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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第90話 琥珀の亀裂

 万年筆のペン先が、博士の喉元の皮膚を僅かに凹ませていた。

 金属の冷たさに触れ、彼の喉仏が上下に動く。

 額から流れ落ちた脂汗が、眼鏡のレンズに滴り落ちた。


 「……止められない」

 博士が掠れた声で言った。

 「一度起動したら、サイクルが終わるまで停止できない設計だ。無理に止めれば……」

 「爆発する?」

 「逆流する。この部屋が、濃縮された思念の汚染区域になる」


 部屋の外では、巨大な装置が唸りを上げ続けている。

 ブゥゥゥン、という低周波の振動が、ガラス壁を震わせ、床を伝って足の裏を痺れさせていた。

 水槽の中の琥珀色の液体は激しく撹拌かくはんされ、気泡が白濁した層となって渦巻いている。


 私はペン先を押し込んだ。

 「嘘ね」

 「なっ……」

 「機械が悲鳴を上げてるわ。『熱い』『回らない』『継ぎ目が裂ける』って」


 私は視線を外さずに、部屋の隅で膝をついているレオニスに意識を向けた。

 彼はまだ頭を抱え、床に額を打ち付けていた。

 歯を食い縛る音が聞こえる。

 全身の筋肉が強張り、血管が浮き出ている。

 思考干渉波の直撃を受け、脳が焼けるような負荷に耐えているのだ。


 「……レオ」

 私は呼びかけた。

 「聞こえる? 私の声」


 レオニスが僅かに顔を上げた。

 充血した目が私を捉える。

 焦点は定まっていない。だが、その手は床に落ちた拳銃を探って動いていた。


 「撃って」

 私は言った。

 「あの機械、完璧じゃない。急造品よ。無理やり出力を上げてるせいで、部品が悲鳴を上げてる場所がある」


 博士が顔色を変えた。

 「何を……素人に何がわかる!」


 「わかるわよ。不協和音がしてるもの」

 私は耳を澄ませた。

 装置全体の轟音。

 液体が流れる音。

 その奔流の中で、一つだけ、リズムの狂った高い金属音が混じっている。


 キリキリ、キリキリ。


 回転軸ではない。

 圧力がかかりすぎたパイプの接合部。

 そこが振動し、留め具が緩みかけている音。


 「……正面」

 私は叫んだ。

 「中央のメインタンク。下から二番目の赤いバルブ! あそこのボルトが緩んでる。空気が漏れる音がするわ!」


 レオニスが銃を掴んだ。

 手が震えている。

 照準が定まらない。

 頭痛と眩暈めまいが、彼の手元を狂わせている。


 「……くっ」

 レオニスが呻く。

 引き金に指がかかるが、引けない。


 「やめろ!」

 博士が叫んだ。

 「あそこを撃てば、圧力のバランスが崩れる! 冷却系が破裂して……」


 「それが狙いよ」

 私は博士の胸を蹴り飛ばした。

 彼は椅子ごと後ろに倒れ、書類の山に突っ込んだ。


 私は机の上のマイク――構内放送用のスイッチ――を掴んだ。

 スイッチを入れる。

 スピーカーがハウリングを起こす。


 キィィィィン!


 「レオ! 今!」

 私はマイクに向かって怒鳴った。

 スピーカーからの大音量が、思考干渉波のノイズを一瞬だけ物理的に塗り潰す。


 その一瞬の隙間。

 レオニスの瞳から迷いが消えた。

 長年染み付いた射撃の記憶が、震える筋肉を強制的に統制する。


 パン!


 乾いた銃声。

 硝煙が漂う。


 ガラスの向こう、巨大なタンクの下部で、火花が散った。

 赤いバルブが弾け飛ぶ。


 プシューッ!!


 耳をつんざくような噴出音。

 白い蒸気が猛烈な勢いで吹き出した。

 冷却ガスだ。

 パイプが破裂し、行き場を失った圧力が連鎖的に他の配管を破壊していく。


 バキン、バキン、ドォン!


 固定金具が弾け、太いパイプが鞭のように暴れ回る。

 琥珀色の水槽の一つに、パイプが直撃した。


 ガシャーン!


 分厚い強化ガラスが砕け散る。

 中に入っていた粘り気のある液体が、床にぶちまけられた。

 液体は空気に触れると急速に酸化し、茶色く変色しながら腐敗臭を放ち始めた。


 「……あ、あぁ……」

 博士が床を這いずりながら呻いた。

 「私のデータが……研究が……」


 干渉波が止まった。

 頭の中を掻き回していた不快な音が消え、代わりに物理的な破壊音だけが残る。


 レオニスが床に手をつき、荒い息を吐いていた。

 汗が顎から滴り落ちる。

 「……効いたな」

 彼はふらつきながら立ち上がり、銃をホルスターに戻した。

 「だが、静かにはならんようだ」


 部屋の外では、破壊の連鎖が止まらなかった。

 制御を失った装置が暴走し、過負荷でモーターが火を噴いている。

 天井の散水機が作動し、冷たい水が降り注ぎ始めた。


 「逃げるわよ」

 私はレオニスの肩を貸した。

 「この臭い、長く嗅いでると鼻が曲がりそう」

 床に広がった琥珀色の液体から、甘ったるい腐臭が立ち上っている。


 「待て!」

 博士が私の足にすがりついた。

 「連れて行け! ここに置いていけば死ぬ! 私は重要参考人だぞ!」


 レオニスが冷ややかに見下ろした。

 「重要参考人なら、証拠を守る義務があるな」

 彼は博士の手を蹴り離した。

 「お前の愛するデータと一緒に、ここで燃え尽きろ」


 「慈悲はないのか!」

 「慈悲?」

 レオニスは鼻で笑った。

 「俺たちが壊したNo.49にも、同じことを言ってやれ」


 私たちは司令室を出た。

 階段を駆け下りる。

 床は琥珀色の液体と水でぬるぬると滑り、歩くだけで足を取られる。

 液体に触れたブーツの底が、ジュッという音を立てて白煙を上げた。

 強酸性だ。


 「……触るなよ」

 レオニスが注意する。

 「肉が溶ける」


 私たちは通路を走り、来た道を戻ろうとした。

 だが、前方の天井が崩落し、コンクリートの塊が道を塞いでいた。

 爆発の衝撃で、建物の構造自体が歪み始めている。


 「道がない」

 レオニスが瓦礫を押し退けようとしたが、びくともしない。

 「別のルートを探せ」


 私は耳を澄ませた。

 破壊音と警報音の向こう側。

 風の音。水の音。

 

 ――流れる。

 ――広い場所へ。

 ――下だ。もっと下。


 「……下よ」

 私は床のグレーチングを指差した。

 「排水路。この汚い液体が流れ込んでいく先。そこなら外に繋がってるはず」


 レオニスがグレーチングを引き剥がした。

 下には、濁流となった排水が轟音を立てて流れている。

 深さはわからない。

 だが、ここに留まれば蒸し焼きか、生き埋めだ。


 「飛び込むぞ」

 レオニスが躊躇ためらいなく言った。

 「鼻をつまめ。味見はするなよ」


 私たちは暗い水面に向かって身を投げた。

 冷たさと、腐敗した臭気が全身を包み込む。

 流れは速い。

 私はレオニスの腕を掴み、濁流の中へと流されていった。

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