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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第93話 コインランドリー

 鼻を突く異臭で目が覚めた。

 腐敗した沼の底のような、あるいは古漬けになった雑巾のような臭い。

 私は顔をしかめて毛布を跳ね除け、その発生源を探した。

 部屋の隅、椅子の上に放り出された私のコートと、レオニスの作業ズボンだ。

 昨日の地下探索で泥と汚水を吸い込み、一晩放置されたことで熟成が進んでいる。


 「……バイオハザードね」

 私はベッドから降り、つま先でコートを突っついた。

 生地はバリバリに乾いて硬化しており、動かすと茶色い粉が舞い上がる。

 「ねえ、レオ。これ、燃やした方が早くない?」


 窓際でコーヒー――ではなく、白湯を飲んでいたレオニスが振り返った。

 彼もまた、予備のシャツとスラックスに着替えている。

 「燃やすと煙が出る。近所迷惑だ」

 「じゃあ、どうするの。このままじゃ街も歩けないわ」

 「洗う」

 彼はカップを置いた。

 「コインランドリーへ行く。この宿の手洗い場では、排水管が詰まる」


 私たちは大きな麻袋に汚染された衣類を詰め込んだ。

 袋の口を縛っても、強烈な臭気が漏れ出してくる。

 まるで死体を運んでいるような気分で、私たちは安宿の階段を降りた。


 *


 路地の角にあるコインランドリーは、湿気と洗剤の粉っぽい匂いに満ちていた。

 朝の早い時間帯だ。客はいない。

 壁際に並んだ業務用の洗濯機が、銀色の口を開けて待ち構えている。


 レオニスが麻袋を逆さにし、中身を洗濯機に放り込んだ。

 ドサッ、という重い音がする。

 「洗剤は?」

 「そこにある」

 私が指差した販売機に、彼は小銭を投入した。

 小さな箱に入った粉洗剤が出てくる。

 彼はそれを箱ごと握りつぶし、洗濯槽の中にぶちまけた。


 「……乱暴ね。分量とか計らないの?」

 「汚れの量が規格外だ。洗剤も倍量でいい」

 彼は蓋を閉め、ダイヤルを「強力洗浄」に合わせてコインを入れた。


 ゴウン。

 低い駆動音が響き、水が注がれ始める。

 ガラス窓越しに見える水は、瞬く間に茶色く濁っていった。


 私たちはベンチに並んで座った。

 回転するドラムを眺める。

 衣類が水流に揉まれ、叩きつけられ、回っていく。

 単調なリズム。

 グワン、グワン、グワン。


 「……平和な音」

 私は膝を抱えた。

 「地下の唸り声とも、銃声とも違う。ただのモーターの音」

 「機械的な反復音は、脳を休める効果があるらしい」

 レオニスは足を組み、雑誌の棚から古びた新聞を手に取った。

 「終わるまで寝ていてもいいぞ」


 「寝ないわよ。ここで寝たら、またあの夢を見そうだから」

 私は洗濯機を見つめ続けた。

 茶色い水が、脱水と共に排出されていく。

 新しい水が注がれ、また回る。

 汚れが落ちていく過程を見るのは、一種のセラピーのようだった。


 「ねえ、レオ」

 「なんだ」

 「あのコート、落ちるかしら。油の染みとか」

 「無理だろうな」

 彼は新聞から目を離さずに答えた。

 「泥は落ちても、染み込んだ成分までは抜けきらん。それに、生地が傷んでいる」


 「気に入ってたのに。サイズは合ってなかったけど」

 私は少しだけ残念な気分になった。

 あのコートは、戦場で拾い、北の冬を越え、私の逃亡生活を支えてきた相棒だ。


 「新しいのを買え」

 レオニスがページをめくった。

 「経費で落とす」

 「え?」

 「王女から活動資金が出ただろう。装備の更新は任務の一環だ。みすぼらしい格好で王宮に出入りされては、こちらの品位に関わる」


 「……太っ腹ね」

 私はニヤリとした。

 「じゃあ、今度は裏地のついた暖かいやつにするわ。ポケットがたくさんあって、飴の缶が二つ入るやつ」

 「好きにしろ。ただし、派手な色は避けろ。目立つ」


 洗濯機がピーッと高い音を立てて停止した。

 洗浄終了の合図だ。

 レオニスが立ち上がり、濡れた衣類を乾燥機へと移す。

 熱風が吹き込み、湿った空気が温められる。


 再びベンチに座り、待機時間。

 私は乾燥機の中で踊る服たちを眺めた。

 さっきまでは泥の塊だった布切れが、熱風を受けてふんわりと膨らんでいく。


 「……ねえ」

 私は呟いた。

 「私たちも、あんな風に洗えればいいのにね」

 「人間は洗濯機には入らん」

 「比喩よ、比喩。過去の汚れとか、記憶の染みとか。洗剤でジャブジャブ洗って、乾燥機で乾かせたら楽なのに」


 「記憶は落ちん」

 レオニスは新聞を閉じた。

 「だが、上書きはできる。新しい布を重ねれば、下の汚れは見えなくなる」

 「……それ、ただの隠蔽工作じゃない?」

 「塗装工事と言え」


 乾燥機が止まった。

 扉を開けると、熱気と共に、清潔な石鹸の香りが溢れ出した。

 ホカホカに温まった衣類の山。

 私はその中から、自分のバスタオルを引き抜いた。


 「……あったかい」

 私はタオルに顔を埋めた。

 太陽の匂いがした。

 本当の太陽ではない。電気と熱風で作られた人工的な温もりだ。

 けれど、地下の冷たい湿気で冷え切っていた私の骨には、何よりのご馳走だった。


 「生き返るわ」

 私はタオルの繊維に頬を擦り付けた。

 「これを持って帰って、布団の中で抱いて寝たい」

 「冷める前に畳め。シワになる」


 レオニスは乾いたシャツを取り出し、手際よく畳み始めた。

 その動作は軍隊仕込みの正確さで、角と角がピタリと合っている。

 私もタオルを畳んだ。

 温もりが掌に残る。


 「帰りに服屋に寄るぞ」

 レオニスが麻袋に洗濯物を詰め込みながら言った。

 「お前のコートと、俺のシャツだ。襟が擦り切れている」

 「了解、スポンサー様」


 私たちはランドリーを出た。

 外の空気はまだ冷たかったが、袋から伝わる熱が背中を温めてくれた。

 空は高く、雲ひとつない青色が広がっている。

 絶好の洗濯日和だった。

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