表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

86/127

第86話 コンクリートの爪痕

 懐中電灯の光が、壁一面に刻まれた傷跡を舐めるように照らし出した。

 それは文字というより、暴力の痕跡に近かった。

 硬い金属でコンクリートを削り、爪で引っ掻き、血で塗り固めたような溝の集合体。

 私は手袋を外し、その冷たい凹凸に指を這わせた。


 「……読めるか」

 レオニスが背後で光源を固定しながら聞いた。

 「読めるわ。読みたくはないけど」


 私は指先に伝わる微弱な振動を言葉に変換した。

 視覚的な文字情報ではない。

 書いた人間がその瞬間に込めた、脳の電気信号の残りカスだ。


 ――『Zal(閉ざされた)』。

 ――『Gia(水がない)』。

 ――『Kru(裏切り者)』。


 「……水が尽きたそうよ」

 私は乾いた唇を舐めた。

 「出口は塞がれ、換気扇も止まった。ここに逃げ込んだ人たちは、暗闇の中で窒息していくのを待つしかなかった」


 「人数は」

 「たくさん。数百人。兵士だけじゃない。女や子供の声もする」


 私はさらに奥へ進んだ。

 通路の脇に、錆びた鉄のベッドの残骸が積み上げられている。

 その隙間に、白骨化した遺体の一部が見え隠れしていた。

 ボロボロの衣服。

 その胸元には、かつての王国の紋章――盾と剣――が刺繍されていたが、それは泥とカビで黒く変色していた。


 耳鳴りが強くなる。

 頭の芯が痺れるような感覚。

 

 ――王は逃げた。

 ――私たちを見捨てた。

 ――許さない。


 怨嗟の声だ。

 北の廃鉱山で聞いたものよりも、もっと濃く、粘着質で、そして「近い」。

 なぜなら、ここは王宮の真下だからだ。

 自分たちを見捨てて逃げた王族が住む城の、その足元で死んでいった者たちの呪い。


 「……っ」

 私はよろめき、壁に手をついた。

 指が文字の溝に食い込む。

 声が脳内に雪崩れ込んでくる。


 ――『Anaアナ』。

 ――『Stashaスターシャ』。

 ――お前だけは。生きているのか。


 「やめて」

 私は首を振った。

 「私は違う。私はレティよ」


 ――戻ってこい。

 ――こっちへ来い。

 ――冷たい。暗い。お前もここで。


 視界が明滅する。

 懐中電灯の光が歪み、周囲の闇が物理的な重さを持って押し寄せてくるような錯覚。

 足が動かない。

 地面から伸びた無数の手が、私の足首を掴んでいるような……。


 「おい」

 肩を強く揺すられた。

 「息をしろ」


 ハッとして顔を上げると、レオニスの顔が目の前にあった。

 彼は私の腕を掴み、壁から強引に引き剥がしていた。

 

 「……レオ」

 「顔色が悪い。酸素が足りていないのか」

 「ううん。ただ、少し……呼ばれただけ」


 レオニスは私の目を覗き込み、瞳孔の反応を確認した。

 そして、ポケットから茶色の小瓶を取り出した。

 リサが持たせてくれた気付け薬だ。


 「嗅げ」

 彼は蓋を開け、私の鼻先に突きつけた。

 ツンとした刺激臭。

 アンモニアと唐辛子を煮詰めたような強烈な臭いが、鼻腔を突き抜け、脳の霧を一瞬で晴らした。


 「……うぐっ! 臭い!」

 私は涙目で顔を背けた。

 「拷問よ、これ」

 「正気に戻ったならいい。幽霊に足を引っ張られて溺れるな」


 レオニスは瓶の蓋を閉め、ポケットに戻した。

 「ここの空気は淀んでいる。残留思念の濃度が高すぎるんだ。必要な情報以外は遮断しろ」

 「簡単に言うわね。満員電車で隣の人の体臭を嗅ぐなと言われてるようなものよ」


 私は深呼吸をし、意識のチューニングを調整した。

 過去の怨嗟をバックグラウンドノイズまで下げ、現在の脅威――生きた人間の気配――を探るモードに切り替える。


 「行くぞ。先客の足跡がある」

 レオニスが地面を指差した。

 埃の積もった床に、新しいブーツの跡が続いている。

 それも、ここ数時間以内のものだ。


 私たちは足跡を追って、シェルター区画を抜けた。

 前方に、分厚い隔壁が見えてくる。

 かつてはここを閉鎖していたはずの防爆扉だ。

 だが今は、その中央がバーナーで焼き切られ、大人が通れるほどの穴が開けられていた。


 「……溶断された跡だ」

 レオニスが切断面に触れる。

 「まだ煤が新しい。『蛇』の連中は、ここを突き破って奥へ侵入したんだな」


 穴の向こうから、風が吹いてきた。

 カビ臭いシェルターの空気とは違う。

 消毒液と、鉄と、そして微かな血の臭いが混じった風。


 「レオ」

 私は彼のベルトを掴んだ。

 「聞こえる。機械の音」

 

 ヴィィィン……。

 

 低いモーター音。

 そして、カチャン、カチャンという金属音。

 それは、何かを拘束し、管理するための音だ。


 「有人区画だ」

 レオニスが懐中電灯を消した。

 「明かりは消す。ここからは手探りだ」


 私たちは焼き切られた穴をくぐり、その先へと足を踏み入れた。

 そこは、旧王国の遺跡を土台にして作られた、現代の悪夢の入り口だった。

 床はコンクリートで補修され、天井には新しい蛍光灯がチカチカと点滅している。

 壁に這う真新しいケーブルが、奥へと電力を運んでいた。


 私は飴の包み紙をポケットの中で握り潰した。

 もう、亡霊の声は聞こえない。

 代わりに、もっと恐ろしい「生きた悲鳴」が、壁の向こうから漏れ聞こえてきていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ