第9話 喧騒の都と地下室の検品作業
路面が変わった。
タイヤが泥を噛む粘着質な音から、硬いブロックを叩く乾いた振動へと変化する。
私は助手席の窓枠に肘をつき、流れる景色を眺めた。
瓦礫の山は姿を消し、代わりに整然と積まれたレンガ造りの建物が壁を作っている。
王都だ。
高い尖塔。ガラスの入った窓。そして、行き交う人々の服には色がついていた。
「賑やかね」
私は呟いた。
物理的な音の話ではない。
古い街には、古い死者が溜まる。
路地裏、建物の基礎、橋の欄干。数百年分の「未練」が、地層のように重なってノイズを発している。
戦場の死者が「叫び」だとすれば、都市の死者は「羽音」だ。低く、絶え間なく、鼓膜の裏を撫で回してくる。
「頭痛か」
レオニスがハンドルを切りながら聞いた。
「少しね。田舎のほうが空気は澄んでたかも」
「慣れろ。ここは戦後処理の最前線だ。生きた人間も死んだ人間も、すべてここに集まってくる」
ジープは巨大な鉄柵の前で減速した。
灰色の石材で組まれた、要塞のような建物。
門番が敬礼し、重い鉄扉が開かれる。
敷地内に入ると、そこはさらに異質な空間だった。
軍服を着た男たちと、背広を着た文官たちが、蟻のように行き交っている。
誰もが書類の束を抱え、早口で何かを喚き散らしていた。
レオニスが車を止める。
「降りろ。昼食の前に一仕事ある」
「荷ほどきもまだなのに?」
「荷ほどきが必要なほどの荷物を持っていないだろう」
正論だ。私はポケットのチョコレートの包み紙を確認し、ドアを開けた。
地面に降り立つと、紙の乾いた匂いと、微かな薬品臭が鼻をついた。
*
建物の中は迷路だった。
長い廊下が続き、左右の部屋からはタイプライターを叩く音が機関銃のように響いている。
レオニスは迷いなく進んでいく。
すれ違う職員たちが、壁に張り付いて彼に道を譲る。
「閣下、お戻りですか」
「北部の報告書はまだか」
「第三倉庫の空きがありません!」
レオニスは歩調を緩めず、短く指示を飛ばしていく。
「北部は後回しだ。第三倉庫が満杯なら第四を開けろ。鍵は総務課にある」
私は彼の背中の影を踏まないように距離を保ちながら、周囲を観察した。
壁には行方不明者のリストが張り出され、床には開封された木箱が放置されている。
ここには「勝利」の華やかさはない。あるのは膨大な「後始末」だけだ。
レオニスは階段の前で足を止めた。
上へ行く煌びやかな手すりのついた階段ではなく、奥にある、鉄の扉で閉ざされた下り階段だ。
「ここから先は管理区域だ」
彼は懐から一枚の金属プレートを取り出し、私の首にかけた。
『臨時職員証』と刻印されている。
「無くすな。それがないと憲兵に捕まる」
「首輪みたいで素敵ね」
「リードは持っていない。自分の足で歩け」
彼は鉄の扉を開けた。
冷たく、重い空気が吹き上げてくる。
防腐剤の匂いだ。
*
地下室は広大だった。
天井には太い配管が走り、裸電球が等間隔で並んでいる。
その光の下に、白い布で覆われた長方形の物体が、数百、いや数千と並んでいた。
棺だ。
あるいは、棺にすら入れてもらえなかった、袋詰めの何か。
入り口のデスクに、一人の男が座っていた。
厚い眼鏡をかけ、顔色が悪い。机の上にはボロボロの台帳が広げられている。
「……閣下。早かったですね」
男は立ち上がらず、気だるげにペンを置いた。
「検品作業員を連れてきた。今日中にCブロックを片付ける」
レオニスが私を顎で示した。
眼鏡の男が私を見る。
「女? ここは遺体安置所ですよ。吐いて掃除の手間を増やすなら、帰ってミルクでも飲んでいたほうがいい」
「ミルクは好きよ。でも今は仕事のほうが優先みたい」
私は言い返し、並んでいる遺体の列を見た。
ここに来た瞬間から、脳内ラジオは大混雑だ。
さっきの街の騒音とは違う。ここは「個」の主張が激しい。
――俺だ。俺はここにいる。
――名札が違う。俺は二等兵じゃない。
――右手が。右手が別の奴のと混ざってる。
「うっ……」
私は口元を押さえた。
匂いではない。音圧に酔ったのだ。
レオニスが私の背中を軽く叩く。
「選んで聞けと言ったはずだ。全部拾うな」
「……努力するわ」
私は深呼吸をし、意識のフィルターを調整した。
ざわめきを遠ざけ、目の前の一体に集中する。
Cブロックの一番手前。
名前のタグがついていない、ただの袋だ。
「この袋、中身は何?」
私が聞くと、眼鏡の男が台帳をめくった。
「西部戦線からの回収品です。損傷が激しく、身元不明。所持品なし」
私は袋の結び目に手を触れた。
布越しに、冷たい肉の感触がある。
――カタリナ。
小さな声が聞こえた。
――カタリナに、返さなきゃ。借りた本。
――栞を挟んだままだ。
「……本を借りてるって」
私は男に告げた。
「カタリナという女性から。栞を挟んだまま返していないことを気にしてる」
眼鏡の男が鼻で笑う。
「妄想ですか? そんな情報は台帳にない」
「袋を開けて」
レオニスが命じた。
「えっ、しかし」
「開けろ」
男は渋々立ち上がり、手袋をはめて袋の紐を解いた。
強烈な腐臭が広がる。
中には、黒く変色した遺体の一部と、泥にまみれた衣服の残骸が入っていた。
男はピンセットで衣服のポケットを探る。
「……何もありませんよ。ただの紙屑が……」
男が取り出したのは、血と泥で固まった紙の塊だった。
それを慎重に剥がす。
文庫本のページのようなものが現れた。その間に、押し花のようなものが挟まっている。
「栞だ」
レオニスが覗き込む。
「紙の裏に、貸出人の署名があるはずだ」
男が目を細める。
「……『カタリナ蔵書』……」
地下室に沈黙が落ちた。
配管を流れる水の音だけが響く。
「次だ」
レオニスは驚きを見せず、次の遺体を指差した。
「この部屋にある『不明』の札をすべて『既知』に変える。それが今日のノルマだ」
私はため息をつき、次の袋へ歩を進めた。
眼鏡の男が、慌てて新しいページを開き、ペンのキャップを外す音がした。
ペン先には、まだ乾いていない青い染料が光っていた。
「……ねえ、将軍」
私は袋に手を伸ばしながら言った。
「この部屋、何体あるの?」
「三百だ」
「残業代、弾んでよね」
――寒い。
――俺の名前は。
私は次の声に耳を傾けた。
胃の奥から込み上げる酸っぱいものを、唾と一緒に飲み込みながら。




