第91話 濁流の底
肺に入り込んだ水が、咳と共に喉から噴き出した。
酸っぱい味。あの琥珀色の液体が混ざった汚水の味だ。
私はコンクリートの床に四つん這いになり、胃の中身が裏返るほど激しく咳き込んだ。
背中を叩かれる。強い衝撃。
呼吸ができるようになるまで、しばらく時間がかかった。
「……生きているか」
レオニスの声が頭上から降ってくる。
顔を上げると、彼は懐中電灯で周囲を照らしていた。
髪も服もずぶ濡れで、顔に張り付いた泥を拭おうともしていない。
「最悪よ」
私は口元の水を袖で拭った。
「全身が腐った桃の缶詰みたいな臭いがする。二度と落ちたくないわ」
「同意する。だが、おかげで熱源からは離れた」
彼は光を回した。
私たちが打ち上げられたのは、巨大な地下貯水槽の縁だった。
上流からドロドロとした濁流が流れ込み、水位は見る見るうちに上がっている。
轟音が響く。
上の階層で起きている崩落の音が、ダクトや配管を伝って反響しているのだ。
「行くぞ。水没する前に上へ出る」
レオニスが私の腕を引いて立たせた。
長靴の中に水が入って重い。歩くたびにグジュリと不快な音がする。
貯水槽の脇に、搬出用のプラットホームがあった。
そこには、逃げ遅れたと思われる白衣の男が一人、瓦礫の下敷きになって倒れていた。
手には革の鞄が握りしめられている。
レオニスは男の脈を確認し、首を横に振った。
そして、男の手から鞄を強引に引き抜いた。
「……泥棒?」
「遺品整理だ」
レオニスは鞄の中身を確認した。
濡れないように油紙で包まれた書類の束と、数本の試験管。
「研究データとサンプルのようだ。持ち出す手間が省けた」
彼は鞄を肩にかけ、プラットホームの奥にある鉄扉を蹴り開けた。
その瞬間、耳をつんざくような悲鳴が飛び込んできた。
――開けて!
――水が来る!
――死にたくない!
物理的な声だ。
鉄格子の向こう側から、大勢の人間が叫んでいる。
「……ここ、実験体の廃棄場ね」
私はライトを向けた。
広い空間に、大きな檻が一つ。
その中には、使い潰される寸前だった人々――「失敗作」として処理を待っていた実験体たち――が詰め込まれていた。
足元まで水が迫っている。彼らは格子に張り付き、我先にと手を伸ばしていた。
「無視するぞ」
レオニスが冷淡に言った。
「鍵を探している時間はない。上の崩落が始まっている」
彼は迷わず、脇にあるメンテナンス用の通路へ向かおうとした。
私は動かなかった。
耳を澄ます。
檻の中の人々の声。
恐怖。絶望。
そして、その奥にある、微かな「音」。
カチリ、カチリ。
「……レオ」
私は彼を呼び止めた。
「鍵ならあるわ」
「どこだ」
「あの死体が持ってた」
私はさっきの白衣の男を指差した。
レオニスは舌打ちをし、戻って男のポケットを探った。
ジャラリと金属音がして、鍵束が出てくる。
「お前のお人好しには、いつか殺される気がするな」
彼は鍵束を檻の方へ投げた。
鉄格子に当たって、カランと床に落ちる。
「鍵だ! 開けろ!」
中の一人が鍵を拾い、震える手で錠前に差し込む。
ガチャリ。
扉が開いた。
人々が雪崩のように飛び出してくる。
我先にと出口へ向かう彼らの波に、私たちは揉みくちゃにされた。
「走れ!」
レオニスが怒鳴り、天井に向けて一発発砲した。
銃声に驚いて、パニック状態の群衆が一瞬静まる。
「出口はあっちだ! 俺についてこなければ、全員瓦礫の下敷きだ!」
彼は群衆を統率し、メンテナンス通路へと誘導した。
私は最後尾についた。
背後で、貯水槽の壁が水圧に耐えきれず決壊する音がした。
濁流が、さっきまで私たちがいた場所を飲み込んでいく。
*
メンテナンス通路の先には、巨大な吹き抜けがあった。
中央に、錆びついた貨物用のエレベーターがある。
金網で囲まれただけの、無骨な昇降機だ。
「乗れ! 詰めろ!」
レオニスが人々を檻の中に押し込む。
定員オーバーだ。床板がきしんでいる。
ワイヤーが悲鳴を上げているのが聞こえた。
――重い。
――切れる。
――もう無理だ。
「……レオ、限界よ」
私は金網にしがみついた。
「これ以上乗せたら落ちるわ」
「全員乗ったか?」
「たぶんね」
レオニスが操作盤のレバーを倒した。
ガコン!
大きな衝撃と共に、エレベーターが動き出した。
ガガガガガ……。
錆びた歯車が噛み合い、遅々とした速度で上昇を始める。
下を見ると、水がすぐそこまで迫っていた。
茶色い渦が、エレベーターシャフトの底を洗い、這い上がってくる。
「遅い」
レオニスが天井を見上げた。
上からは、パラパラと小石が落ちてきている。
「崩落の方が早いかもしれん」
私はエレベーターの壁に耳を当てた。
モーターの音を聞く。
古い電動モーターだ。電圧が足りていない。
――力が出ない。
――油が足りない。
――熱い。コイルが焼ける。
「モーターが悲鳴を上げてる」
私はレオニスに告げた。
「このままだと途中で止まるわ。負荷を減らさないと」
「人間を捨てるわけにはいかんぞ」
「人間じゃないわ。お荷物よ」
私はエレベーターの隅に積まれていた木箱を指差した。
元々積まれていた資材だ。
「手伝って! これを捨てるのよ!」
私は叫び、近くにいた男たちに指示した。
我に返った実験体たちが、協力して木箱を持ち上げる。
金網の隙間から外へ落とす。
ドボン、ドボン。
水音が響くたびに、エレベーターの上昇速度がわずかに増す。
だが、まだ足りない。
頭上で、嫌な音がした。
バキン!
シャフトのガイドレールを支えるボルトが、一本弾け飛んだのだ。
エレベーターが大きく揺れ、傾く。
悲鳴が上がる。
「右だ!」
私は叫んだ。
「右のワイヤーが切れかかってる! 全員、左に寄って!」
群衆が左へ移動する。
バランスが戻る。
だが、上昇は止まりかけていた。
モーターから焦げ臭い煙が出始めている。
「……くそッ」
レオニスが操作盤を叩いた。
「あと少しなんだ。動け!」
上には、地上の光が見えていた。
噴水の底、あのグレーチングの隙間から漏れる朝の光。
だが、そこまでの距離が遠い。
私は目を閉じた。
機械の声を聞く。
モーターを励ます? そんなオカルトは通用しない。
構造上の欠陥を探すのよ。
どこかに、ブレーキがかかっている場所があるはずだ。
キリキリ、キリキリ。
聞こえた。
滑車の一つ。錆びついて回転が悪くなっている。
それが抵抗になって、モーターの足を引っ張っている。
「レオ! 上! 右奥の滑車!」
私は指差した。
「あいつが錆びついて動かないの! 衝撃を与えれば回るかもしれない!」
レオニスは即座に銃を構えた。
狙うのは、遥か頭上、暗闇の中にある小さな滑車。
揺れる足場。
水と油で汚れた視界。
「外せばワイヤーごと切れるぞ」
「信じてるわよ、元将軍」
レオニスが息を止めた。
一瞬の静寂。
パン!
銃声がシャフトに響き渡る。
火花が散った。
弾丸は滑車の縁を正確に捉え、その衝撃で固着していた錆を粉砕した。
ギャリン!
滑車が回り出す。
抵抗が消え、エレベーターがガクンと加速した。
「よし!」
歓声が上がる。
エレベーターは唸りを上げ、光に向かって昇っていく。
下からは、濁流が追いかけてくるが、もう届かない。
ガゴン!
エレベーターが最上階――噴水の直下で停止した。
レオニスが天井の金網を蹴り開け、梯子を登る。
彼は地上のグレーチングを肩で押し上げ、光の中へと出た。
「上がれ! 早く!」
彼が上から手を差し伸べる。
人々が次々と梯子を登り、地上へと脱出していく。
最後に、私が登った。
レオニスの手が、私の手首を掴んで引き上げる。
地上に出た瞬間、眩しい光が目を焼いた。
新鮮な空気。
そして、鳥の声。
直後、足元で轟音がした。
地下から吹き上げた水圧が、エレベーターシャフトを逆流し、噴水のように噴き上がったのだ。
泥水と瓦礫の柱が、王宮の中庭に高くそびえ立った。
私たちは濡れた芝生の上に転がり込み、その光景を見上げていた。
琥珀色の悪夢は、濁流に流され、地下深くへと沈んでいった。




