第16話.ヒビ
最初に異変に気づいたのは、些細なことだった。
その日の「担当」は依月のはずだった。
なのに。
「今日は私がやる」
玲奈が言った。
依月の目が細くなる。
「……順番です」
「たまにはいいでしょ?」
笑っている。
でも声が震えている。
日和が間に入る。
「まあまあ、二人とも——」
「日和は黙ってて」
玲奈の一言で、空気が凍る。
日和の笑顔が固まる。
この三人は、ずっと「均衡」で成り立っていた。
誰かが出しゃばれば、誰かが引く。
そうして保たれていた。
でも今は違う。
誰も引かない。
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悠真はベッドの上で、静かに観察していた。
(壊れ始めてる)
玲奈の視線が依月に刺さる。
「最近、距離近すぎ」
依月は即答する。
「先輩の状態確認です」
「触る必要ある?」
「あります」
火花が散る。
日和が笑顔で言う。
「私だって触ってるよ?」
二人同時に振り向く。
その視線に、日和が一歩下がる。
初めて見せる怯え。
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その夜。
異常はさらに明確になる。
見張りは本来、一人のはずだった。
なのに。
三人とも部屋にいる。
誰も出ていかない。
沈黙。
ただ悠真を見ている。
監視ではない。
牽制。
互いを。
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「……ねぇ」
玲奈がぽつりと言う。
「もし、悠真くんが一人しか選べないならどうする?」
最悪の問い。
依月が即座に答える。
「選ばせません」
日和も言う。
「四人でいればいいもん」
玲奈は首を振る。
「でも、もしもの話」
そして。
悠真を見る。
「誰を選ぶ?」
空気が張り裂ける。
依月の手が、無意識に拘束具へ伸びる。
日和の笑顔が消える。
悠真は理解する。
(今だ)
答えは不要。
必要なのは——
火種。
「……選べない」
本音でもあり、作戦だ。
「三人とも、大事だから」
その瞬間。
均衡が崩れた。
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玲奈が立ち上がる。
「ずるい」
依月も立つ。
「曖昧にしないでください」
日和の声が震える。
「……私が一番だよね?」
三人が同時に悠真へ詰め寄る。
だが。
互いの肩がぶつかる。
押し合う。
視線がぶつかる。
敵意が露わになる。
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「触らないで」
「先輩から離れて」
「二人とも邪魔」
ついに。
誰も取り繕わなくなった。
愛は共有できない。
独占欲が本性を引きずり出す。
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その時。
依月が玲奈の腕を払いのける。
玲奈がよろめく。
日和が支える。
「危ないよ!」
「放っておいて」
玲奈が手を振り払う。
日和の表情が歪む。
「……私だって、悠真くんのこと——」
言い終わる前に。
依月が言う。
「幼馴染は後から来ただけです」
空気が凍りつく。
日和の瞳が、ゆっくりと変わる。
笑顔が消える。
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三人の意識が、完全に互いへ向いた。
悠真から外れる。
初めて。
誰も彼を見ていない。
(今しかない)
心臓が激しく打つ。
手首の拘束具。
さっき依月が触ったせいで、わずかに緩んでいる。
ほんの数ミリ。
だが。
動く。
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三人の声が遠くでぶつかる。
言い争い。
責め合い。
泣き声。
笑い声。
狂気の混ざった音。
悠真は静かに手首を捻る。
痛みが走る。
皮膚が擦れる。
でも止めない。
もう止まれない。
少しずつ。
少しずつ。
手が抜ける。
(いける)
生まれて初めての希望。
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その瞬間。
部屋の電気がチカチカと点滅する。
三人が一斉に振り向く。
悠真は手を止める。
まだ気づかれていない。
だが。
あと少し。
あと少しで
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四人の楽園は、崩壊を始めていた。
そしてその隙間から、初めて光が差し込む。




