第95話 紙塵
列車のブレーキがかかり、車輪がレールを締め上げる高い金属音が鼓膜を震わせた。
窓の外を流れていた景色が、緑色の平原から、灰色の建物群へと切り替わっていく。
私は座席から立ち上がり、網棚の荷物に手を伸ばそうとして、よろめいた。
足元の揺れではない。
窓の隙間から侵入してきた「空気」に、脳に直接作用する何かが混じっていたからだ。
「……臭うわ」
私は鼻を押さえた。
「酸っぱい。古い紙を煮込んだような、埃と油の臭い」
向かいの席で新聞を読んでいたレオニスが、紙面を閉じて立ち上がった。
彼は私の手から鞄を奪い取り、自分の肩にかけた。
「製紙工場の排気だ。この街は一日中、木材をパルプに変える釜を焚き続けている」
「肺の中でカビが生えそう」
列車が完全に停止する。
プシューッという排気音と共にドアが開いた。
ホームに降り立つと、そこは王都の華やかさとも、北の厳しさとも違う、独特の熱気に包まれていた。
人々が忙しなく行き交っている。
学生らしき制服の集団、本を抱えた学者風の老人、そして油で汚れた作業着の工員たち。
彼らの足音が、レンガ敷きのホームに反響し、低い唸りとなって響いている。
「行くぞ、レティシア嬢」
レオニスがわざとらしい敬語を使った。
彼は片手に重いトランクを下げ、もう片方の手で私の背中を軽く押した。
「迎えの馬車は手配していない。足で宿を探す」
「わかってるわよ、助手」
私はコートの襟を立て、改札口へと歩き出した。
一歩進むごとに、頭痛が増していく。
物理的な騒音ではない。
耳を澄ます。
ホームの壁に貼られたポスター。
売店の新聞。
通行人が持っている雑誌。
それら「文字」が印刷された媒体から、微細な羽音のようなノイズが溢れ出している。
――読め。
――買え。
――最新の学説だ。
――政府の発表を信じるな。
「……うっ」
私はこめかみを押さえて立ち止まった。
「うるさい……」
死者の声ではない。
これは、生者の「主張」だ。
文字を書いた人間、印刷した人間の「伝えたい」という欲求が、紙面に焼き付いて残留思念となり、私の聴覚を過剰に刺激してくる。
「どうした」
レオニスが振り返る。
「酔ったか」
「情報酔いよ。この街、文字が多すぎるわ」
私は売店のスタンドを指差した。
「あの新聞の束、全部が『私を見て』って叫んでる。満員電車で全員が一斉に自己紹介してるみたい」
レオニスは売店を一瞥し、私の肩を抱いて人混みの外へと誘導した。
「慣れろとは言わん。だが、無視するコツを掴め」
「努力するわ。でも、耳栓が欲しい」
私たちは駅舎を出た。
目の前に広がるのは、煙突と尖塔が入り組んだ学術都市ヴィブラの全景だった。
空は工場の排煙で薄曇り、太陽の光が和らげられて地上に届いている。
建物の壁という壁に、ビラや看板が貼られていた。
『王立図書館、特別展示中』
『印刷工組合、賃上げ要求』
『行方不明者を探しています』
視覚的な情報量も凄まじいが、そこから発せられる聴覚的な圧力が私を押し潰そうとする。
私はポケットから、王都を出る時にミレイが持たせてくれたチョコレートの包みを開けた。
一粒、口に放り込む。
カカオの苦味と砂糖の甘さが脳に回り、ノイズの幕を少しだけ薄くしてくれた。
「……マシになった?」
レオニスが顔を覗き込む。
「ええ。糖分は偉大よ」
「なら歩け。目立つ場所で立ち止まるな」
私たちは大通りを避け、裏路地へと入った。
ここならポスターも少ない。
レンガの壁は古く、煤で黒ずんでいる。
路地の奥から、ガシャン、ガシャンという規則的な機械音が聞こえてきた。
印刷機の音だ。
この街の心臓の鼓動。
「宿はどうする」
レオニスが地図も持たずに歩きながら聞いた。
「学生街の安宿か、それとも商人が使うホテルか」
「静かなところがいいわ。本棚がない部屋」
私は即答した。
「活字のない壁に囲まれて眠りたいの」
「贅沢な注文だ。この街で紙のない場所を探すのは、砂漠で水を探すより難しい」
レオニスは角を曲がった。
その先には、古びたレンガ造りの建物が並んでいた。
一階が店舗、二階以上が住居になっている長屋だ。
「あそこだ」
レオニスが看板のない小さな扉を指差した。
「『下宿・学生歓迎』の札が出ている。ボロいが、一階が製本所だ。夜は機械が止まるから静かだろう」
「製本所? 紙だらけじゃない」
「新しい紙だ。まだ文字が書かれていない紙なら、お前の耳も痛くないはずだ」
なるほど。
白紙なら、主張する声はない。
私は頷き、レオニスの後に続いた。
扉を開けると、糊と革の匂いがした。
カウンターには誰もいない。
奥の部屋で、老人が一人、分厚い本の背表紙に糸を通しているのが見えた。
「部屋を借りたい」
レオニスが声をかけると、老人は手を止めずに答えた。
「学生か? それとも逃亡者か?」
「研究員だ」
レオニスは身分証を見せずに言った。
「静かな部屋と、硬いベッドがあればいい」
老人はようやく顔を上げ、私たちをじろりと見た。
「二階の奥が空いている。前金だ」
「期間は?」
「好きにしろ。出て行く時は鍵をポストに入れろ」
レオニスが硬貨を置く。
鍵を受け取り、私たちは軋む階段を登った。
部屋は狭かったが、清潔だった。
窓からは、隣の建物のレンガ壁しか見えない。
だが、レオニスの読み通り、ここには本棚もポスターもなかった。
あるのは、使い込まれた机と、簡素なベッドだけ。
「……ここなら息ができそう」
私は荷物を床に置き、ベッドに座り込んだ。
静かだ。
階下の作業音だけが、遠いリズムとして聞こえる。
「休憩するか」
レオニスがコートを脱ぎ、椅子の背に掛けた。
「それとも、すぐに動くか」
「動くわよ」
私は立ち上がった。
「セレナが言ってた『古書店主』を探さないと。この頭痛の種になってる文字の山から、たった一冊の正解を見つけるためにね」
私は窓を開けた。
外の空気は相変わらず薬品臭かったが、部屋の中の閉塞感よりはマシだった。
遠くに見える巨大なドーム屋根。
王立図書館。
あそこに、私の過去が眠っている。
「行くわよ、レオ」
私は彼を振り返った。
「道案内は任せるわ。私は耳を塞いでついていくから」
レオニスは苦笑し、ドアを開けた。
私たちは再び、騒がしい文字の氾濫する街へと足を踏み出した。




