第97話 焼ける紙
ガラス戸に貼られた新聞紙が、中央から茶色く変色し始めた。
チリチリという音がして、紙の繊維が熱に耐えきれず炭化していく。
外からの赤い光が、その焦げ跡を通して店内に漏れ込んできた。
油の燃える匂いが、古本のカビ臭さを上書きする。
「……やる気満々ね」
私はカウンターから飛び降りた。
「ノックの代わりに火炎瓶を使うなんて、随分と情熱的な訪問者だわ」
レオニスが即座に動いた。
彼は入り口近くにあった背の高い本棚を背中で押し、ドアの前へと倒し込んだ。
ズドン、という重い音がして、大量の本が雪崩のように崩れ落ち、入り口を塞ぐバリケードとなる。
ガラスが割れる音がしたが、本棚が盾となって炎の侵入を阻んだ。
「裏口は」
レオニスがバルトロに問う。
老教授は腰を抜かしかけていたが、自分の城が焼かれようとしている現実に、学者のプライドが恐怖を上回ったらしい。
彼は震える手で眼鏡を押し上げ、店の奥を指差した。
「あ、ある。搬入用の扉が。だが鍵が錆びていて……」
「蹴れば開く」
レオニスはバルトロの襟首を掴み、立たせた。
「書類を持て。逃げるぞ」
「待て! まだだ!」
バルトロが抵抗した。
彼はカウンターの上の書類――地下から持ち帰った暗号文書――にしがみついた。
「これを解読しなければ、ただの紙屑だ! 奴らがここを焼くなら、もう二度と資料にはアクセスできん!」
「命より重い紙などない」
「あるんだよ! 学者にとってはな!」
バルトロは怒鳴り返し、ポケットから一枚の定規のようなものを取り出した。
穴の空いた金属板。解読用のスケールだ。
彼はそれを書類の最後のページに当てた。
「……おい」
レオニスが焦れて舌打ちをする。
外では、バリケード代わりの本棚から煙が出始めていた。
「蛇」の焚書官たちが、火炎放射器のノズルを隙間に突っ込んでいる音がする。
――燃えろ。
――灰になれ。
――歴史を消せ。
炎の爆ぜる音が、彼らの職務への忠実な思考を増幅させていた。
バルトロの指が、書類の上を走る。
彼の目が、信じられないものを見たように見開かれた。
「……なんだ、これは」
彼が掠れた声で漏らす。
「物資リストではない……『被験者リスト』だ」
私の耳がピクリと反応した。
熱気で歪む空気の中、バルトロの心拍数が跳ね上がる音が聞こえる。
「『アナスタシア計画』。適合者一名。コードネームなし」
バルトロが読み上げる。
「特徴……聴覚野の異常発達。残留思念の受信能力を確認。灰色の瞳。右肩甲骨の下に、生まれつきの痣」
私は反射的に、自分の右肩を押さえた。
コートの上からでは見えない。
だが、そこには確かに、小さな苺のような形の痣がある。
誰にも見せたことのない、私だけの身体的特徴。
バルトロがゆっくりと顔を上げた。
彼の視線が、私の顔を捉え、そして私の肩へと落ちる。
「……お嬢さん」
バルトロの唇が震えた。
「まさか、君は」
レオニスが二人の間に割って入った。
彼はバルトロの手から書類をひったくり、乱暴に四つ折りにした。
「古い記録だ。偶然の一致だろう」
声が硬い。
彼も聞いていたのだ。私の痣のことを知っているかどうかはわからないが、この場の空気を遮断する必要性を感じたのだろう。
「偶然? だが、ここに書かれている日付は……」
「後だ!」
レオニスが怒鳴った。
直後、入り口のバリケードが爆発した。
熱波が店内に吹き荒れる。
燃え上がった本が、火の粉となって舞い散った。
「蛇」たちが、障害物を爆破して突入してくる。
「走れ!」
レオニスがバルトロの背中を蹴飛ばすようにして押し出した。
私たちは店の奥、狭い通路へと駆け込んだ。
通路の両脇には、天井まで届く本棚が並んでいる。
貴重な古書、禁書、そして誰にも読まれなかった論文たち。
それらが今、熱気に晒され、悲鳴を上げていた。
――熱い。
――焼ける。
――私を読んで。消さないで。
本たちの断末魔が、私の脳を揺さぶる。
私は耳を塞ぎたかったが、両手は荷物で塞がっていた。
ミレイに買ってもらった新しいコートのポケットには、まだ空の飴缶が入っている。
突き当たりの鉄扉。
レオニスが体当たりをする。
ガンッ!
開かない。蝶番が錆びついて固着している。
「鍵か!」
「いや、錆だ! 何年も開けていない!」
バルトロが叫ぶ。
背後から、ガスマスクをつけた男たちが迫ってくる。
手には火炎放射器。
ノズルの先から、青白い種火が見えた。
「……どいて」
私は前に出た。
鉄扉に耳を当てる。
錆の状況を聞く。
――動かない。
――くっついた。
――もう開きたくない。
頑固な扉だ。
だが、一点だけ、構造的に脆くなっている部分がある。
右下の蝶番。腐食が進んでいる。
「右下! 蹴って!」
私が指差すと、レオニスは迷わずブーツの底を叩き込んだ。
バギッ!
嫌な音がして、蝶番が弾け飛んだ。
扉が斜めに傾き、隙間ができる。
外の冷たい空気が流れ込んできた。
「行け!」
レオニスが私とバルトロを隙間から押し出す。
私たちが路地裏に転がり出ると同時に、店内で炎が噴き上がる音がした。
ゴォォォォ!
熱風が背中を焦がす。
レオニスが最後に滑り出てきた。
彼のコートの裾が少し焦げている。
彼は傾いた鉄扉を無理やり戻し、蹴り飛ばして枠にねじ込んだ。
簡易的な蓋だ。
「……逃げ切ったか」
バルトロが膝をついて咳き込んだ。
「私の店が……本が……」
彼は燃え盛る店の壁を見つめ、涙を流した。
私は立ち上がり、コートの灰を払った。
ポケットの中の飴缶が無事か確認する。
そして、レオニスのポケットから覗いている、あの書類の端を見た。
『被験者リスト』。
私の名前らしき記述。
そして、右肩の痣。
レオニスは私の視線に気づくと、無言で書類をポケットの奥へと押し込んだ。
隠したのだ。
私に見せないために。あるいは、私に「自覚」させないために。
「……行くぞ」
彼はバルトロの腕を引いた。
「ここはもう戦場だ。感傷に浸るなら安全な場所でやれ」
「安全な場所などあるのか?」
バルトロが呻く。
「奴らはこの街全域に火を放つつもりだぞ」
「あるわよ」
私は路地の向こう、街の中心にそびえる巨大なドーム屋根を見上げた。
「あそこなら、紙の神様が守ってくれるはず」
王立図書館。
知識の聖域であり、そして最も燃えやすい物が集まる場所。
「皮肉な話ね」
私は歩き出した。
「一番燃やしたい場所が、一番頑丈な要塞だなんて」
背後の古書店から、炎が屋根を突き破る音がした。
私たちは振り返らず、煙の匂いがする風の中を走り出した。




