岩越クンが負けたら、わたしつき合っちゃおうかな。いままで気づかなかったけど、けっこうカッコいいじゃん」


 その場所からは岩越の姿は遠くにある。その女子は可愛らしく背伸びをすると掌でひさしをつくり額に当てて遠くを眺める格好を見せた。


「なにバカいってるの!」


 里桜の隣で黙っていた希美が、いきなり声をあげた。


「来て、里桜」


 やや感情的な希美は、里桜の手を引いた。二人はトラックのすぐわきまで出てきた。


「ちょ、ちょっと、あんまり前に行っても……」


 里桜は目立つのが嫌だった。希美に腕をつかまれてなかったら、その場からすぐにも後ずさりしていたはずだ。


「あなたが応援してるってわかれば絶対勝つわよ」


「走ってるから、そんなのわからないって」


「大丈夫だって」


「でも……」


「なにいつまでも意地張ってるのよ。本当は勝ってもらいたいんでしょ」


 里桜はうつむき加減に恥ずかしがった。すると、すぐにも先頭グループの一団がコーナーに差しかかってきた。コーナーを曲がっているときに、岩越はトラック横の里桜の存在に気づいた。彼女の姿がたまたま視界に入ったようだった。走り過ぎる岩越を里桜らは見送る。


「きっと気づいたよ」


 希美が静かにそう言った。そして里桜をちらっと見る。


「もぉ……」


 里桜は希美に冷やかされてはいたが、不快ではなかった。


 岩越は高揚感を味わった。トップでゴールさえすれば、彼女を自分のものにできるんだという妄想に駆られ、体が前に進んだ。それで先頭に立ってしまった。


 自分の背後から感じるプレッシャーと、前に立つ不安を覚える。だが、気にする必要はない、自分のペースでいいんだ、と言い聞かせる。


 やがて、残り一周を知らせる鐘がグラウンドに鳴り渡った。まだ自分には体力が十分残っているように感じた。岩越はスパートをかける。


 後続のプレッシャーから逃れるように、前へ前へと脚を蹴り出す。しかし、いつまでたっても背後からの圧が消えていく気配がない。


 ふたたび里桜がいるコーナーに差しかかった。彼女を意識したが、そのときはそちらのほうを見なかった。里桜が自分を見ているという意識だけで十分だった。


 コーナーを曲がりきると、ゴールまでは、あと七、八十メートルの直線を残すのみだ。そう思ったときだった。岩越は、はっとする。


 後ろにあると思っていた気配がいつの間にかすぐ隣にきていた。横に並ばれる。焦る。右隣を見た。見覚えのある横顔──清水だ。


(なぜ?)


 という思いが先に立った。


 甘えていた──。あいつに? まさか清水が本気で自分を追い抜こうとしているなんて思いもよらなかった。


 が、清水の体はさらにスピードを上げて、自分より前に進んでいく。ここで追い抜かれてはもう抜き返せない。


 体力の限界を感じることより、精神的にどうしようもなく、ただ必死になった。並走され、脳裏に早朝のロードワークで全力疾走していた自分たちの姿が浮かんだ。


 あのときいつも清水がダッシュするタイミングでそのあとを追いかけるようにして走っていた。競争という意識はまったくなかったので、あいつの背中ばかり見ていた。


 言いようのない不安がよぎる──そう思った瞬間だった。清水の体が一つぶん前に出る。


 が、その体は抜きさってゆくというよりも、岩越の体の前に、まるで磁石にでも引き付けられたかのように飛び出してきて、岩越の目の前に崩れ落ちた。


 反射的に足元の清水をジャンプして避ける。が、転がった彼の体を、いきおい蹴り飛ばしてしまった。


 清水の体はその接触の反動と彼自身の勢いで斜め前に転がりながら飛んでいく。バランスを崩したが、岩越は跳ねながらも、かろうじて体勢を保ちゴールを目指す。


 その刹那、振り返ると、他の後続のグループとはまだ距離がある。──大丈夫だ。


 しかしあのとき一瞬だったが、清水がこけてしまったことに、内心喜んでいた。そんな自分にはっとした。残り十メートル。で、ふと、なにか嫌な感じに襲われた。


 何が目的だ? 目的だった? ゴールすれば満足できるのか?


 清水の不運を喜んだ自分にたいしてかどうかわからない。ただこのままゴールすることは、決して自分を満足させるようなものではない。


 いや、それだけじゃない。


 岩越の全身からは力が抜ける。惰性でゴール手前のところまで迫る──と、走るのをやめ、数歩歩いたのち完全に立ち止まった。目の前にはゴールテープが張ってあった。


 ゴール付近のクラスメートらは早くゴールしろと叫びながら懸命に腕を振っていた。


 だが岩越の耳にはもう周囲の歓声さえ聞こえていない。岩越の心は音のしない世界にあった。


 後ろを振り向き、清水を見る。


 清水は地に手をついていた。立ち上がろうとしていたが、転倒で痛めた脚はふらついて二、三歩進むと止まり、何度も彼をひざまずかせていた。


 近くにいた者たちが傍にいって、助け起こそうとしていたが、清水は手で制止し、大丈夫だと言っているようだ。


 その時には自分のすぐ横を他のランナーが通りすぎ、張られていたテープを切っていた。


 バタバタと塊になっていたランナーたちもやってきて、次々と岩越を横目に走り過ぎ、ゴールする。


 ややふらつきを見せながらもゆっくり歩いてくる清水を岩越は静かに待っていた。彼が岩越のところまで来る頃には、二人を除くすべてのランナーはゴールしていた。


 清水は岩越を見ると少し微笑んだ。そのまま岩越の横を通り過ぎ、先にゴールする。


 岩越はそのあとに続いてゴールした。


   4


 終わってから岩越は何度もクラスの者たちから、なぜあのままトップでゴールしなかったのかと質問攻めを受けた。


 岩越は答えなかった。答えられなかった。


 その態度に、格好をつけるな、という野次もあったが、けっきょくみなは、岩越が清水と接触したことを悔いてゴールしなかったものと理解した。


 中学校の近くには高台の見晴らしのいい場所が多くある。校舎自体もやや小高い丘の上にあったので、環境としては緑に囲まれた最適の場所だった。


 ようやく岩越は人気のない公園横の斜面に、清水の居場所を見つけた。


 競技が終わってから、ずっと清水の行方が気になっていた。保健室を覗いてみたがその姿はなく、すでに早引きでもしたのかと思いつつも、帰りにロードワークの途中で何度か休んだ場所を覗いてみたのだ。


 鞄を枕代わりにしながら頭の後ろで手を組み合わせて、清水が寝転がっていた。


「また哲学か?」


 ふざけて岩越はそう声をかけた。


「まぁな」


 清水は身じろぎもせず声だけで返した。


「負けた……」


 岩越がぽつりと言った。すると横たわっていた清水は、後ろを見上げるようにその声の主を見た。


「悪かったな。邪魔して」


「なに言ってんだよ、おまえは初めからわかってたんだろ。あのままゴールしてはいけなかったこと」


 岩越は歩み寄りながら、そう言って腰を下ろした。


「おれは自分のことばかりで、相手の気持ちをまったく考えていなかった。馬鹿みたいに勝ち負けにこだわっていたし、完全にガキだった」


「はは……。おれたちはまだまだガキだぜ」


 清水は言ったが、岩越の眼差しは清水のいるほうとは逆のほうを向いていた。


 すると清水は、


「ま、それだけおまえの彼女への思いが純粋だったってことだよ」


 あっさりとそう答えた。


 岩越は清水を見る。


「はじめっから計算してたことか?」


 彼は目を閉じていた。


「おまえが必死に努力している姿を見せるだけで十分だったんだよ。あとはどうなるか、わからない。計算のしようもない。おれはただ間近で、おまえのドラマを見せてもらっただけさ。けど途中、本当に一位になるかもしれないと思ったときは、まじで焦ったな。いいところまでいくとは思ってたけど、想定外だった。ま、それでいちおうおれもレースに参加したってわけ」


「おれに勝つつもりだったのか? 1500……」


「むかしから短距離には自信があったんだよ」


「1500が短距離かよ?」


「息を止めて走れる距離が短距離だ」


 清水は岩越を見て笑い、


「──冗談だよ。おまえが気づかないんなら、どっかで転倒させてやろうとは思ってたんだけど、けっきょく、追いつけなくてラスト100で賭けにでた。あれで寿命が縮まったぜ。まさか避けられるとはな」


 岩越は言葉に詰まった。何か言おうとしたが、やめた。


「だけど、ゴール直前で気づいたんだろ?」


 清水が聞いた。


「あのとき……まだおれは何も気づいてなかったよ。直感的にゴールしないほうがいいような気がしただけ。ほんと、ただ直感に従っただけ」


「ふーん、直感……か……。それがおまえの答えか。──で、川口は?」


 清水は体を起こすと、何かしらの期待をもって岩越に聞いた。


 岩越は背を地面につけて寝転がった。


「ああ……。さっき川口から、つき合いたいって言われた。まずは親しい友達としてだけど。──で、そんときになって、すべてわかった」


 清水は立ち上がると、ちょうど日の沈む方角に向かって歩み出た。眼下には町の景色が広がる。沈みかけていた夕陽の光が顔に当たってまぶしい。


 二人してしばらく眺めていると、思い出したように、


「おまえがいう、人生が楽しいっていうのが、はじめて実感できたよ」


 岩越は答える。


 清水はいちど岩越のほうを見やってから、また遠くを眺めると、言った。


「なら、おまえは勝利者だ」


 逆光の中にたたずむ清水に岩越は目をやる。


 清水は振り向きもせず続けた。


「人生が楽しく感じられること、それが勝利者に与えられる栄光だ」


 そして振り返り微笑むと、


「さぁ、次は何をやろうか」


 私の人生に登場し彩りと啓発を与えてくれた愛すべき友に捧ぐ──

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