第88話 破裂する赤錆
手術室の脇を抜け、さらに奥へと続く廊下は、不自然なほど静まり返っていた。
空調の低い唸り音さえ、ここでは遠く感じる。
私はゴム長靴の底が床を叩く音を極力殺し、レオニスの背中に張り付いて歩いた。
胃の底に、冷たい鉛を飲み込んだような重苦しさがある。
「……変よ」
私はレオニスのベルトを掴んだまま、小声で囁いた。
「静かすぎる」
「誰もいないのか」
「いいえ。気配はあるの。空間の密度が違う場所がある。でも……音がしない」
私は耳を澄ませた。
通常なら聞こえるはずの生体音――心臓の鼓動、衣擦れ、呼吸音――が、ここには一切ない。
まるで、空間の一部が切り取られ、真空パックされているかのようだ。
だが、殺気だけは肌を刺すように漂っている。
レオニスが足を止めた。
彼は前方の丁字路を警戒し、鏡を取り出そうとした。
ヒュッ。
風切り音さえしなかった。
ただ、レオニスの頬の横、壁のタイルが唐突に弾け飛んだだけだ。
白い粉が舞う。
銃声はない。着弾音だけが、遅れてパラパラと響いた。
「伏せろ!」
レオニスが私を床にねじ伏せた。
直後、頭上の消火器が甲高い音を立てて破裂した。白い粉末消火剤が噴き出し、煙幕のように視界を遮る。
「どこから!?」
私は床にへばりつきながら叫んだ。
「音がしない! 撃った場所がわからない!」
「サプレッサー(消音器)じゃない」
レオニスが匍匐でワゴンの陰に移動する。
「反響音すらない。特殊な音響兵器か、あるいは魔法的な遮断措置か」
私たちは見えない敵に狙われていた。
白い粉の向こう側、廊下の闇の中に、誰かがいる。
だが、私の耳をもってしても、その位置を特定できない。
幽霊よりもタチが悪い。幽霊なら恨み言を呟くが、こいつらは完全な無言で殺しに来る。
ヒュッ、カツン。
また何かが飛んできた。
ワゴンのステンレス製の手すりがへこむ。
正確だ。
こちらの位置は見えているらしい。
「……このままではジリ貧だ」
レオニスが周囲を見回した。
隠れる場所は少ない。この長い廊下は、格好の射撃場だ。
彼の視線が、天井を這う配管に止まった。
赤い塗装が剥げかけた、太いパイプ。
所々に「消火用水」と書かれたラベルが貼られている。
「レティ、フードを被れ」
「は?」
「濡れるぞ」
レオニスは説明する時間を惜しみ、仰向けになったまま銃を構えた。
狙うのは敵ではない。
頭上、私たちの真上を通るパイプの継ぎ目だ。
「耳を使え。水音なら聞こえるはずだ」
パン!
彼が引き金を引いた。
この空間で初めて響いた、爆発的な銃声。
弾丸がパイプのバルブを直撃し、留め金を吹き飛ばす。
バシュッ!
猛烈な勢いで水が噴き出した。
赤錆を含んだ濁った水が、滝のように廊下に降り注ぐ。
視界が一瞬で茶色に染まり、床にはまたたく間に水たまりが広がっていった。
「冷たっ!」
私は悲鳴を上げそうになったが、レオニスの意図を理解して口をつぐんだ。
水だ。
水が床を打ち、飛沫を上げている。
どんなに足音を消す技術を持っていても、物理的な水面を踏めば音は鳴る。
私は目を閉じた。
水流の音。飛沫の音。
その乱雑なノイズの中から、不自然な波紋の音を探す。
パシャ。
聞こえた。
右前方、十メートル。
誰かが水たまりを踏んだ。
「右! 柱の陰!」
私が叫ぶと同時に、レオニスが発砲した。
ドォン!
水柱が上がる。
その向こうで、何かが崩れ落ちる重い音がした。
バシャーン。
人間が水面に倒れ込む音。
「一人目」
レオニスは銃口を下げない。
「まだいる。探せ」
私は集中した。
水は容赦なく降り注ぎ、私のコートを重くしていく。
だが、そのおかげで「見えない敵」の輪郭が浮き彫りになる。
水滴が何もないはずの空間で弾け、人の形を描いている。
ピチャッ、ピチャッ。
素早い足音。
接近してくる。
銃撃戦を諦め、接近戦に切り替えたらしい。
「左! 回ってくる!」
レオニスが反応する。
彼は立ち上がり、水の膜を突き破って飛び出してくる影を迎撃した。
敵は黒いボディスーツを着ていた。顔まで覆面で隠している。
手にはナイフ。
レオニスは発砲しなかった。距離が近すぎる。
彼は銃身でナイフを受け流し、そのまま敵の懐に飛び込んだ。
水しぶきが舞う中、二つの影が交錯する。
ボゴッ。
鈍い打撃音。
レオニスの膝蹴りが、敵の腹部にめり込んだ音だ。
敵がくの字に折れ曲がり、水の中に膝をつく。
レオニスは容赦なく、銃のグリップを敵の後頭部に叩きつけた。
敵が沈黙する。
「……二人目」
レオニスが荒い息を吐き、濡れた髪をかき上げた。
「まだいるか」
私は耳を澄ませた。
水音だけが響いている。
殺気は消えた。
「……いない。退いたか、全滅したかよ」
配管からの水はまだ止まらない。
私たちは泥水のような液体の中に立ち尽くしていた。
リサから貰った解毒剤の瓶が、ポケットの中でカチリと鳴る。
レオニスが倒れた敵兵の覆面を剥いだ。
現れたのは、感情のない能面のような男の顔だった。
耳には、鼓膜を塞ぐような特殊な耳栓が詰められている。
「聴覚を遮断して、感覚を研ぎ澄ませていたのか」
レオニスが男の装備を探る。
「あるいは、余計な命令を聞かないように耳を塞がれたか」
男の胸元には、蛇の刺繍はなかった。
代わりに、首筋にバーコードのような刺青がある。
『実験体 No.49』。
「……この人たちも、材料だったのね」
私は水に浮かぶ男の顔を見下ろした。
彼らからは、死の瞬間の恐怖さえ聞こえてこない。
心が既に壊されていたからだ。
「行くぞ」
レオニスが立ち上がる。
「水浸しになったおかげで、足跡が誤魔化せる。追手が来る前に最深部へ向かう」
私たちは水浸しの廊下を走った。
水音がジャブジャブと音を立てるが、もう気にならなかった。
沈黙の殺し屋たちを退けた今、私たちが立てる騒音こそが、生きている証拠のように思えたからだ。
前方に、重厚な扉が見えてきた。
『研究室・立入禁止』のプレート。
その隙間から、琥珀色の光が漏れ出している。
甘い、腐った果実のような臭いが、水の鉄臭さに混じって漂ってきた。




