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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第92話 夜明けの噴水

 噴き上がった泥水が、重力に負けてバラバラと降り注いできた。

 それは雨というより、土砂崩れに近い質量を持っていた。

 私は芝生の上で腕を頭にかざし、空から降ってくるヘドロの洗礼を耐え忍んだ。

 隣で、レオニスが舌打ちをする音が聞こえる。


 「……最悪だ」

 彼が顔についた泥を手の甲で拭った。

 「シャワーを浴びたばかりだというのに」

 「泥パックだと思いなさいよ。美肌効果があるかもしれないわ」


 轟音が止んだ。

 地下からの水圧が抜けきったのだ。

 噴水の中央、壊れた配管の先から、チョロチョロと頼りない水が溢れ出ているだけになった。

 庭園は酷い有様だった。

 手入れされた植え込みは泥に埋まり、白い砂利道は茶色い沼に変わっている。


 「……げほっ、ごほっ」

 近くの茂みから、咳き込む音が聞こえた。

 一緒に脱出した実験体たちだ。彼らは泥まみれになりながらも、太陽の光を浴びて、生きていることを確かめるように自分の体をさすっていた。


 「動くな!」

 鋭い声が響く。

 王宮の回廊から、武装した衛兵隊が駆け寄ってきた。

 銃剣を装着したライフルを構えている。

 その数、五十以上。


 実験体たちが悲鳴を上げて縮こまる。

 レオニスが彼らを庇うように前に出ようとしたが、私は彼の袖を引いて止めた。


 「見て」

 私は衛兵たちの腕章を指差した。

 そこには『蛇』のマークはない。王家の紋章だけが輝いている。

 そして、先頭に立つ隊長らしき男が、私たちに向かって銃口を向けるのではなく、敬礼をした。


 「レオニス閣下ですね」

 隊長が言った。

 「セレナ殿下より話を伺っております。『庭の掃除が終わったら、ゴミの回収を行え』と」


 隊長が合図をすると、衛兵たちは実験体たちを保護し、毛布や水筒を配り始めた。

 同時に、別の部隊が噴水の周りに散らばっていた白衣の男たち――地下から這い出してきた研究員たち――を取り押さえにかかる。


 「離せ! 私は王宮の研究員だぞ!」

 「知るか。不法侵入と器物破損の現行犯だ」

 衛兵たちは容赦なく、男たちの腕をねじ上げ、手錠をかけた。


 その中に、あの博士の姿があった。

 彼は白衣を泥だらけにし、眼鏡を失って、芝生の上を這いずり回っていた。

 手にはまだ、数枚の濡れた書類を握りしめている。


 「データが……私の計算が……」

 彼はうわ言のように呟きながら、庭園の出口へ向かおうとしていた。


 レオニスが無言で近づく。

 彼は博士の目の前に立ち塞がった。

 博士が顔を上げる。

 泥にまみれたレオニスのブーツが見える。


 「……あ、あぁ……」

 博士が後ずさる。


 「計算の時間だ」

 レオニスは冷ややかに見下ろした。

 「お前の罪状を数え上げるには、指が何本あっても足りないがな」


 彼は博士の胸倉を掴まず、ただ足元の地面を蹴った。

 泥が博士の顔にかかる。

 博士は情けなく悲鳴を上げ、駆けつけた衛兵に引き渡された。


 「連行しろ。地下牢の湿気は、頭を冷やすのに丁度いい」


 騒ぎが一段落し、庭園に静けさが戻ってきた。

 朝日が昇りきり、濡れた芝生をキラキラと照らしている。

 

 私は懐に入れていた革鞄――地下の遺体からレオニスが奪ったもの――を取り出した。

 油紙のおかげで、中身は無事だ。

 封を解く。

 中には、研究データの束と、名簿のようなものが入っていた。


 「……何が書いてある」

 レオニスが覗き込む。

 「地下の実験記録よ。琥珀色の液体の成分表とか、被験者の反応データとか」


 私はページをめくった。

 文字が踊る。

 専門用語の羅列。

 だが、最後のページに挟まれていた一枚のメモに、目が釘付けになった。


 古い紙だ。

 変色し、端が破れている。

 そこには、手書きでこう記されていた。


 『検体コード:アナスタシア』

 『適合率:測定不能』

 『備考:彼女の耳は、死者の残留思念を電気信号として受信している可能性がある。要継続調査』


 心臓がドクンと跳ねた。

 私の名前だ。

 そして、私の能力についての記述。

 これは、最近の実験データではない。もっと古い、十数年前の日付が記されている。


 「……レティ?」

 レオニスが怪訝な顔をする。

 私は咄嗟にメモを袖の中に隠した。

 「なんでもない。ただの予算申請書だったわ」


 嘘をついた。

 まだ、彼には言えない。

 私がただの「戦争孤児」ではなく、もしかしたら「作られた存在」かもしれないなんて。


 「これもセレナに渡すのか?」

 レオニスが鞄を指差す。

 「ええ。彼女なら、これを政治の道具として有効活用するでしょうね。『蛇』の尻尾を掴む証拠になるわ」


 私は鞄の口を閉じた。

 視線を感じて顔を上げる。

 王宮の三階、バルコニー。

 そこには、朝日に照らされた人影があった。

 セレナ姫だ。

 彼女はガウン姿で手すりに寄りかかり、優雅に手を振っていた。

 その手には、湯気の立つティーカップが握られている。


 「……いいご身分ね」

 私は泥だらけの顔で毒づいた。

 「こっちはドブネズミみたいな格好なのに、優雅なティータイム?」

 「雇用主の特権だ」

 レオニスもバルコニーを見上げ、軽く手を挙げた。敬礼ではなく、相棒への挨拶として。


 「終わったな」

 「ええ。少なくとも、地下の悪臭は消えたわ」


 私は大きく伸びをした。

 全身の関節がポキポキと鳴る。

 疲れた。眠い。そして何より、腹が減った。


 「帰るぞ」

 レオニスが歩き出した。

 「ミレイへの言い訳を考えなきゃならん。借りたコートが、雑巾以下になってしまった」

 「請求書はセレナに回せばいいわ」


 私は彼の隣に並んだ。

 「ねえ、朝ご飯どうする?」

 「屋根裏部屋には乾パンしかない」

 「却下。仕事終わりには甘いものが必要よ」


 私はポケットを探った。

 飴の缶は、濁流に流されて紛失してしまっていた。

 「……飴もなくなった」


 「市場に行こう」

 レオニスが私の肩に手を置いた。

 泥で汚れた手袋だったが、その重みは心地よかった。

 「焼きたてのパンと、甘いミルクを買う。金ならある」

 彼はポケットから、濡れた紙幣を取り出した。

 「昨日、ミレイから前借りした分が残っている」


 「濡れてるじゃない」

 「乾かせば使える。店の親父には嫌な顔をされるだろうがな」


 私たちは顔を見合わせて笑った。

 王宮の庭園を後にする。

 足元の泥は重かったが、足取りは軽かった。

 

 門を出ると、街はもう目覚めていた。

 新聞配達の少年が走り、パン屋の煙突から煙が上がっている。

 いつもの朝だ。

 地下の悪夢など知らぬげに、世界はまた、退屈で平和な一日を始めようとしていた。


 「急ぎましょ、レオ」

 私は彼の背中を押した。

 「クロワッサンが売り切れる前に」


 私たちは朝の光の中へ、泥だらけのまま飛び込んでいった。

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