第87話 白衣のシミ
蛍光灯の白い光が、タイルの床に冷たく反射していた。
先ほどまでの湿ったコンクリートの道とは違い、ここは管理された空間だ。
天井を這うダクトからは、一定のリズムで空調の風が吹き出し、消毒液と焦げたタンパク質の臭いを運んでくる。
「……病院みたいね」
私は口元をコートの襟で覆った。
「ただし、退院する患者が一人もいない病院」
レオニスは返事をせず、通路の角から鏡を使って先を窺った。
安全を確認し、手招きする。
私たちは足音を殺して進んだ。ゴム長靴の底が、リノリウムの床に吸い付く。
通路の両脇には、鉄格子のはまった部屋が並んでいた。
牢獄だ。
だが、北の工場で見たような、粗末な檻ではない。
各部屋には簡易ベッドとトイレがあり、壁は防音材で覆われている。
中には、男女が一人ずつ収容されていた。
私は一番手前の部屋を覗き込んだ。
中年の男がベッドに座り、壁に向かってブツブツと何かを呟いている。
服は薄汚れた患者衣。腕には点滴の跡が無数にあり、青黒いあざになっていた。
耳を澄ます。
男の言葉を聞き取ろうとする。
――回る。回る。赤いのが回る。
――痛くない。痒いだけだ。
――王様が呼んでいる。行かなくちゃ。
「……壊れてる」
私は眉をひそめた。
「思考がバラバラよ。ラジオのチューニングが合っていないみたいに、ノイズだらけ」
隣の部屋では、若い女が床に這いつくばり、見えない何かを拾い集める動作を繰り返していた。
彼女の心の中は、砂嵐のような音で埋め尽くされている。
意味のある言葉は一つもない。
「北の工場は子供だった」
レオニスが低い声で言った。
「あそこでは『恐怖』を抜く実験をしていた。だがここは違う」
「ええ。ここは『何か』を入れる実験場よ」
私は頭を押さえた。
キーンという高い音が、通路の奥から響いてくる。
耳鳴りではない。
北の廃鉱山で聞いた、あの赤い石の共鳴音だ。
「……奥だわ」
私は通路の突き当たり、磨りガラスの入った両開きの扉を指差した。
「そこから音がする。石の音と、ドリルの音」
私たちは扉に近づいた。
レオニスがガラスの隙間から中を覗く。
私も背伸びをして覗き込んだ。
中は手術室だった。
無影灯が眩しく輝き、中央の手術台を照らしている。
その周りを、白衣を着た数人の男女が取り囲んでいた。
彼らはマスクと手袋をつけ、手元には銀色の器具が並んでいる。
手術台の上には、一人の男が拘束されていた。
頭髪が剃られ、頭皮が切開されている。
麻酔が効いているのか、男は動かない。ただ、開かれた目だけが、天井の光を虚ろに反射していた。
「……鉗子」
執刀医らしき男が手を出す。
助手が器具を渡す。
カチャリ、という金属音が、私の耳には雷鳴のように響いた。
執刀医がピンセットで何かをつまみ上げた。
赤い粒。
小豆ほどの大きさの、赤い結晶体。
北の鉱山で見つけたあの石の欠片だ。
「埋め込むぞ」
医師が呟く。
「前頭葉の神経叢に接触させる。深すぎると廃人になる。慎重にやれ」
赤い石が、男の脳の中へと沈んでいく。
その瞬間。
男の喉からではなく、脳そのものから絶叫が迸った。
――ギャァァァァァッ!!
「うっ!」
私は思わず耳を塞いでしゃがみ込んだ。
物理的な音ではない。
異物が神経に触れ、自我を焼き切る瞬間の、魂の断末魔だ。
石が男の脳と同調し、無理やり「命令」を書き込んでいく。
――個を捨てろ。
――従え。
――我らは一つ。
手術台の上の男が、拘束バンドを引きちぎらんばかりに痙攣した。
モニターの心拍数が跳ね上がる。
「あばれるな! 押さえろ!」
助手たちが男の体を押さえつける。
「……適合したか?」
医師がモニターを確認する。
男の痙攣が止まり、力が抜けた。
開かれたままの瞳から、光が消える。
そして、代わりに赤い光が――石の輝きが――瞳の奥に宿った。
「成功だ」
医師がマスクをずらし、汗を拭った。
「安定している。これで『兵隊』がまた一匹完成した」
私は床に膝をついたまま、吐き気をこらえた。
酷い。
北の工場では血を抜いていただけだ。
だが、ここでは人間の中身を入れ替えている。
あの赤い石を埋め込まれた人間は、もう人間ではない。受信機がついた肉の人形だ。
「……見るに堪えんな」
レオニスが扉から離れ、銃を抜いた。
安全装置を外す音が、静かな殺意を含んでいる。
「踏み込むか」
「待って」
私は彼のズボンの裾を掴んで止めた。
「まだダメ。奥にもっとヤバイのがいる」
「ヤバイの?」
「この手術室のさらに奥。ガラス張りの観察室」
私は震える指で方向を示した。
「そこに、この実験を指揮してる奴がいる。白衣を着てるけど、医者じゃない。科学者でもない」
耳を澄ます。
観察室のガラスの向こうから漏れてくる、歪んだ思考音。
――素晴らしい。データ通りだ。
――これなら量産できる。
――王都の住民すべてを、我が手足に。
「……楽しんでる」
私は言った。
「人が壊れる音を、音楽みたいに聞いてるわ。あいつが元凶よ」
レオニスは銃を構え直した。
「頭を潰せば手足も止まる、か」
「ええ。でも、気をつけて。普通の人間じゃない気配がする」
その時、通路のスピーカーからチャイムが鳴った。
『検体搬送。Cブロック、ゲート開放』
機械的なアナウンス。
廊下の向こうから、台車を押す音が近づいてくる。
新たな「材料」が運ばれてくるのだ。
レオニスが私を抱え、近くの掃除用具入れの陰に隠した。
「やり過ごすぞ。搬入口が開く瞬間を狙って、中枢へ潜り込む」
台車が通り過ぎていく。
乗せられているのは、猿ぐつわをされた若い女性だった。
彼女の目には涙が溢れ、必死に首を振っていたが、運んでいる男たちは気にも留めない。
ただの荷物扱いだ。
私はポケットの中で、リサがくれた気付け薬の瓶を握りしめた。
手が震えているのは、恐怖のせいだけではない。
怒りだ。
私の体温を奪うほどの、冷たい怒りが腹の底で渦巻いていた。
「行くぞ」
レオニスが影から滑り出した。
私は深く息を吸い、その背中を追った。
消毒液の臭いは、もう気にならなかった。




