第86話 コンクリートの爪痕
懐中電灯の光が、壁一面に刻まれた傷跡を舐めるように照らし出した。
それは文字というより、暴力の痕跡に近かった。
硬い金属でコンクリートを削り、爪で引っ掻き、血で塗り固めたような溝の集合体。
私は手袋を外し、その冷たい凹凸に指を這わせた。
「……読めるか」
レオニスが背後で光源を固定しながら聞いた。
「読めるわ。読みたくはないけど」
私は指先に伝わる微弱な振動を言葉に変換した。
視覚的な文字情報ではない。
書いた人間がその瞬間に込めた、脳の電気信号の残りカスだ。
――『Zal(閉ざされた)』。
――『Gia(水がない)』。
――『Kru(裏切り者)』。
「……水が尽きたそうよ」
私は乾いた唇を舐めた。
「出口は塞がれ、換気扇も止まった。ここに逃げ込んだ人たちは、暗闇の中で窒息していくのを待つしかなかった」
「人数は」
「たくさん。数百人。兵士だけじゃない。女や子供の声もする」
私はさらに奥へ進んだ。
通路の脇に、錆びた鉄のベッドの残骸が積み上げられている。
その隙間に、白骨化した遺体の一部が見え隠れしていた。
ボロボロの衣服。
その胸元には、かつての王国の紋章――盾と剣――が刺繍されていたが、それは泥とカビで黒く変色していた。
耳鳴りが強くなる。
頭の芯が痺れるような感覚。
――王は逃げた。
――私たちを見捨てた。
――許さない。
怨嗟の声だ。
北の廃鉱山で聞いたものよりも、もっと濃く、粘着質で、そして「近い」。
なぜなら、ここは王宮の真下だからだ。
自分たちを見捨てて逃げた王族が住む城の、その足元で死んでいった者たちの呪い。
「……っ」
私はよろめき、壁に手をついた。
指が文字の溝に食い込む。
声が脳内に雪崩れ込んでくる。
――『Ana』。
――『Stasha』。
――お前だけは。生きているのか。
「やめて」
私は首を振った。
「私は違う。私はレティよ」
――戻ってこい。
――こっちへ来い。
――冷たい。暗い。お前もここで。
視界が明滅する。
懐中電灯の光が歪み、周囲の闇が物理的な重さを持って押し寄せてくるような錯覚。
足が動かない。
地面から伸びた無数の手が、私の足首を掴んでいるような……。
「おい」
肩を強く揺すられた。
「息をしろ」
ハッとして顔を上げると、レオニスの顔が目の前にあった。
彼は私の腕を掴み、壁から強引に引き剥がしていた。
「……レオ」
「顔色が悪い。酸素が足りていないのか」
「ううん。ただ、少し……呼ばれただけ」
レオニスは私の目を覗き込み、瞳孔の反応を確認した。
そして、ポケットから茶色の小瓶を取り出した。
リサが持たせてくれた気付け薬だ。
「嗅げ」
彼は蓋を開け、私の鼻先に突きつけた。
ツンとした刺激臭。
アンモニアと唐辛子を煮詰めたような強烈な臭いが、鼻腔を突き抜け、脳の霧を一瞬で晴らした。
「……うぐっ! 臭い!」
私は涙目で顔を背けた。
「拷問よ、これ」
「正気に戻ったならいい。幽霊に足を引っ張られて溺れるな」
レオニスは瓶の蓋を閉め、ポケットに戻した。
「ここの空気は淀んでいる。残留思念の濃度が高すぎるんだ。必要な情報以外は遮断しろ」
「簡単に言うわね。満員電車で隣の人の体臭を嗅ぐなと言われてるようなものよ」
私は深呼吸をし、意識のチューニングを調整した。
過去の怨嗟をバックグラウンドノイズまで下げ、現在の脅威――生きた人間の気配――を探るモードに切り替える。
「行くぞ。先客の足跡がある」
レオニスが地面を指差した。
埃の積もった床に、新しいブーツの跡が続いている。
それも、ここ数時間以内のものだ。
私たちは足跡を追って、シェルター区画を抜けた。
前方に、分厚い隔壁が見えてくる。
かつてはここを閉鎖していたはずの防爆扉だ。
だが今は、その中央がバーナーで焼き切られ、大人が通れるほどの穴が開けられていた。
「……溶断された跡だ」
レオニスが切断面に触れる。
「まだ煤が新しい。『蛇』の連中は、ここを突き破って奥へ侵入したんだな」
穴の向こうから、風が吹いてきた。
カビ臭いシェルターの空気とは違う。
消毒液と、鉄と、そして微かな血の臭いが混じった風。
「レオ」
私は彼のベルトを掴んだ。
「聞こえる。機械の音」
ヴィィィン……。
低いモーター音。
そして、カチャン、カチャンという金属音。
それは、何かを拘束し、管理するための音だ。
「有人区画だ」
レオニスが懐中電灯を消した。
「明かりは消す。ここからは手探りだ」
私たちは焼き切られた穴をくぐり、その先へと足を踏み入れた。
そこは、旧王国の遺跡を土台にして作られた、現代の悪夢の入り口だった。
床はコンクリートで補修され、天井には新しい蛍光灯がチカチカと点滅している。
壁に這う真新しいケーブルが、奥へと電力を運んでいた。
私は飴の包み紙をポケットの中で握り潰した。
もう、亡霊の声は聞こえない。
代わりに、もっと恐ろしい「生きた悲鳴」が、壁の向こうから漏れ聞こえてきていた。




