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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第82話 月下の盟約

 ガラス戸が重い音を立てて閉まると、ワルツの旋律と貴族たちの喧騒が、水底の音のように遠ざかった。

 バルコニーは静寂に包まれていた。

 夜風が吹き抜け、ダンスで火照った頬を冷やす。

 私は手すりにへばりつき、大きく息を吸い込んだ。コルセットが軋むが、会場内の澱んだ空気よりはずっとマシだ。


 「……寿命が縮むわ」

 私は仮面を外し、石の手すりに置いた。

 「給仕が毒針を飛ばしてくるなんて、どんな質の悪いレストランよ」


 「三流の店だ」

 レオが隣に立ち、自身の黒いドミノマスクを外した。

 彼は燕尾服のポケットからハンカチを取り出し、手についた脂汗――さっきの男を取り押さえた時についたもの――を丁寧に拭き取った。

 「だが、チップを払う必要はなくなった」


 セレナ姫は、バルコニーの中央で夜空を見上げていた。

 月明かりが彼女の銀髪を照らし、白いドレスを青白く染めている。

 彼女はゆっくりと扇子を閉じ、私たちに向き直った。

 その顔には、先ほどまでの「社交界の華」としての愛想笑いはなく、冷徹な統治者の表情が張り付いていた。


 「見事だったわ、レオニス。それに、レティ」

 彼女の声は低く、落ち着いていた。

 「あのタイミングで皿を割らなければ、私の首筋に穴が開いていたでしょうね」


 「皿の弁償代は請求書に回すわ」

 私はドレスの裾を蹴り上げた。

 「それと、靴擦れの治療費もね。この靴、拷問器具みたいに硬いのよ」


 「いいわ。全て経費で落としてあげる」

 セレナは手すりに歩み寄り、眼下に広がる王宮の庭園を見下ろした。

 「……本題に入りましょう。貴方たちをここに呼んだ理由よ」


 レオがハンカチをしまい、姿勢を正した。

 「『蛇』の掃除か」


 「ええ。今の騒ぎで確信したわ。奴らは本気で私を消しに来ている。それも、王宮という私の庭の中で」

 彼女は手すりを強く握りしめた。

 白い手袋が、石の表面に食い込む。

 「衛兵隊も、厨房も、そして貴族たちも。どこまで腐敗が進行しているのかわからない。私の命令が届くのは、執務室のドア一枚向こうまでよ」


 「孤立無援だな」

 「だからこそ、外部の力が必要なの。組織の論理に縛られず、金と契約だけで動く『道具』がね」


 彼女は私を見た。

 「レティ。貴女の耳と、レオニスの武力。それを私に貸して」

 「条件は?」

 レオが即座に切り返す。


 「貴方たちの身分の回復。国家反逆罪の取り消しと、特務隊の再結成。そして、十分な活動資金」

 セレナは指を折って数えた。

 「それから、過去の全ての記録の抹消。貴方たちが『何をしたか』ではなく、『これから何をするか』だけを評価するわ」


 悪くない条件だ。

 逃亡生活には飽きていたし、屋根裏部屋の埃っぽさにもうんざりしていたところだ。

 だが、私にはもう一つ、譲れない条件があった。


 「お菓子」

 私が口を挟むと、セレナが片眉を上げた。

 「は?」


 「王室御用達のパティシエがいるんでしょ? 毎日、最高級の焼き菓子とチョコレートを私の部屋に届けること。それが条件よ」

 私は真顔で言った。

 「頭を使うと糖分が切れるの。ガス欠の車は走らないわよ」


 レオが呆れたように溜息をついたが、否定はしなかった。

 セレナは数秒間きょとんとしていたが、やがてくすりと笑った。

 「……いいわ。約束する。最高のタルトとマカロンを用意させましょう」


 「交渉成立ね」

 私はレオの脇腹を肘でつついた。

 「どうする、ボス? 再就職先としては悪くないと思うけど」


 レオは王宮の庭園を見渡し、それからセレナを見た。

 「一つ聞く。奴らの拠点はどこだ」

 「地下よ。厨房の搬入口から荷物が消えている。その先にある、旧王国の貯蔵庫跡」


 「地下か」

 レオは足元のタイルを靴底で踏んだ。

 「俺たちの足元に、敵が住んでいるわけだ」


 私は耳を澄ませた。

 バルコニーの床。

 分厚い石材と、その下にある構造体。

 さらにその下、王宮の土台となっている岩盤の深淵。


 ――回せ。

 ――歯車を噛み合わせろ。

 ――王の眠りを妨げるな。


 聞こえた。

 音楽でも、話し声でもない。

 地底から響いてくる、重低音の唸り。

 それは、北の廃鉱山で聞いたあの音――強制労働の怨嗟と、巨大な機械の駆動音――に似ていた。


 「……いるわね」

 私は床に膝をつき、耳を近づけた。

 「ただの貯蔵庫じゃないわ。もっと広い。迷路みたいに入り組んでる」


 「何が聞こえる」

 レオが屈み込む。


 「風の音。地下深くなのに、空気が流れてる。巨大な換気扇が動いてるわ」

 私は音の出所を探った。

 「位置は……庭園の噴水の下。あそこから空気を吸い込んでる」


 セレナが驚きの表情を浮かべた。

 「噴水? まさか。あそこはただの水源よ」

 「水音に隠して、吸気音を消してるのよ。賢い設計だわ」


 私は立ち上がった。

 ドレスの裾についた埃を払う。

 「入り口は厨房だけじゃない。きっと、王宮のあちこちに『ネズミの穴』が開いてる。奴らはそこから這い出してきて、夜な夜な城の中を歩き回ってるのよ」


 背筋が寒くなった。

 私たちは今まで、敵の巣の上で踊っていたのだ。

 

 レオが立ち上がり、上着のボタンを留め直した。

 「掃除のしがいがある現場だ」

 彼はセレナに向き直り、手を差し出した。

 ダンスの誘いではない。

 契約の握手だ。


 「引き受けよう、殿下。この城の地下に巣食う『蛇』を、一匹残らず駆除してやる」


 セレナはその手を取り、強く握り返した。

 「頼んだわ。私の城を、綺麗な場所に戻してちょうだい」


 「レティ」

 レオが私を見た。

 「行くぞ。着替えて、装備を整える。今夜は長い夜になる」


 「へいへい。まずはコルセットを外させて」

 私は仮面を手に取り、くるくると回した。

 「それと、前金としてチョコを一つ。厨房からくすねてきていい?」


 「好きにしろ。ただし、毒見は忘れるな」


 私たちはバルコニーを後にした。

 ガラス戸を開けると、再びワルツの音が溢れ出してくる。

 だが、今の私には、その旋律の下に隠された、地下機械の不協和音のほうが、はっきりと聞こえていた。


 王都の夜は終わらない。

 舞踏会の仮面を脱ぎ捨て、私たちは本当の仕事場――暗くて、汚くて、真実だけが転がっている場所――へと足を踏み入れた。

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