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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第83話 深夜の厨房

 重厚な樫の木の扉が閉まると、廊下の冷たい空気と、遠くで響いていたワルツの残響が遮断された。

 あてがわれた客室は広すぎた。

 床には足首まで埋まるような毛足の長い絨毯が敷かれ、窓には何層ものベルベットのカーテンが垂れ下がっている。

 私は部屋の中央で立ち止まり、背中に手を回した。

 届かない。

 指先がドレスの紐に触れるが、固く結ばれた結び目は爪を立てても緩まなかった。


 「……レオ」

 私は背中を向けたまま言った。

 「ナイフ貸して。背中の紐を切る」

 「貸さん。ミレイから請求書が回ってくる」


 レオが背後に立つ気配がした。

 彼の手が私の背中に触れ、紐の結び目を探る。

 指先が動くたびに、締め上げられていた生地が少しずつ緩んでいく。

 肺が広がる予感に、肋骨が内側からきしんだ。


 「……吸え」

 「言われなくても」


 シュルリ、という音がして、最後の一締めが解かれた。

 私は大きく息を吸い込んだ。

 肺胞の一つ一つに酸素が行き渡り、視界が明瞭になる。

 ドレスが重力に従ってずり落ちそうになるのを、私は胸元で押さえた。


 「生き返った……」

 私はその場に座り込み、ドレスとパニエ、そして忌々しいコルセットを脱ぎ捨てた。

 下着姿になっても、寒さは感じない。部屋の暖炉には、薪が惜しげもなくくべられているからだ。


 レオは上着を脱ぎ、ソファの背に掛けた。

 蝶ネクタイを外し、シャツのボタンを二つほど開ける。

 彼もまた、窮屈な仮面劇から解放された顔をしていた。


 「食事は済ませたか」

 彼がシャツの袖を捲りながら聞いた。

 「ローストビーフを三枚。でも、消化したわ。コルセットと戦うのにエネルギーを使ったから」

 「俺は酒しか飲んでいない」


 レオは部屋の隅にある呼び鈴を見た。

 「ルームサービスを頼むか」

 「やめて。こんな夜中に正装した執事が来て、『何になさいますか』なんて聞かれたら、食欲が失せるわ」


 私は立ち上がり、部屋に備え付けのガウンを羽織った。

 「行きましょ。さっきダンスフロアからいい匂いがしてたの。厨房の位置は鼻が覚えてる」


 *


 深夜の王宮は、昼間の華やかさとは別の顔を持っていた。

 廊下のガス灯は絞られ、長い影が壁に落ちている。

 衛兵の巡回ルートは頭に入っていた。セレナが教えてくれた通り、この区画の警備は意図的に薄くされている。


 私たちは足音を消して進んだ。

 大理石の床は冷たいが、絨毯の上を歩けば音はしない。

 階段を降り、使用人用の通路へ入る。

 そこには、微かに残り物の料理と、洗い場の洗剤の匂いが漂っていた。


 厨房の扉は半開きになっていた。

 中を覗く。

 誰もいない。コックたちは宴の後片付けを終え、仮眠をとっているか、帰宅した後だろう。

 広大な調理場には、磨き上げられた銅鍋が月光を反射して並んでいる。


 「……宝の山ね」

 私は中に入り、配膳台の上に置かれた銀のトレイに近づいた。

 白い布がかけられている。

 めくる。

 そこには、パーティーで供された料理の残りが積まれていた。

 手つかずの鴨のロースト、半分残った巨大なチーズ、そして色とりどりのフルーツ。


 「冷めているな」

 レオが鴨肉をナイフで切り取った。

 「だが、質はいい」

 彼は切り取った肉をそのまま口に運んだ。

 行儀は悪いが、燕尾服を着ていない彼はただの腹を空かせた男だ。


 「パンもあるわ」

 私は籠の中からバゲットを一本抜き取った。

 硬くなり始めているが、北の街の黒パンに比べれば雲のような柔らかさだ。

 ちぎって、鴨肉と一緒に頬張る。

 脂の甘みと、ハーブの香りが鼻に抜ける。


 「ワインは?」

 「煮込み用の赤がある」

 レオが棚からボトルを下ろした。

 グラスはない。

 彼はボトルを直接煽り、私に渡した。


 私も一口飲む。

 渋みが強い。だが、肉の脂を流すには丁度いい。


 私たちは調理台に腰掛け、無言で残り物を胃袋に詰め込んだ。

 換気扇が回る低い音だけが、静寂を埋めている。

 ここが「蛇」の巣食う地下への入り口に近い場所だということを、一瞬忘れそうになる。


 「……明日は」

 レオがチーズをかじりながら言った。

 「地下へ潜る。装備が必要だ」

 「ミレイとリサが手配してるわ。朝一で届くはずよ」


 私はバゲットの欠片で皿のソースを拭った。

 「地下の音、ここからでも聞こえるわ」

 私は床を指差した。

 「厨房の排水溝の奥。水が流れる音に混じって、鉄の扉が開閉する音がする」


 「搬入作業か」

 「たぶんね。今夜は『荷物』が多いみたい。重い足音がたくさんする」


 レオはボトルを置き、口元を拭った。

 「食ったら寝るぞ。明日は体力が要る」

 「そうね。枕が変わると眠れないタイプだけど、努力するわ」


 *


 部屋に戻ると、暖炉の火は小さくなっていた。

 レオはソファから自分の上着を取り、床に広げた。

 そして、ベッドから枕を一つ引っ張り落とす。


 「……そこで寝るの?」

 私は天蓋付きの巨大なベッドを指差した。

 「キングサイズのベッドが空いてるのに?」


 「広すぎる」

 レオは床に横になり、腕を枕にした。

 「背中が沈み込む柔らかさは、戦場では命取りだ。寝返りを打つたびに目が覚める」

 「繊細な神経ね」


 私はベッドに近づき、マットレスに手をついた。

 ふわりと沈む。羽毛布団は空気のように軽い。

 試しに横になってみる。

 体が包み込まれる。

 

 ……落ち着かない。

 背中が無防備すぎる。

 それに、天井が高すぎて、何かが落ちてきそうな不安に駆られる。


 「……やめた」

 私は起き上がり、毛布を引きずり下ろした。

 ベッドの足元、レオの横のスペースに毛布を敷く。

 硬い床の感触が、背骨を通して伝わってくる。

 こちらのほうがしっくりくる。


 「物好きだな」

 レオが目を閉じたまま言った。

 「貴婦人の真似事はもう終わりか」

 「ガウンがはだけて風邪を引くよりマシよ」


 私は毛布にくるまり、レオに背を向けて横になった。

 彼の呼吸音が聞こえる距離。

 北のアパートや、貨物列車の中と同じ距離感。


 「……おやすみ、ボス」

 「ああ」


 部屋の隅にある置時計が、カチ、カチと時を刻んでいる。

 窓の外からは、夜警の足音が遠く響いていた。

 明日になれば、また泥と油にまみれる仕事が待っている。

 でも、今夜だけは。

 満たされた胃袋と、硬い床の安心感の中で、私は泥のない眠りへと落ちていった。

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