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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第94話 王女の私室

 目の前に積まれたのは、壁を作るレンガではなく、バターと砂糖の塊だった。

 三段重ねの銀のスタンド。

 一番下にはサンドイッチ、真ん中にはスコーン、そして一番上には色とりどりのマカロンとタルトが鎮座している。

 部屋の空気は、焼きたての小麦の香りで満たされていた。


 「……本気ね」

 私は一番上の段から、赤い木苺のタルトを摘み上げた。

 「約束は守る主義よ」

 向かいのソファで、セレナが紅茶のカップを傾けていた。

 彼女は公務用のドレスではなく、リラックスしたガウンのような服を着ている。

 場所は王宮の奥にある私室。

 衛兵も侍女もいない。ここには、私たち三人だけだ。


 私はタルトを口に運んだ。

 サクッという音と共に、酸味の効いたジャムとカスタードクリームが口の中に広がる。

 北の街で食べた、あの硬いビスケットとは別次元の食べ物だ。


 「合格点?」

 「満点よ。これなら地獄の底まで付き合ってあげてもいい」

 私は二つ目のタルト――今度はチョコレート――に手を伸ばした。


 レオニスは甘いものには手を付けず、ブラックコーヒーを飲んでいた。

 彼の膝の上には、先日の地下調査で回収した革鞄が置かれている。

 「……データの解析は済んだのか」

 彼がカップを置いて本題に入った。


 セレナは手元のサイドテーブルから、一枚の紙を取り出した。

 タイプライターで打たれた報告書だ。

 「ええ。王立アカデミーの専門家に、極秘で分析させたわ」

 彼女は紙をレオニスに渡した。

 「結論から言うと、あの地下施設は『氷山の一角』に過ぎないそうよ」


 「一角?」

 「地下にあったのは製造ラインと、実験場だけ。肝心の『設計図の原本』や『基礎理論』に関するデータが欠落しているの」

 セレナは自分のこめかみを指先でトントンと叩いた。

 「人間の脳をいじるなんて狂った技術、一朝一夕でできるものじゃないわ。もっと長い時間をかけて、どこかで研究されていたはずよ」


 レオニスが報告書に目を走らせる。

 「……西の学術都市か」

 彼が特定の行を指でなぞった。

 「データの参照元として、頻繁にその名が出てくる」


 「ヴィブラ。印刷機と図書館の街」

 セレナが補足した。

 「あそこには世界中の本が集まる『大図書館』があるわ。表向きは学問の聖地だけど、その地下には、歴史から抹消された禁書を収めた書庫があるという噂よ」


 「そこに、オリジナルの設計図がある?」

 私が口を挟むと、セレナは肩をすくめた。

 「あるいは、もっと厄介なものかもね。例えば、貴女の出生に関する記録とか」


 私の手が止まった。

 タルトの欠片が皿に落ちる。

 地下で見つけた、私の名前が書かれた古いメモ。

 『検体コード:アナスタシア』。


 「……私をそこへ行かせる気?」

 「強制はしないわ。でも、知りたいでしょう?」

 セレナは残酷なほど穏やかに微笑んだ。

 「自分が何者なのか。親は誰で、なぜ『蛇』に狙われるのか。その答えは、王宮の地下にはなかった。なら、西へ行くしかないわね」


 彼女はテーブルの下から、革製のバスケットを取り出した。

 蓋を開ける。

 中には、またしても封筒が入っていた。

 ただし、今回は分厚い。


 「旅費と、新しい身分証よ」

 彼女は封筒を私の前に滑らせた。

 「今度は『逃亡者』としてではなく、『王立図書館の特別閲覧許可証を持つ研究員』として行きなさい」


 私は封筒の中身を確認した。

 立派な革表紙の手帳。

 そこには、私の写真と、新しい偽名が記されていた。

 『レティシア・ヴァン・ローズ』。

 随分と仰々しい名前だ。


 「……研究員? 私が?」

 「助手はそちらの強面こわもての彼よ。用心棒兼、荷物持ちとしてね」

 セレナはレオニスに視線を送った。

 「レオニス、貴方には別の仕事もあるわ。学術都市には、私の目が届かない。現地の『蛇』の動きを探って、必要なら……」


 「掃除しろ、か」

 レオニスは自分の分の身分証を懐に入れた。

 「承知した。本の方が人間よりは静かだろう」


 「どうかしらね」

 私は最後のマカロンを口に放り込んだ。

 「本だって、開けばうるさいわよ。書いた人の執念が詰まってるんだから」


 セレナが立ち上がった。

 「列車の手配は済んでいるわ。出発は明日の朝。駅までは私の馬車を使えばいい」

 彼女は窓際に立ち、カーテンの隙間から外を見た。

 「気をつけて。西は『蛇』の巣窟ではないけれど、もっと古い怪物が住んでいるかもしれないわ」


 「怪物退治は専門外よ」

 私は口の周りについたクリームをナプキンで拭った。

 「でも、面白い本が見つかるなら、行ってみてもいいわね」


 私はスタンドに残った焼き菓子を、持参したハンカチに包み始めた。

 「これ、持って帰っていい?」

 「どうぞ。残しても湿気るだけだもの」


 レオニスが立ち上がり、革鞄を持った。

 「行くぞ、レティ。荷造りがある」

 「へいへい。ご馳走様、スポンサーさん」


 私たちは部屋を出た。

 扉が閉まる間際、セレナが再び紅茶を口に運ぶのが見えた。

 その表情は、少しだけ寂しそうに見えたが、すぐにカップの湯気に隠れて見えなくなった。


 *


 廊下に出ると、レオニスが大きく息を吐いた。

 「……疲れる茶会だ」

 「美味しいお菓子だったじゃない」

 私は包んだ菓子をポケットに入れた。

 「で、どうするの? 明日まで暇よ」


 「装備の点検だ。それと、ミレイに挨拶くらいはしていくべきだろう」

 彼は歩き出した。

 王宮の長い廊下。

 私たちの足音が、コツコツと響く。


 「ねえ、レオ」

 「なんだ」

 「『レティシア』って名前、どう思う?」

 「長すぎる。呼ぶのが面倒だ」

 「同感。今まで通り『レティ』でいいわ」


 私たちは顔を見合わせて笑った。

 窓の外には、西の空が広がっている。

 雲が流れていく先。

 そこには、インクと紙の匂いがする街が待っているはずだ。


 私はポケットの中の、新しい身分証の感触を確かめた。

 硬い表紙。

 それは、次の扉を開けるための鍵のように思えた。

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