第99話 紙の迷宮
巨大なオーク材の扉が閉まると、外の熱気と喧騒が嘘のように断ち切られた。
図書館のエントランスホールは、ひんやりとした静寂に満ちている。
高いドーム天井のステンドグラスから、煤けた陽光が弱々しく差し込み、空気中に舞う埃をキラキラと照らし出していた。
「……鍵をかけただけでは不安だな」
レオニスが扉の閂を下ろし、さらに近くにあった受付カウンターを引きずってバリケードにした。
重い家具が床を擦る音が、広大な空間に反響して消えていく。
「窓は鉄格子だ。正面突破には時間がかかるだろうが、裏口や通気口はどうなっている?」
「要塞並みだよ」
バルトロ教授が眼鏡の位置を直し、愛おしそうに近くの本棚を撫でた。
「ここは王家の知識を保管する金庫だ。壁の厚さはレンガ三枚分。防火シャッターも完備されている。空調ダクトには人が入れないようなフィルターがある」
「なら、しばらくは持ち堪えられるか」
レオニスはバリケードの強度を確認し、振り返った。
「さて、どこへ行けばいい。目的の『禁書庫』は」
バルトロはホールの中央、螺旋階段が絡みつく巨大な柱を指差した。
「地下だ。だが、ただ降りればいいというものではない。この図書館は増築に増築を重ねて、迷路のようになっている。地図を持たない者が不用意に入れば、出口を見失ってミイラになるだけだ」
「案内してくれ」
「任せておけ。私はここの元名誉館長だ。目隠しをしていても歩ける」
バルトロが自信満々に歩き出す。
私はその後ろ姿を見ながら、こめかみを押さえてしゃがみ込んだ。
頭が割れそうだ。
ここに入った瞬間から、耳の奥で何千、何万という声が反響している。
――読んで。
――私を手に取って。
――歴史の真実はここにある。
――嘘だ。私が正しい。
本棚に並ぶ無数の書物が、それぞれの主張を喚き散らしている。
著者の情熱、編集者の苦労、そして読者の感動。それらの思念が紙の繊維に染み込み、膨大なノイズとなって押し寄せてくる。
「……レティ」
レオニスが私の肩を掴んだ。
「立てるか」
「酔い止め薬が欲しいわ」
私はふらつきながら立ち上がった。
「ここ、うるさすぎる。全員がマイクを持って演説してる議会場みたい」
「必要な声だけ拾え。雑音は切れ」
「言われなくてもやってるわよ」
私はポケットから、最後の砦であるチョコレートの包み紙を取り出した。
中身はもう残り少ない。
ひとかけらを口に含み、舌の上で溶かす。
カカオの苦味が脳のフィルターを強化してくれる気がした。
私たちはバルトロの後を追って、書架の森へと踏み込んだ。
*
一階の閲覧室を抜けると、空気の質が変わった。
新しい紙と糊の匂いから、古い革と乾燥した黴の匂いへ。
棚の高さも高くなり、梯子を使わなければ上段の本には手が届かない。
「ここは歴史学のセクションだ」
バルトロが説明する。
「右側が正史、左側が地方伝承や異説だ。……おや?」
彼は足を止め、ある棚の前で首を傾げた。
「配置が変わっているな。私の記憶では、ここは『古代王朝史』だったはずだが」
棚には、料理のレシピ本が並んでいた。
バルトロが慌てて別の棚を確認する。そこには園芸の本。
「馬鹿な。分類が滅茶苦茶だ。司書たちは何をしているんだ」
「……混乱してるのよ」
私は棚の支柱に手を触れた。
木材を通して、最近ここを通った人々のパニックが伝わってくる。
――隠せ。
――燃やされる前に。
――場所を入れ替えろ。
「司書たちが本を守ろうとしたのね」
私は言った。
「重要な本を、どうでもいい本の棚に紛れ込ませた。焚書官が見つけにくいように」
「なるほど。賢明だが、これでは我々も迷子だ」
バルトロが頭を抱える。
「地下への隠し扉は、特定の書架の裏にあるんだが……その目印になる本が移動されていたら、手探りで探すしかない」
レオニスが懐中電灯で通路の奥を照らした。
終わりの見えない本の壁。
「手当たり次第に動かす時間はないぞ。外では奴らがドアを破ろうとしている音がする」
微かに、ドンドンドンという打撃音が遠くから響いていた。
バリケードが突破されるのは時間の問題だ。
「……私が探すわ」
私は目を閉じた。
視覚情報は役に立たない。背表紙のタイトルは偽装されているかもしれないからだ。
頼りになるのは「音」だけ。
耳を澄ます。
レシピ本や園芸書の声は、明るくて軽い。
『美味しいシチューの作り方』
『バラの剪定時期』
それらの声の中に、明らかにトーンの違う、重く湿った声が混じっている場所を探す。
――隠されている。
――暗い。
――誰も読むな。呪われるぞ。
「……あっち」
私は通路の左手、奥まった場所にある棚を指差した。
「あの『家庭の医学』の棚。あそこから、血生臭い戦争の記憶が漏れてるわ」
バルトロが駆け寄り、棚の本を一冊抜き出した。
表紙は『薬草図鑑』だが、ページを開くと、中身はびっしりと細かい文字で埋め尽くされた歴史書だった。
「これだ! 『北方戦役全記録』。本来なら鍵付きの棚にあるべき禁書だ」
彼は本を戻さず、棚の奥にある板を押した。
カチリ、と音がして、本棚全体が音もなく手前にスライドした。
裏側に、下へと続く狭い階段が現れる。
「さすがだな、お嬢さん」
バルトロが感心したように言った。
「本の声が聞こえるというのは、比喩ではなかったか」
「便利屋の必須スキルよ」
私たちは階段を降りた。
地下への道は暗く、空気はさらに乾燥していた。
*
階段を降りきると、そこは書庫というよりは巨大な洞窟だった。
石造りの回廊がどこまでも続き、壁一面に古い巻物や、鎖で繋がれた本が収められている。
ここが「禁書庫」への入り口エリアらしい。
レオニスが先頭を歩き、警戒を強めた。
「……静かすぎる」
彼が立ち止まり、銃を構えた。
「バルトロ、ここには警備員はいないのか?」
「通常なら二名の当直がいるはずだ。だが、気配がないな」
私の耳にも、人の声は届かなかった。
代わりに聞こえるのは、本たちの不安げなざわめきだけ。
――来る。
――熱いのが来る。
――逃げられない。
「……レオ」
私は彼のコートの裾を握った。
「本たちが怯えてる。『熱いのが来た』って」
その直後、前方の回廊の角から、ゆらりと光が漏れた。
懐中電灯の白い光ではない。
揺らめく、オレンジ色の光。
そして、パチパチという何かが爆ぜる音。
「火だ」
レオニスが即座に私とバルトロを物陰に押し込んだ。
角を曲がって現れたのは、灰色の防護服を着た男たちだった。
焚書官。
彼らはここにも侵入していたのだ。
おそらく、私たちとは別のルート――地下水路か、通気口を使って。
彼らは火炎放射器を持ってはいなかった。
閉鎖空間で使うのは危険だと判断したのだろう。
代わりに、手には松明と、油の入った缶を持っていた。
「ここから先が禁書庫だ」
先頭の男が低い声で言った。
「隊長の命令だ。一冊残らず燃やせ。灰にすれば読めなくなる」
男が油を棚に撒く。
バシャリという音がして、古い革表紙が黒く濡れた。
彼が松明を近づける。
「やめろ!」
バルトロが叫ぼうとした口を、レオニスが手で塞いだ。
「静かに。見つかる」
「だが、本が……!」
「守りたければ黙っていろ」
レオニスは周囲を見回した。
敵は数人。武装は軽いが、火を持っているのが厄介だ。
ここで発砲すれば、マズルフラッシュ(銃口の火花)が油に引火する可能性がある。
「……レティ」
レオニスが耳元で囁く。
「水はあるか」
「飲み水なら水筒に少しだけ」
「足りん。もっと大量の水だ」
私は天井を見上げた。
石の天井に、太いパイプが這っている。
スプリンクラー用の配管だ。
だが、この深さで水圧が生きているかは怪しい。
耳を澄ます。
パイプの中の音。
――止まってる。
――淀んでる。
――でも、満タンだ。
「あるわ」
私は頷いた。
「水圧はないけど、水は溜まってる。古い水だから臭うかもしれないけど」
「消火できれば泥水でも構わん」
レオニスは足元のレンガを一つ拾い上げた。
重さを確認する。
そして、天井のパイプの継ぎ目――腐食して赤錆が浮いている箇所――に狙いを定めた。
「合図したら走れ。水浸しになるぞ」
敵の男が、松明を振り上げた。
油の撒かれた本棚に火が移ろうとする瞬間。
レオニスがレンガを投げた。
豪速球が空気を切り裂き、パイプの継ぎ目を直撃する。
ガキン!
金属音が響き、パイプが裂けた。
溜まっていた大量の黒い水が、滝のように落下する。
松明を持っていた男の頭上に、それが直撃した。
「うわぁっ!?」
男が悲鳴を上げ、松明を取り落とす。
火は水に濡れた床に落ち、ジューッという音を立てて消えた。
「今だ!」
レオニスが飛び出す。
彼は水に濡れて滑る床をものともせず、混乱する敵の集団に突っ込んでいった。
銃は使わない。
拳と、奪い取った松明の棒が武器だ。
「行くぞ、教授!」
私は呆然としているバルトロの手を引き、水浸しの回廊を走り抜けた。
背後で、男たちが次々と水溜まりに沈められていく音が聞こえた。




