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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第96話 古書店のバリケード

 学術都市の裏路地は、表通りのアカデミックな空気とは無縁の、かびと湿気の溜まり場だった。

 足元のレンガは欠け、隙間に生えた苔が滑り止め代わりになっている。

 私は建物の壁に肩を擦らないように、道の真ん中を歩いた。両側の壁には、剥がれかけたポスターや、誰かが殴り書きした落書きが何層にも重なり、そこから発せられる「主張」のノイズが、頭痛の種になっていたからだ。


 「……あと何軒?」

 私は前を行くレオのコートの裾を引っ張った。

 「三軒目だ」

 レオは地図も持たずに、迷路のような路地を進んでいく。

 「セレナの情報によれば、この通りの突き当たり。看板を出していない店だ」


 「看板がないのに店なの?」

 「客を選ぶ店だということだ。偏屈な学者が隠居するには丁度いい」


 路地の奥、日が当たらない一角に、その建物はあった。

 古びたレンガ造りの二階建て。

 窓は厚い板で打ち付けられ、入り口のガラス扉には、内側からカーテン代わりの新聞紙が貼られている。

 『休業』という札すらかかっていない。ただの廃屋に見える。


 「ここか」

 レオがドアの前に立った。

 ノックをする。

 コン、コン。

 乾いた音が響く。反応はない。


 「留守?」

 「いや、いる。中から紙をめくる音がする」

 レオはもう一度、今度は強く叩いた。

 「バルトロ教授。王宮からの紹介で参りました。話を聞いていただきたい」


 数秒の沈黙の後、ドアの向こうから、しわがれた怒声が飛んできた。

 「帰れ! 本は売らん! 買い取りもしない! 勧誘なら他を当たれ!」


 「客ではありません。依頼です」

 レオが食い下がる。

 「我々は……」

 「聞こえんのか! 私は死んだんだ! 墓石を叩くな!」


 ドアの向こうで、何かが倒れる音がした。本タワーが崩れた音だ。

 拒絶の意思は固いらしい。


 レオが私を見て、肩をすくめた。

 「……交渉決裂だ。扉を蹴破るか?」

 「やめて。本が崩れて生き埋めになるわ」


 私はドアに近づき、木枠に耳を当てた。

 中の気配を探る。

 老人の心音。速い。怒っているというより、焦っている。

 そして、部屋中を埋め尽くす膨大な紙束のざわめき。


 ――読め。知識だ。歴史だ。

 ――重い。埃っぽい。

 ――虫食いが痒い。


 学術書の厳格な声に混じって、異質な音が聞こえる。

 カウンターの奥。

 床に近い場所。

 そこだけ、空気の色が違う。甘く、粘着質で、どこか後ろめたい「隠し事」の音。


 ――見ないで。

 ――でも見て。

 ――夜のお供に。


 「……ふーん」

 私は口元を緩め、ドアノブに手をかけた。

 「ねえ、教授。そこを開けないと、大声で叫ぶわよ」


 「何だと? 脅迫か!」

 老人の声が裏返る。


 「ええ、脅迫よ」

 私はドア越しに、はっきりと言った。

 「カウンターの裏、下から二段目の棚。分厚い『西方哲学全書』の裏側に隠してある、薄い冊子のこと」


 ドアの向こうの気配が凍りついた。


 「タイトルを読み上げましょうか?」

 私は続ける。

 「『公爵夫人の濡れたハンカチ』。それから『メイドと庭師の秘密の温室』。……随分と熱心に読み込んでるみたいね。ページが擦り切れる音がするわ」


 ガチャン!

 鍵が外れる音がした。

 ドアが勢いよく開く。

 中から、白髪の老人が鬼の形相で顔を出した。

 丸眼鏡がずり落ちている。


 「し、静かにしろ! 近所に聞こえるだろうが!」

 老人は私の口を塞ごうと手を伸ばしたが、レオがその腕を掴んで止めた。

 「話を聞いてもらえますか、教授」


 老人はレオの体格と、その背後にある無言の圧力に気圧され、渋々ドアを大きく開けた。

 「……入れ。靴の泥は落とせよ」


 *


 店内は、本の迷宮だった。

 床から天井まで、本、本、本。

 通路は人が一人通れる幅しかなく、両側には崩れそうな本の塔がそびえ立っている。

 埃と、古い紙の酸化した酸っぱい匂いが充満していた。


 「座る場所はないぞ」

 バルトロ教授はカウンターの中に戻り、くだんの「哲学全書」の位置をさりげなく確認した。

 「何の用だ。王宮の使いと言ったな。また寄付金の無心か?」


 「これを見ていただきたい」

 レオは懐から、地下施設で回収した革鞄を取り出した。

 中から、油紙に包まれた書類の束を出す。

 一部が焼け焦げ、水濡れで文字が滲んでいる。


 バルトロは眼鏡の位置を直し、書類をひったくった。

 「……汚い紙だ。保存状態が最悪じゃないか」

 彼はブツブツ文句を言いながら、ルーペを取り出して文字を追った。


 最初は面倒くさそうだった彼の表情が、ページをめくるごとに険しくなっていく。

 指先が震え始める。

 

 「……どこでこれを手に入れた」

 バルトロが低い声で聞いた。

 視線は書類に釘付けのままだ。


 「王宮の地下です」

 レオが答える。

 「『蛇』が運営していた実験施設から回収しました」


 「地下……実験……」

 バルトロは顔を上げ、私とレオを交互に見た。

 「生きて帰ってきたのか? あそこから?」

 「運が良かっただけです。それに、優秀なガイドがいましたから」

 レオが私を顎で示す。


 バルトロは私を見た。

 ただの子供を見る目ではない。

 実験動物を見るような、あるいは未知の病原体を見るような、恐れと好奇心が混じった目だ。


 「お嬢さん。お前、何か聞こえるのか?」

 「……何のこと?」

 私はとぼけた。

 「さっきの本のことなら、紙が喋っただけよ。『ここから出して』って」


 「紙が喋る、か」

 バルトロは自嘲気味に笑い、書類をカウンターに置いた。

 「この文書は暗号化されている。旧王国軍の特殊暗号だ。表向きはただの物流リストに見えるが、特定のフィルターを通すと別の意味が浮かび上がる」


 「読めますか」

 「読めるとも。私が作った暗号の派生型だ」

 彼は立ち上がり、奥の棚から一冊の古いノートを取り出した。

 「だが、解読してどうする気だ。これはパンドラの箱だぞ。開ければ災いが飛び出す」


 「もう飛び出しています」

 レオは一歩前に出た。

 「街には『蛇』が溢れ、子供たちがさらわれている。俺たちは箱の底に残った希望を探しているんです」


 バルトロはノートを握りしめ、沈黙した。

 店内の空気が重くなる。

 本の塔が、圧力をかけてくるようだ。


 私はカウンターに近づき、バルトロの手元にある書類の一枚を指差した。

 そこには、数字と記号の羅列がある。

 私には意味がわからない。

 だが、そのインクの染みから、書いた人間の強烈な執念が聞こえてくる。


 ――完成させる。

 ――理論は正しい。

 ――器が必要だ。適合する器が。


 「……『器』って何?」

 私が聞くと、バルトロがビクリと反応した。

 「ここに書いてあるの? 『器を探せ』って」


 バルトロは深いため息をつき、眼鏡を外してレンズを拭いた。

 「……そうだ。これは『人間を兵器化する計画書』だ。数十年前に廃棄されたはずの、禁断の論文」


 彼は書類を広げ、ある一行を指し示した。

 「プロジェクト・アナスタシア。……人間の脳に干渉し、個を消し去って、意のままに操るための生体部品パーツを作る計画だ」


 アナスタシア。

 またその名前だ。

 私はポケットの中で、飴の缶を強く握った。

 指先が白くなる。


 「続きがある」

 バルトロは私を見据えた。

 「この計画には、基礎となった『オリジナルの検体』が存在する。その検体の詳細なデータが、この暗号の中に隠されているはずだ」


 「解読をお願いします」

 レオが頭を下げた。

 「報酬は言い値で払う」


 「金の問題じゃない」

 バルトロは首を振った。

 「これを解読すれば、私も『蛇』に狙われる。いや、もう手遅れかもしれんがな」


 彼は店の入り口を見た。

 新聞紙で目張りされたガラス戸。

 その向こうの通りから、微かな異音が近づいてきていた。


 カツ、カツ、カツ。


 規則正しい足音。

 一人ではない。複数。

 そして、嗅ぎ慣れたあの臭いが、隙間風に乗って漂ってくる。


 油の臭い。

 焦げた臭い。

 火薬の臭い。


 「……レオ」

 私は振り返った。

 「来たわ」

 「誰が」

 「『蛇』の掃除屋さんたち。火炎放射器のタンクが揺れる音がする」


 バルトロの顔色が土気色になった。

 「焚書官ふんしょかんか……!」


 ドアの新聞紙が、赤く照らされた。

 夕日ではない。

 外で、誰かが火を点けたのだ。

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