第85話 噴水の下の空洞
鉄の梯子は、触れると指の皮が張り付きそうなほど冷たかった。
私はゴム手袋のグリップを確かめながら、一段ずつ足を下ろす。
上を見上げると、切り取られた四角い空が、もう掌ほどの大きさに縮んでいた。
地上からの光は届かない。
頼りになるのは、腰に吊るした懐中電灯が足元に投げかける、揺れる円形の明かりだけだ。
「……深いわね」
私の声が、井戸の底に向かって落ちていき、反響して戻ってきた。
「王宮の地下に、こんな大穴が掘られてるなんて」
「城の基礎工事の記録にはない」
先に降りているレオニスの声が、暗闇の中から響く。
「おそらく、旧王国のさらに前、この都が作られた当初の排水機構を流用している」
靴底が濡れた鉄で滑りそうになる。
私は慎重に体重を移動させた。
壁面からは、地下水が染み出し、ポタポタと規則的な音を立てて滴り落ちている。
カビと、古いレンガの湿った臭いが鼻をついた。
さらに数分降り続け、ようやく足が固い地面に触れた。
コンクリートの感触。
私は梯子から手を離し、肩の力を抜いた。
懐中電灯を前方に向ける。
光の束が闇を切り裂く。
そこに浮かび上がったのは、予想以上に広大な空間だった。
天井は高く、光が届かない。
左右には太い円柱が並び、その間を黒いパイプの束が這い回っている。
地面は濡れており、所々に水たまりができていた。
「……歓迎ムードゼロね」
私は水たまりを避けて歩き出した。
「レッドカーペットの代わりに、ヘドロと錆がお出迎えってわけ」
「実用的ではある」
レオニスは柱に手を触れ、表面の汚れを指先で確認した。
「埃が少ない。定期的に風が通っている証拠だ」
彼は懐中電灯を消し、闇に目を凝らした。
完全な暗闇ではない。
遥か奥の方に、蛍の光のような微かな明かりが見える。
非常灯か、あるいは管理用の計器のランプか。
「行くぞ。足元を見ろ。ネズミの死骸を踏みたくなければな」
レオニスが歩き出す。
軍靴がコンクリートを叩く音が、静寂に波紋を広げた。
私はコートの襟を立て、彼の背中を追った。
ここには「生きている気配」がない。
だが、音はあった。
地上では聞こえなかった、都市の代謝音が。
耳を澄ます。
壁の中を流れる水の音。
上水道の清らかな流れと、下水道の濁った流れが、壁一枚を隔てて交差している。
――流せ。
――止めろ。
――弁が錆びついている。
配管の継ぎ目から、金属の疲労を訴える軋み音が聞こえる。
そして、それらとは異なる、もっと太く、低い振動音。
ゴォォォン……。
空気が震えている。
遠くで巨大な獣が唸っているような、腹に響く重低音。
「……レオ」
私は立ち止まった。
「聞こえる? この低い音」
「換気扇か?」
「ええ。でも、ただのファンじゃないわ。大きすぎる」
私は壁に手を当てた。
冷たいコンクリートを通して、振動の源を探る。
――吸い込め。
――吐き出せ。
――空気を循環させろ。熱を逃がすな。
「風の道よ」
私は闇の奥を指差した。
「この地下空間全体に空気を送ってる心臓部がある。そこから、大量の熱が捨てられてる」
「熱?」
「機械の熱。それも、暖房器具なんてレベルじゃない。工場並みの排熱よ」
レオニスが眉をひそめた。
「王宮の地下で、工場を稼働させているというのか」
「あるいは、もっとエネルギーを食う何かね」
私たちは音のする方角へ進路をとった。
足元の水たまりが深くなっていく。
長靴を履いてきて正解だった。泥水が踝まで浸かる。
通路の脇に、朽ち果てた木箱が積まれていた。
かつての貯蔵品だろうか。
レオニスがナイフで箱の一つをこじ開ける。
中から出てきたのは、ボロボロになった布切れと、錆びた缶詰だった。
「……軍用レーション(糧食)だ」
彼は缶詰を拾い上げ、ラベルを確認しようとしたが、腐食して読めなかった。
「かなり古い。製造年は数十年以上前だ」
「旧王国の遺物?」
「ああ。ここはシェルターとして使われていたのかもしれん」
私は周囲を見回した。
壁に、文字のようなものが刻まれているのが見えた。
ペンキではない。ナイフか何かで、コンクリートを削って書かれた文字。
近づいてライトを当てる。
角張った、独特の形状をした文字の列。
「……読めるか」
レオニスが背後から覗き込む。
「今の公用語じゃないわね」
「北の廃鉱山で見たのと同じか」
私は指で文字の溝をなぞった。
触れた瞬間、指先から冷たい電流のようなものが流れ込んでくる。
書いた人間の思考。
絶望と、諦めと、そして微かな希望。
――『Vor(隠れる)』。
――『Nakka』。
――『Gia(待つ)』。
「……『ここに隠れて待て』」
私は無意識に翻訳した。
「誰かへの伝言ね。『救援は必ず来る』って」
「救援は来たのか?」
「いいえ」
私は壁から手を離した。
「その下の行に、別の日付で書き足されてる。『水が尽きた。光が消える』って」
ここは墓場だ。
誰にも知られず、暗闇の中で息絶えた人々の終着点。
その無念が、湿った空気に溶け込んでいる。
「先へ進むぞ」
レオニスが私の肩を叩いた。
「感傷に浸っている時間はない。俺たちが追っているのは過去の亡霊ではなく、現在の怪物だ」
「わかってるわよ」
私はコートのポケットから、ミレイが持たせてくれたクッキーを取り出した。
一口かじる。
バターの風味が、口の中のカビ臭さを追い払う。
私たちはさらに奥へと歩を進めた。
重低音の唸りが、徐々に大きくなってくる。
そして、その音に混じって、新たな音が聞こえ始めていた。
カチャン。
カチャン。
規則的な金属音。
誰かが、鉄の扉を開閉している音だ。
それも、一度や二度ではない。頻繁に、何かが出入りしている。
「……レオ」
私は食べかけのクッキーをポケットに戻した。
「有人区画が近いわ。警備の足音もする」
「数は」
「二人。巡回ルートを歩いてる。靴底が硬い。正規兵の装備ね」
レオニスが懐中電灯を消した。
「ここからは隠密行動だ。光も音も出すな」
私たちは暗闇に溶け込んだ。
水たまりを踏まないように、爪先だけで歩く。
前方に、ぼんやりとした光の漏れる曲がり角が見えてきた。
そこが、迷宮の入り口だった。




