第84話 地下への装備
硬い床板の感触が、背骨を通して意識を覚醒させた。
私は毛布を跳ね除け、強張った体を伸ばした。関節がパキパキと乾いた音を立てる。
隣を見ると、レオはすでに起きていた。
彼は窓際で、昨夜厨房からくすねてきたワインボトル――今は水が入っている――をラッパ飲みしていた。
「……早いね」
「習慣だ。それに、この部屋は落ち着かん」
彼はボトルを置き、部屋の豪華な調度品を睨みつけた。
「金と暇を持て余した人間が考えるインテリアだ。椅子ひとつとっても、座るためではなく飾るために作られている」
コンコン。
控えめだが、明確な意思を持ったノックの音がした。
レオが顎で合図する。
私がドアを開けると、そこには二人の女性が立っていた。
ミレイと、リサだ。
二人とも大きな鞄を抱え、ミレイに至っては片手にバインダーを持っていた。
「おはよう、お寝坊さんたち」
ミレイが部屋に入り込み、テーブルの上に鞄をドサリと置いた。
「朝食の差し入れよ。それと、仕事道具の搬入」
「気が利くわね」
私は鞄から焼きたてのクロワッサンを取り出した。バターの香りが鼻孔をくすぐる。
「で、そのバインダーは何?」
「請求書」
ミレイは紙を一枚、私の目の前に突き出した。
「昨夜の貸衣装代。それと、破損に対する弁償金よ」
私はクロワッサンを咥えたまま紙面を見た。
桁が多い。
「……高くない?」
「最高級のシルクよ。裾は泥だらけ、背中の紐は切断寸前、ワインの染みまでついていたわ。クリーニングじゃ落ちないから、買い取り扱いね」
「必要経費だ」
レオが横から口を挟んだ。
「任務遂行のために生じた損耗だ。俺たちの財布から出す金ではない」
「じゃあ、誰が払うの?」
「この城の主だ。セレナ殿下のつけにしておけ」
ミレイはため息をつき、ペンでさらさらと宛名を書き換えた。
「わかったわ。王宮の財務担当が泡を吹く顔が見られるなら、それも悪くない」
リサがもう一つの鞄を開けた。
中には、薬品の瓶が整然と並んでいる。
彼女は二つの小瓶を取り出し、テーブルに置いた。
「青い方は解毒剤だ。地下には『蛇』の毒が回っているかもしれない。何かに噛まれたり、変なガスを吸ったりしたら、迷わず飲め」
「味は?」
「最悪だよ。泥水の方がマシな味がする」
リサはもう一つの茶色い小瓶を指差した。
「こっちは気付け薬。意識が飛びそうになったら嗅ぎな。アンモニアと唐辛子を濃縮したようなもんだ」
「……拷問道具の間違いじゃない?」
「命を守る道具さ」
リサはレオに向き直り、包帯の束を渡した。
「あんたは怪我が治ったばかりだ。無理をするなと言っても聞かないだろうけど、せめて止血の準備くらいはしておきな」
レオは包帯を受け取り、ポケットにねじ込んだ。
「助かる。地下での出血は命取りだ。血の臭いはネズミを呼ぶ」
ミレイが持ってきた鞄の底から、装備品を取り出した。
防水加工された厚手のコート。
真鍮製の重たい懐中電灯。
そして、丈夫な麻のロープと、底の厚いゴム長靴。
「ドレスよりは安上がりだけど、性能は保証するわ」
ミレイがコートを私に投げ渡した。
「下水道だろうが掃き溜めだろうが、これなら耐えられる。汚れも水で流せば落ちるわ」
私はドレスの残骸――昨夜脱ぎ捨てたままの青い布――を跨ぎ、新しいコートに袖を通した。
重い。
だが、しっくりくる。
コルセットで締め上げられるよりも、この重量感の方が私には合っている。
レオも燕尾服から作業着に着替えていた。
腰にはベルトを巻き、ホルスターと懐中電灯を固定する。
ナイフをブーツに仕込み、手袋をはめる。
鏡の前で襟を正すと、そこにはもう「貴族のふりをした男」はいなかった。
ただの、仕事に向かう掃除屋だ。
「準備完了ね」
私は長靴の紐を結んだ。
「行きましょうか。地下の住人たちが、私たちの訪問を首を長くして待ってるはずよ」
*
王宮の中庭は、朝の光に満ちていた。
手入れされた植え込み、幾何学模様に敷き詰められた砂利道。
その中央に、巨大な噴水がある。
普段なら豊かな水を噴き上げているはずだが、今は止まっていた。
セレナが手を回し、メンテナンス名目で水を抜かせたのだ。
私たちは噴水の縁に立った。
水のない水槽の底には、排水口のグレーチングが見える。
その奥は、暗い闇だ。
「……ここか」
レオが覗き込む。
「昨夜、お前が言っていた『風の入り口』だな」
「ええ。耳を澄ませてみて」
私は縁に手を置いた。
水音がない分、地下からの音が鮮明に聞こえる。
ゴォォォ……。
低い、唸るような音。
巨大な換気扇が、地上の空気を地下へと引きずり込んでいる音だ。
まるで、王宮そのものが呼吸をしているようにも聞こえる。
「吸い込んでるわ」
私は言った。
「この下には、数百人が呼吸できるだけの広大な空間がある。そして、それを維持するための機械が動いてる」
ミレイとリサは、少し離れた場所で見送っていた。
これ以上近づけば、彼女たちも巻き込まれる。
ここからは、私たち二人だけの領域だ。
レオが柵を乗り越え、噴水の底に降りた。
ジャリ、と乾いた音がする。
彼はグレーチングの端を掴み、力任せに持ち上げた。
錆びた鉄枠が悲鳴を上げ、黒い口が開く。
カビと、油の臭いが吹き上げてきた。
「……臭うな」
レオが顔をしかめる。
「ドブ川の底と同じ臭いだ」
「華やかな王宮の、これが本性よ」
私は懐中電灯を点けた。
黄色い光の筋が、地下へと続く梯子を照らし出す。
底は見えない。
「行くぞ、レティ」
レオが先に梯子に足をかけた。
「ドブ掃除の時間だ」
「へいへい、ボス」
私はポケットの中を確認した。
リサの薬。ミレイのロープ。
そして、昨夜の残りのクッキーが一枚。
装備は十分だ。
私は太陽に背を向け、地下の闇へと足を下ろした。
頭上でグレーチングが閉まる音が、地上との決別の合図のように響いた。




