表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

89/131

第89話 琥珀色の水槽

 重厚な扉を押し開けると、湿った空気の流れが変わった。

 先ほどまでの鉄錆と泥水の臭いは消え、代わりに鼻孔を満たしたのは、熟れすぎた果実が腐りかけたような、濃厚で甘ったるい芳香だった。

 私は思わず袖で鼻を覆い、顔をしかめた。


 「……何この臭い。ジャムを焦がした鍋の底みたいな匂いがする」

 「警戒しろ。有毒ガスの類かもしれん」

 レオニスがハンカチで口元を覆い、先に足を踏み入れる。

 彼が構えた懐中電灯の光が、部屋の奥へと伸びた。


 そこは、研究室というよりは、巨大な貯蔵庫のようだった。

 高い天井まで届く円筒形の水槽が、壁に沿って何本も並んでいる。

 水槽の中は、琥珀色の液体で満たされていた。

 底から気泡が立ち上り、ボコッ、ボコッという低い音を立てている。

 部屋全体が、液体の色を反映して黄色く濁った光に包まれていた。


 「……綺麗ね」

 私は皮肉を込めて呟いた。

 「中身が何かわからなければ、の話だけど」


 私は一番手前の水槽に近づいた。

 ガラスの表面は結露して濡れている。

 指で拭うと、中の液体が対流しているのが見えた。

 ただの液体ではない。

 粘り気があり、時折、白いおりのようなものが形を作っては消えていく。


 耳を澄ます。

 水槽のガラス越しに、中の「音」を拾う。


 ――嬉しい。

 ――悲しい。

 ――痛い。

 ――愛してる。


 「うっ……」

 私はこめかみを押さえて後ずさった。

 言葉ではない。

 感情だ。

 人間の喜怒哀楽が、ミキサーにかけられてドロドロのスープになったような、強烈な情動の波。

 個人の人格は消滅しているが、感情の断片だけが溶けずに漂っている。


 「どうした」

 レオニスが私の肩を支える。

 「何が入っている」


 「……心よ」

 私は吐き気をこらえて答えた。

 「人間の心をすり潰して、液体にしたもの。北の工場では『恐怖』を抜いて捨てていたけど、ここでは『感情』そのものを抽出して溜め込んでる」


 レオニスが水槽の基部を見る。

 太いパイプが床下から伸び、水槽に接続されていた。

 「さっきの牢獄から繋がっているのか。廃人になった実験体から搾り取った残りカスか」


 私たちは水槽の列を抜け、部屋の中央へと進んだ。

 そこには、工場のラインのような作業台が並んでいた。

 ベルトコンベアの上には、ヘルメットのような形状の金属枠が流れている。

 その額の部分に、赤い石――人工的に生成されたと思われる小さな結晶――が嵌め込まれていた。


 「量産ラインだな」

 レオニスが作業台の一つから、完成品らしきヘッドギアを拾い上げた。

 「北の廃鉱山にあった装置の小型版だ。これを被せれば、対象の思考をジャックできる」

 「動力源は?」

 私が聞くと、彼は水槽の方を顎でしゃくった。

 「あの液体だろう。感情エネルギーを燃料にして、強制的な同調波を出す」


 部屋の最奥。

 一段高くなった場所に、ガラス張りの司令室があった。

 そこだけ白い照明が灯り、一人の男がデスクに向かっているのが見えた。

 白衣を着ている。

 背中を丸め、熱心に何かを書き記している。


 「……責任者か」

 レオニスが銃を構え、足音を消して階段を登り始めた。

 私も続く。

 長靴のゴム底が、階段の滑り止めに食い込む。


 ガラス戸の前まで来た。

 男は気づいていない。

 彼はデスクの上に広げた図面に没頭し、右手でペンを走らせていた。

 カツカツカツ、という硬い筆記音が、ガラス越しに微かに聞こえる。


 レオニスがドアノブに手をかけ、一気に回した。

 バン、とドアが開く。


 「動くな」

 レオニスが銃口を男の後頭部に向けた。

 「手を上げろ。ゆっくりだ」


 男のペンの動きが止まった。

 彼は驚いた様子もなく、ペンをトレイに置き、ゆっくりと回転椅子を回した。


 「……やれやれ」

 男がこちらを向く。

 整えられた銀髪に、銀縁の眼鏡。

 顔立ちは知的だが、目の奥には他者への共感性が欠落した、冷たい理性の光が宿っていた。

 年齢は五十代半ばだろうか。白衣の胸ポケットには、何本もの色ペンが刺さっている。


 「ノックくらいしたまえ。計算が狂う」

 男は銃口を向けられているにも関わらず、淡々と言った。

 「君たちが来るのは予測していたが、計算より三分早い。私の式に誤差が出たな」


 「誤差の修正をしに来た」

 レオニスが距離を詰める。

 「この施設の責任者だな。実験を中止しろ」


 「中止? なぜ?」

 男は心底不思議そうに首を傾げた。

 「ここは順調だ。琥珀液の純度も上がっている。あと一週間もすれば、王都全域をカバーできる出力が得られるというのに」


 「そのために何人を壊した」

 「四十八人だ」

 男は即答した。

 「貴重なサンプルだったよ。特にNo.49……君たちが廊下で壊した個体は、聴覚遮断による集中力の向上が見られた優秀な例だった」


 私は男の前に進み出た。

 「あんた、自分が何をしてるかわかってるの?」

 「科学の進歩だ」

 男は私を見た。

 その視線が、私の顔、そして耳に止まる。


 「……ほう」

 男が眼鏡の位置を直した。

 「君か。北の工場を潰したという『耳のいい子供』は」

 彼は興味深そうに身を乗り出した。

 「聞こえるのかね? あの水槽の中身の声が」


 「うるさいくらいにね」

 私は睨み返した。

 「みんな、あんたを呪ってるわよ。『痛い』『返せ』って」


 「素晴らしい!」

 男が手を叩いた。

 「実に興味深い。通常、あの混合液からは個別の思念は消失するはずだ。それを聞き分けられる聴覚野……君の脳は、最高のパーツになりそうだ」


 男の目が、実験動物を見る目に変わった。

 解剖して、切り刻んで、中身を確かめたいという純粋な欲求。


 「……下がれ、レティ」

 レオニスが私を背後に隠した。

 「この男は狂っている」


 「狂っているのは世界の方だよ、将軍」

 男はデスクの上のスイッチに手をかけた。

 「感情などという不確定な要素が、争いを生むのだ。全てを統合し、一つの意志の下に管理すれば、争いはなくなる」


 「それを独裁と呼ぶ」

 「秩序と呼んでくれたまえ」


 男がスイッチを押した。

 カチリ、という乾いた音が響く。


 その瞬間、部屋の外、琥珀色の水槽が一斉に沸騰したかのように泡立ち始めた。

 

 ボコボコボコッ!


 パイプの中を液体が高速で循環する音がする。

 そして、部屋の中央にある巨大な装置――量産ラインの親機にあたる部分――が、低いうなり声を上げ始めた。


 ブゥゥゥゥン……。


 「……何をした」

 レオニスが引き金に指をかける。


 「テストランだ」

 男は笑った。

 「最大出力での思考干渉波。君たちの脳が、この『琥珀の叫び』にどこまで耐えられるか、データ取らせてもらうよ」


 キィィィィィン!


 不快な高音が、鼓膜を突き破って脳髄に直接突き刺さった。

 耳鳴りではない。

 脳が揺さぶられる感覚。

 水槽の中の数千人の感情が、増幅されて襲いかかってくる。


 「ぐっ……!」

 レオニスが膝をついた。

 彼は銃を取り落とし、両手で頭を抱えた。

 「……あ、ああああ……!」


 強い意志を持つ彼でさえ、立っていられない。

 脳を直接ハッキングされているのだ。


 「ははは! そうだ、その反応だ!」

 男が狂喜する。

 「苦しいか? 悲しいか? それとも、何も考えられなくなる快感か?」


 私は歯を食いしばった。

 頭が痛い。

 ガンガンと鐘を鳴らされているようだ。

 だが、レオニスのように崩れ落ちてはいなかった。


 私の耳は、常に死者の声というノイズに晒されている。

 この程度の「雑音」なら、日常茶飯事だ。

 私は耐性がある。


 私はポケットから、リサのくれた気付け薬の瓶を取り出した。

 蓋を開ける。

 強烈なアンモニア臭を吸い込み、意識を強制的に覚醒させる。


 「……うるさいのよ」

 私はふらつく足で、男のデスクに向かって歩き出した。

 「ボリュームを下げなさい、このヤブ医者!」


 男の笑顔が凍りついた。

 「な、なぜ動ける? この出力なら、自我が崩壊するはずだぞ」


 「私の自我は、もっと頑丈にできてるのよ」

 私はデスクの上のペン立てを掴んだ。

 先の尖った万年筆。

 それを逆手に持ち、男の喉元に突きつける。


 「さあ、実験終了よ。スイッチを切りなさい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ