第89話 琥珀色の水槽
重厚な扉を押し開けると、湿った空気の流れが変わった。
先ほどまでの鉄錆と泥水の臭いは消え、代わりに鼻孔を満たしたのは、熟れすぎた果実が腐りかけたような、濃厚で甘ったるい芳香だった。
私は思わず袖で鼻を覆い、顔をしかめた。
「……何この臭い。ジャムを焦がした鍋の底みたいな匂いがする」
「警戒しろ。有毒ガスの類かもしれん」
レオニスがハンカチで口元を覆い、先に足を踏み入れる。
彼が構えた懐中電灯の光が、部屋の奥へと伸びた。
そこは、研究室というよりは、巨大な貯蔵庫のようだった。
高い天井まで届く円筒形の水槽が、壁に沿って何本も並んでいる。
水槽の中は、琥珀色の液体で満たされていた。
底から気泡が立ち上り、ボコッ、ボコッという低い音を立てている。
部屋全体が、液体の色を反映して黄色く濁った光に包まれていた。
「……綺麗ね」
私は皮肉を込めて呟いた。
「中身が何かわからなければ、の話だけど」
私は一番手前の水槽に近づいた。
ガラスの表面は結露して濡れている。
指で拭うと、中の液体が対流しているのが見えた。
ただの液体ではない。
粘り気があり、時折、白い澱のようなものが形を作っては消えていく。
耳を澄ます。
水槽のガラス越しに、中の「音」を拾う。
――嬉しい。
――悲しい。
――痛い。
――愛してる。
「うっ……」
私はこめかみを押さえて後ずさった。
言葉ではない。
感情だ。
人間の喜怒哀楽が、ミキサーにかけられてドロドロのスープになったような、強烈な情動の波。
個人の人格は消滅しているが、感情の断片だけが溶けずに漂っている。
「どうした」
レオニスが私の肩を支える。
「何が入っている」
「……心よ」
私は吐き気をこらえて答えた。
「人間の心をすり潰して、液体にしたもの。北の工場では『恐怖』を抜いて捨てていたけど、ここでは『感情』そのものを抽出して溜め込んでる」
レオニスが水槽の基部を見る。
太いパイプが床下から伸び、水槽に接続されていた。
「さっきの牢獄から繋がっているのか。廃人になった実験体から搾り取った残りカスか」
私たちは水槽の列を抜け、部屋の中央へと進んだ。
そこには、工場のラインのような作業台が並んでいた。
ベルトコンベアの上には、ヘルメットのような形状の金属枠が流れている。
その額の部分に、赤い石――人工的に生成されたと思われる小さな結晶――が嵌め込まれていた。
「量産ラインだな」
レオニスが作業台の一つから、完成品らしきヘッドギアを拾い上げた。
「北の廃鉱山にあった装置の小型版だ。これを被せれば、対象の思考をジャックできる」
「動力源は?」
私が聞くと、彼は水槽の方を顎でしゃくった。
「あの液体だろう。感情エネルギーを燃料にして、強制的な同調波を出す」
部屋の最奥。
一段高くなった場所に、ガラス張りの司令室があった。
そこだけ白い照明が灯り、一人の男がデスクに向かっているのが見えた。
白衣を着ている。
背中を丸め、熱心に何かを書き記している。
「……責任者か」
レオニスが銃を構え、足音を消して階段を登り始めた。
私も続く。
長靴のゴム底が、階段の滑り止めに食い込む。
ガラス戸の前まで来た。
男は気づいていない。
彼はデスクの上に広げた図面に没頭し、右手でペンを走らせていた。
カツカツカツ、という硬い筆記音が、ガラス越しに微かに聞こえる。
レオニスがドアノブに手をかけ、一気に回した。
バン、とドアが開く。
「動くな」
レオニスが銃口を男の後頭部に向けた。
「手を上げろ。ゆっくりだ」
男のペンの動きが止まった。
彼は驚いた様子もなく、ペンをトレイに置き、ゆっくりと回転椅子を回した。
「……やれやれ」
男がこちらを向く。
整えられた銀髪に、銀縁の眼鏡。
顔立ちは知的だが、目の奥には他者への共感性が欠落した、冷たい理性の光が宿っていた。
年齢は五十代半ばだろうか。白衣の胸ポケットには、何本もの色ペンが刺さっている。
「ノックくらいしたまえ。計算が狂う」
男は銃口を向けられているにも関わらず、淡々と言った。
「君たちが来るのは予測していたが、計算より三分早い。私の式に誤差が出たな」
「誤差の修正をしに来た」
レオニスが距離を詰める。
「この施設の責任者だな。実験を中止しろ」
「中止? なぜ?」
男は心底不思議そうに首を傾げた。
「ここは順調だ。琥珀液の純度も上がっている。あと一週間もすれば、王都全域をカバーできる出力が得られるというのに」
「そのために何人を壊した」
「四十八人だ」
男は即答した。
「貴重なサンプルだったよ。特にNo.49……君たちが廊下で壊した個体は、聴覚遮断による集中力の向上が見られた優秀な例だった」
私は男の前に進み出た。
「あんた、自分が何をしてるかわかってるの?」
「科学の進歩だ」
男は私を見た。
その視線が、私の顔、そして耳に止まる。
「……ほう」
男が眼鏡の位置を直した。
「君か。北の工場を潰したという『耳のいい子供』は」
彼は興味深そうに身を乗り出した。
「聞こえるのかね? あの水槽の中身の声が」
「うるさいくらいにね」
私は睨み返した。
「みんな、あんたを呪ってるわよ。『痛い』『返せ』って」
「素晴らしい!」
男が手を叩いた。
「実に興味深い。通常、あの混合液からは個別の思念は消失するはずだ。それを聞き分けられる聴覚野……君の脳は、最高のパーツになりそうだ」
男の目が、実験動物を見る目に変わった。
解剖して、切り刻んで、中身を確かめたいという純粋な欲求。
「……下がれ、レティ」
レオニスが私を背後に隠した。
「この男は狂っている」
「狂っているのは世界の方だよ、将軍」
男はデスクの上のスイッチに手をかけた。
「感情などという不確定な要素が、争いを生むのだ。全てを統合し、一つの意志の下に管理すれば、争いはなくなる」
「それを独裁と呼ぶ」
「秩序と呼んでくれたまえ」
男がスイッチを押した。
カチリ、という乾いた音が響く。
その瞬間、部屋の外、琥珀色の水槽が一斉に沸騰したかのように泡立ち始めた。
ボコボコボコッ!
パイプの中を液体が高速で循環する音がする。
そして、部屋の中央にある巨大な装置――量産ラインの親機にあたる部分――が、低いうなり声を上げ始めた。
ブゥゥゥゥン……。
「……何をした」
レオニスが引き金に指をかける。
「テストランだ」
男は笑った。
「最大出力での思考干渉波。君たちの脳が、この『琥珀の叫び』にどこまで耐えられるか、データ取らせてもらうよ」
キィィィィィン!
不快な高音が、鼓膜を突き破って脳髄に直接突き刺さった。
耳鳴りではない。
脳が揺さぶられる感覚。
水槽の中の数千人の感情が、増幅されて襲いかかってくる。
「ぐっ……!」
レオニスが膝をついた。
彼は銃を取り落とし、両手で頭を抱えた。
「……あ、ああああ……!」
強い意志を持つ彼でさえ、立っていられない。
脳を直接ハッキングされているのだ。
「ははは! そうだ、その反応だ!」
男が狂喜する。
「苦しいか? 悲しいか? それとも、何も考えられなくなる快感か?」
私は歯を食いしばった。
頭が痛い。
ガンガンと鐘を鳴らされているようだ。
だが、レオニスのように崩れ落ちてはいなかった。
私の耳は、常に死者の声というノイズに晒されている。
この程度の「雑音」なら、日常茶飯事だ。
私は耐性がある。
私はポケットから、リサのくれた気付け薬の瓶を取り出した。
蓋を開ける。
強烈なアンモニア臭を吸い込み、意識を強制的に覚醒させる。
「……うるさいのよ」
私はふらつく足で、男のデスクに向かって歩き出した。
「ボリュームを下げなさい、このヤブ医者!」
男の笑顔が凍りついた。
「な、なぜ動ける? この出力なら、自我が崩壊するはずだぞ」
「私の自我は、もっと頑丈にできてるのよ」
私はデスクの上のペン立てを掴んだ。
先の尖った万年筆。
それを逆手に持ち、男の喉元に突きつける。
「さあ、実験終了よ。スイッチを切りなさい」




