第98話 煤けた空
路地を抜けると、空が低くなっていた。
雲が垂れ込めているのではない。街のあちこちから立ち上る黒煙が、天井のように広がって陽光を遮断しているのだ。
焦げた紙の臭いが、風に乗って運ばれてくる。
それは薪が燃える匂いとは違う。膠や革、そして大量のパルプが炭化する時に発する、酸っぱく、鼻の奥を刺激する臭気だ。
「……酷いな」
バルトロ教授が膝に手をつき、肩で息をした。
彼の白衣は煤で汚れ、眼鏡のレンズには細かい灰が付着している。
「あの方角は大学の書庫だ。あっちは新聞社のアーカイブ……奴ら、手当たり次第か」
「証拠隠滅よ」
私はコートのフードを被り直し、灰を払った。
「特定の書類を探すのが面倒だから、街ごと燃やしてしまおうって魂胆ね。効率的だけど、品がないわ」
レオニスが路地の角から顔を出し、大通りの様子を窺う。
消防車の鐘が乱打され、馬車が右往左往している。
パニック状態だ。
だが、その混乱の中に、明らかに異質な動きをする集団がいた。
灰色の防護服を着た男たち。
背中には金属製のタンクを背負い、手には長いノズルのついた放射器を持っている。
彼らは消火活動をしているのではない。
逃げ惑う人々を無視し、特定の建物――書店や印刷所――に向かって、青白い炎を噴射していた。
「焚書官だ」
レオニスが戻ってくる。
「メインストリートは奴らに制圧されている。避難誘導を装って、封鎖線を張っているようだ」
「裏道は?」
「似たようなものだ。ネズミ一匹通さない構えだな」
バルトロが青ざめた。
「では、どうする。ここで焼け死ぬのを待つのか」
「待つ趣味はない」
レオニスは懐から地図を取り出した。
バルトロの店から持ち出した、この街の古地図だ。
「地下水路を使う手もあるが、入り口が瓦礫で埋まっている可能性がある。地上を行くしかない」
彼は地図上の一点を指差した。
街の中央に位置する巨大な円形の建物。
王立図書館。
「あそこまで行けば、壁が厚い。防火シャッターもあるはずだ」
「だが、あそこは一番の標的だろう」
バルトロが反論する。
「奴らが真っ先に狙う場所だぞ」
「だからこそ、警備も集まっているはずだ」
レオニスは地図を畳んだ。
「それに、今の火勢なら、図書館のような巨大建造物を外から焼き落とすには時間がかかる。中に入ってしまえば、籠城できる」
選択肢は少ない。
私たちは頷き、煙の充満する路地を走り出した。
*
熱気が肌を焼く。
火の粉が雪のように舞い散り、呼吸をするたびに喉が痛んだ。
私はハンカチで口元を覆い、レオニスの背中を追った。
ポケットの中の飴缶が、走るたびにカチャカチャと鳴る。
その隣には、バルトロの店から持ち出した暗号文書が入ったレオニスのコートの裾が揺れていた。
――燃えろ。
――歴史はいらない。
――新しい記述だけを残せ。
耳を澄ますと、炎の爆ぜる音に混じって、焚書官たちの思考が聞こえてくる。
彼らに罪悪感はない。
あるのは、汚れを消毒するという歪んだ使命感だけだ。
「……止まれ」
レオニスが急停止した。
路地の先、T字路の向こうから、シューッという吸気音が聞こえる。
ガスバーナーの種火の音だ。
灰色の防護服を着た男が一人、角を曲がってきた。
ガスマスクのレンズが、炎の赤色を反射して光る。
彼は私たちを見つけると、無言で放射器のノズルを向けた。
「下がれ!」
レオニスが叫び、私とバルトロを建物の窪みに押し込む。
ボォォォォッ!
猛烈な炎が噴き出した。
レンガの壁が瞬時に黒く焦げ、熱波が髪をチリチリと焼く。
私たちは地面に伏せ、炎が頭上を通過するのを耐えた。
「くそっ、ガス欠にならんのか!」
バルトロが悲鳴を上げる。
私は熱さに耐えながら、男の背負っているタンクの音を聞いた。
液体の揺れる音。
圧縮されたガスの圧力音。
――残量十分。
――圧力正常。
――バルブ解放。
「……まだたっぷり入ってるわ」
私はレオニスに叫んだ。
「撃っちゃダメよ! タンクに当たったら、この路地ごと吹き飛ぶわ!」
レオニスは銃を抜こうとしていた手を止めた。
狭い路地での爆発は自殺行為だ。
だが、近づけば焼かれる。
男がじりじりと距離を詰めてくる。
ノズルの先から、ゆらゆらと陽炎が立ち上っていた。
「レティ、小石はあるか」
レオニスが私を見ずに聞いた。
「瓦礫ならいくらでもあるわよ」
「拾え。合図したら、奴のマスクに投げろ」
私は手探りで、拳大のレンガの破片を掴んだ。
レオニスは身を低くし、スプリンターのように構える。
「今だ!」
私は立ち上がり、全力でレンガ片を投げつけた。
コントロールは自信がない。
だが、男は飛んできた物体に反応し、反射的に顔を庇った。
ノズルが上を向く。
その隙を、レオニスは見逃さなかった。
彼は一足飛びに距離を詰め、男の懐に入り込んだ。
銃撃も打撃もしない。
彼は男が背負っているタンクの底――ホースの接続部を掴み、思い切り引きちぎるように蹴り上げた。
プシュッ!
ホースが外れたわけではない。
接続部の金具が歪み、そこから圧縮された燃料が霧状になって噴き出したのだ。
白煙が男の周囲を包む。
「火だ!」
レオニスが叫んでバックステップを踏む。
噴き出した燃料が、ノズルの種火に引火した。
ドォン!
小さな爆発音。
男の背中が火だるまになった。
タンクの中身が誘爆したわけではないが、漏れ出した燃料が燃え上がり、防護服を包み込む。
男は放射器を放り出し、地面を転げ回った。
火を消そうともがくが、油性の炎は消えない。
「……行くぞ」
レオニスは男に止めを刺さず、私たちを促した。
「タンクが加熱して爆発する前に離れるんだ」
私たちは燃える男の横をすり抜け、全速力で走った。
背後で、さらに大きな爆発音が響き、熱風が背中を押した。
*
大通りの向こうに、王立図書館の威容が見えてきた。
巨大な石造りのドーム。
入り口にはバリケードが築かれ、警備員たちが放水ホースを持って立っている。
周囲の建物は燃えていたが、図書館だけは奇跡的に無傷だった。
分厚い石の壁が、熱を遮断しているのだ。
「……たどり着いたな」
バルトロが荒い息を吐き、膝に手をついた。
「私の店よりは頑丈そうだ」
私たちはバリケードに向かって手を振り、身分証を提示した。
警備員たちは煤だらけの私たちを怪しんだが、バルトロの顔――かつての有名教授――を見ると、慌てて道を開けた。
「教授! ご無事でしたか!」
「他の学区は全滅です。ここも時間の問題かと……」
「弱音を吐くな」
バルトロは背筋を伸ばし、教授の顔に戻った。
「本を守るのが君たちの仕事だ。一冊たりとも燃やすな」
重厚な扉が開かれる。
中に入ると、外の喧騒が嘘のように遮断された。
ひんやりとした静寂。
そして、圧倒的な量の「紙」の匂い。
私はエントランスホールの中央で立ち尽くした。
見渡す限りの本棚。
螺旋階段が天井まで続き、無数の本が壁を埋め尽くしている。
数百万冊の知識の墓場。
「……すごい」
私は呟いた。
そして、同時に頭痛を感じてこめかみを押さえた。
声がする。
一冊一冊の本から。
著者の魂、読者の感動、そして紙に染み込んだ歴史の重みが、一斉に私に語りかけてくる。
――ようこそ。
――知りたいか。
――答えはここにある。
「大丈夫か」
レオニスが私の肩を支えた。
「ああ。少し酔っただけ」
私は彼の手を握り返した。
「でも、悪くないわ。焼ける音よりはずっとマシよ」
私はレオニスのポケット――私の出生の秘密が書かれた書類が入っている場所――を一瞬だけ見た。
ここなら、見つけられるかもしれない。
私が何者なのか。
その答えが、この膨大な紙の山のどこかに埋もれているはずだ。
外では、焚書官たちの足音が近づいてきていた。
だが、この厚い壁の中までは届かない。
私たちは、知識という名の要塞に守られていた。




