第20話.優しい音
新しい家での生活は、異様なほど穏やかだった。
朝、日和が起こしに来る。
食事を食べさせる。
本を読んでくれる。
傷を手当てする。
まるで。
献身的な恋人のように。
いや——
介護に近い。
「痛くない?」
拘束具の下にガーゼを差し込む。
擦れて赤くなった皮膚を、丁寧に保護する。
「ごめんね」
優しい声。
「本当は外してあげたいけど」
少しだけ笑う。
「逃げちゃうから」
⸻
最初の異変は、独り言だった。
キッチンの方から声が聞こえる。
誰かと話している。
だが家には二人しかいない。
「うん、大丈夫」
「ちゃんとできてる」
「もうすぐだから」
間。
静寂。
そして。
「……誰にも渡さないよ」
背筋が冷える。
⸻
その夜。
日和はベッドの横で眠らなかった。
部屋の隅。
床に座り、壁に背を預けている。
目は閉じていない。
ただ、悠真を見ている。
瞬きが少ない。
呼吸も浅い。
眠っていない。
(ずっと起きてるのか)
⸻
三日目。
彼女は笑わなくなった。
怒ってもいない。
泣いてもいない。
感情が薄くなっている。
ただ。
触れている時間が増えた。
手を握る。
髪を撫でる。
額を合わせる。
離れない。
少しでも距離が空くと、すぐ戻ってくる。
確認するように。
存在を確かめるように。
⸻
「ねぇ」
突然、囁く。
「ここにいるよね?」
返事を求めていない。
ただ不安を消したいだけ。
「消えないよね?」
声が震える。
「今度は大丈夫だよね?」
⸻
夜中。
突然、日和が悠真の腕に抱きつく。
強く。
必死に。
「夢、見たの」
震える声。
「またいなくなる夢」
顔を埋める。
子供みたいに。
「怖かった」
⸻
だが。
次の瞬間。
彼女の腕の力が強くなる。
締め付ける。
逃げられないほどに。
「でもね」
耳元で囁く。
「もう大丈夫」
低い声。
冷たい声。
「だって逃げられないもん」
⸻
翌日。
部屋の鍵が増えていた。
窓にも新しい補強。
ドアの外から聞こえる金属音。
何かを取り付けている。
安全のため。
ではない。
不安のため。
⸻
日和が戻ってくる。
目の下に濃い影。
眠っていない証拠。
でも笑顔。
無理に作った笑顔。
「もっと安心できるようにしたよ」
その言葉で悟る。
彼女は今。
悠真を守っているのではない。
奪われる恐怖と戦っている。
敵は外ではない。
見えない何か。
記憶。
不安。
孤独。
⸻
「ねぇ悠真くん」
座り込む。
両手で彼の手を包む。
「もしまた誰かが来たら」
ゆっくり顔を上げる。
瞳が濡れている。
でも。
どこか決壊している。
「どうしよう」
答えを求める子供の顔。
しかし次の言葉は。
大人の狂気だった。
「全部壊しちゃえばいいのかな」
⸻
外で風が強くなる。
窓が軋む。
家が揺れる。
閉じた世界が、さらに閉じていく。
幼馴染の精神は、静かに、確実に崩れていた。
そしてそれは。
最も予測不能な形で爆発する前兆だった。




