第80話 シャンデリアの熱
馬車の車輪が砂利を踏む音が止まった。
窓の外では、御者が馬をなだめる声と、ドアボーイが駆け寄ってくる足音が重なっている。
私は座席のクッションに背中を預けたまま、大きく息を吸おうとして失敗した。
コルセットが肋骨を締め上げ、肺の拡張を物理的に阻んでいる。
「……酸欠で倒れたら、そのまま運んでね」
私は扇子で顔を仰いだ。
「『田舎から出てきた妹は、都会の空気に当てられて気絶しました』って」
「死体遺棄の罪に問われるのは御免だ」
レオが先にドアを開け、降り立った。
彼は燕尾服の裾を整え、それから私に向かって恭しく手を差し出した。
仮面の下の瞳は冷ややかだが、その仕草だけは完璧な紳士のものだ。
私は彼の手を取り、重たいドレスの裾を蹴らないように慎重に地面へ足を下ろした。
王宮の正面玄関。
そこはすでに光の洪水だった。
巨大なガス灯が並び、着飾った貴族たちが次々と馬車から吐き出されていく。
香水の匂いがきつい。薔薇、ジャスミン、麝香。それらが混ざり合い、むせ返るような芳香の壁を作っていた。
「行くぞ、マリー」
レオが私の偽名を呼んだ。
「笑顔だ。歯を見せずに、口角だけ上げろ」
「努力するわ、お兄様」
私たちは腕を組み、大理石の階段を登った。
受付で招待状を渡す。
侍従は金箔の押されたカードと、私たちの服装を一瞥し、疑うこともなく道を開けた。
ミレイの用意した「架空の伯爵家」の肩書きは、通行手形として十分に機能したらしい。
*
大広間の扉が開かれると、音の暴力が私を襲った。
オーケストラの演奏。
何百人もの話し声。
グラスが触れ合う音。衣擦れの音。
それらが巨大なドーム状の天井に反響し、増幅されて降り注いでくる。
「っ……」
私は思わずレオの腕を強く掴んだ。
耳栓をしてくるべきだった。
ここは、北の工場の轟音とは違う種類の騒音地獄だ。
欲望と、見栄と、探り合いの思考が、高周波のノイズとなって脳を刺す。
「大丈夫か」
レオが耳元で囁く。
「酔ったか」
「少しね。情報量が多すぎるわ」
私は意識的に「聴覚のフィルター」を絞った。
全体のざわめきを環境音として処理し、個別の会話だけを拾えるように調整する。
私たちは広場の端、壁際の柱の陰に移動した。
ここなら目立たない。
給仕が盆に乗せて回っているシャンパンを二つ取り、乾杯のふりをする。
「……ターゲットは?」
私がグラスの縁越しに会場を見渡す。
仮面をつけた男女が、極彩色の波のように揺れている。
誰が誰だか判別がつかない。
「まだ現れていない」
レオはグラスに口をつけず、視線だけで群衆をスキャンしていた。
「主賓は遅れて登場するものだ。それまでは、雑魚たちの会話を拾え」
「へいへい」
私は目を閉じた。
近くのテーブルで談笑している、太った貴族と、痩せた軍人の会話に焦点を合わせる。
――北の鉱山が閉鎖されたらしい。
――投資した金がパーだ。
――いや、裏がある。軍の一部が動いたという噂だ。
「……北の話をしてる」
私はレオに告げた。
「鉱山への投資話。損をしたって嘆いてるわ」
「ただの金持ちの愚痴だな」
チャンネルを変える。
ダンスフロアの近く。扇子で口元を隠した婦人たちのグループ。
――聞いた? 最近、東の国境で『蛇』の紋章を見たって。
――怖い話ね。亡霊かしら。
――いいえ、新しい商売よ。武器の横流しが始まってるの。
「武器の横流し」
私が呟くと、レオの目が鋭くなった。
「場所は」
「東の国境。……『蛇』の名前が出たわ」
やはり、奴らは王都の地下水脈に根を張っている。
社交界という華やかな皮の下で、黒い血が流れているのだ。
その時、オーケストラの曲調が変わった。
優雅なワルツ。
人々がパートナーの手を取り、フロアの中央へと移動し始める。
「……踊るぞ」
レオがグラスを置いた。
「は? 何言ってるの。私はダンスなんて……」
「壁の花でいる方が目立つ。それに、フロアの中央に行けば、もっと濃い情報が拾える」
彼は私の返事を待たずに手を取った。
強引なエスコート。
私は引きずられるようにして、光の渦の中へと連れ出された。
*
「右足だ」
レオが小声で指示する。
「次は左。回転に合わせて下がれ」
「無理よ! ドレスが重いの!」
私は必死で彼のステップに合わせようとしたが、パニエが邪魔をして足元が見えない。
ガン。
私の爪先が、レオの革靴を蹴り飛ばした。
「……すまん」
「謝るくらいなら、もっと簡単なステップにしてよ」
レオは表情を変えなかった。
彼は私の腰に回した手に力を込め、私の体を強引に持ち上げるようにして誘導した。
まるで大きな荷物を運搬するかのような手つきだが、外から見れば情熱的なリードに見えなくもない。
私たちは回転しながら、フロアの中央へと進んだ。
周囲には、着飾った貴族たちが優雅に舞っている。
香水の匂いが強くなる。
耳を澄ます。
音楽の裏側にある、囁き声。
――例の件はどうなった?
――手はず通りだ。今夜、地下の搬入口から。
――『荷物』は届いているのか?
聞こえた。
すぐ隣で踊っている、背の高い男と、赤いドレスの女の会話。
――ああ。生きたままな。
――上等だ。実験体が足りなくて困っていた。
「……レオ」
私は彼の肩に置いた手に爪を立てた。
「右隣のカップル。赤いドレスの女」
「確認した」
レオは回転を利用して、視線をそちらに向けた。
「『荷物』の話をしてる。地下の搬入口から、生きたまま運び込むって」
「実験体か」
レオの声が低くなる。
「北の工場と同じことを、王宮の地下でやろうとしているのか」
男たちが離れていく。
曲が終わろうとしていた。
レオは最後の回転を決め、私を停止させた。
ふらつく私を、彼はしっかりと支える。
「……情報は十分だ」
「足も限界よ」
私は息を切らせた。
コルセットが食い込んで痛い。
その時、会場の空気が変わった。
ざわめきが止まり、照明が一段明るくなる。
大広間の正面、王族専用のバルコニーへの扉が開かれた。
ファンファーレが鳴り響く。
「主役のお出ましだ」
レオが視線を上げる。
バルコニーに現れたのは、銀色の髪を結い上げ、純白のドレスを纏った女性だった。
顔には銀の仮面。
だが、その立ち姿と、冷ややかな口元の笑みは隠しようがない。
亡命姫セレナ。
彼女は手すりに手を置き、眼下の群衆を見下ろした。
その視線が、群衆の中に紛れた私たちを見つけ、一瞬だけ止まった気がした。
彼女は扇子を広げ、口元を隠した。
それは挨拶ではなく、合図だった。
『始めましょう』という。
「……行くぞ」
レオが私の手を引いた。
「ダンスの相手を変える時間だ」
次の曲が始まる。
今度はもっと速い、攻撃的なテンポの曲だ。
私たちは人混みをかき分け、バルコニーへと続く階段の方角へ向かった。
その途中、私の耳はまた別の、不穏な音を拾っていた。
カチャリ。
給仕が持つトレイの下。
あるいは、楽団の楽器ケースの中。
金属が擦れる音。安全装置が外される音。
この舞踏会には、踊るためではなく、殺すために来ている客が紛れ込んでいる。




