表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

80/127

第80話 シャンデリアの熱

 馬車の車輪が砂利を踏む音が止まった。

 窓の外では、御者が馬をなだめる声と、ドアボーイが駆け寄ってくる足音が重なっている。

 私は座席のクッションに背中を預けたまま、大きく息を吸おうとして失敗した。

 コルセットが肋骨を締め上げ、肺の拡張を物理的に阻んでいる。


 「……酸欠で倒れたら、そのまま運んでね」

 私は扇子で顔を仰いだ。

 「『田舎から出てきた妹は、都会の空気に当てられて気絶しました』って」

 「死体遺棄の罪に問われるのは御免だ」


 レオが先にドアを開け、降り立った。

 彼は燕尾服の裾を整え、それから私に向かって恭しく手を差し出した。

 仮面の下の瞳は冷ややかだが、その仕草だけは完璧な紳士のものだ。


 私は彼の手を取り、重たいドレスの裾を蹴らないように慎重に地面へ足を下ろした。

 王宮の正面玄関。

 そこはすでに光の洪水だった。

 巨大なガス灯が並び、着飾った貴族たちが次々と馬車から吐き出されていく。

 香水の匂いがきつい。薔薇、ジャスミン、麝香じゃこう。それらが混ざり合い、むせ返るような芳香の壁を作っていた。


 「行くぞ、マリー」

 レオが私の偽名を呼んだ。

 「笑顔だ。歯を見せずに、口角だけ上げろ」

 「努力するわ、お兄様」


 私たちは腕を組み、大理石の階段を登った。

 受付で招待状を渡す。

 侍従は金箔の押されたカードと、私たちの服装を一瞥し、疑うこともなく道を開けた。

 ミレイの用意した「架空の伯爵家」の肩書きは、通行手形として十分に機能したらしい。


 *


 大広間の扉が開かれると、音の暴力が私を襲った。

 オーケストラの演奏。

 何百人もの話し声。

 グラスが触れ合う音。衣擦れの音。

 それらが巨大なドーム状の天井に反響し、増幅されて降り注いでくる。


 「っ……」

 私は思わずレオの腕を強く掴んだ。

 耳栓をしてくるべきだった。

 ここは、北の工場の轟音とは違う種類の騒音地獄だ。

 欲望と、見栄と、探り合いの思考が、高周波のノイズとなって脳を刺す。


 「大丈夫か」

 レオが耳元で囁く。

 「酔ったか」

 「少しね。情報量が多すぎるわ」


 私は意識的に「聴覚のフィルター」を絞った。

 全体のざわめきを環境音として処理し、個別の会話だけを拾えるように調整する。


 私たちは広場の端、壁際の柱の陰に移動した。

 ここなら目立たない。

 給仕が盆に乗せて回っているシャンパンを二つ取り、乾杯のふりをする。


 「……ターゲットは?」

 私がグラスの縁越しに会場を見渡す。

 仮面をつけた男女が、極彩色の波のように揺れている。

 誰が誰だか判別がつかない。


 「まだ現れていない」

 レオはグラスに口をつけず、視線だけで群衆をスキャンしていた。

 「主賓は遅れて登場するものだ。それまでは、雑魚たちの会話を拾え」


 「へいへい」

 私は目を閉じた。

 近くのテーブルで談笑している、太った貴族と、痩せた軍人の会話に焦点を合わせる。


 ――北の鉱山が閉鎖されたらしい。

 ――投資した金がパーだ。

 ――いや、裏がある。軍の一部が動いたという噂だ。


 「……北の話をしてる」

 私はレオに告げた。

 「鉱山への投資話。損をしたって嘆いてるわ」

 「ただの金持ちの愚痴だな」


 チャンネルを変える。

 ダンスフロアの近く。扇子で口元を隠した婦人たちのグループ。


 ――聞いた? 最近、東の国境で『蛇』の紋章を見たって。

 ――怖い話ね。亡霊かしら。

 ――いいえ、新しい商売よ。武器の横流しが始まってるの。


 「武器の横流し」

 私が呟くと、レオの目が鋭くなった。

 「場所は」

 「東の国境。……『蛇』の名前が出たわ」


 やはり、奴らは王都の地下水脈に根を張っている。

 社交界という華やかな皮の下で、黒い血が流れているのだ。


 その時、オーケストラの曲調が変わった。

 優雅なワルツ。

 人々がパートナーの手を取り、フロアの中央へと移動し始める。


 「……踊るぞ」

 レオがグラスを置いた。

 「は? 何言ってるの。私はダンスなんて……」

 「壁の花でいる方が目立つ。それに、フロアの中央に行けば、もっと濃い情報が拾える」


 彼は私の返事を待たずに手を取った。

 強引なエスコート。

 私は引きずられるようにして、光の渦の中へと連れ出された。


 *


 「右足だ」

 レオが小声で指示する。

 「次は左。回転に合わせて下がれ」


 「無理よ! ドレスが重いの!」

 私は必死で彼のステップに合わせようとしたが、パニエが邪魔をして足元が見えない。

 ガン。

 私の爪先が、レオの革靴を蹴り飛ばした。


 「……すまん」

 「謝るくらいなら、もっと簡単なステップにしてよ」


 レオは表情を変えなかった。

 彼は私の腰に回した手に力を込め、私の体を強引に持ち上げるようにして誘導した。

 まるで大きな荷物を運搬するかのような手つきだが、外から見れば情熱的なリードに見えなくもない。


 私たちは回転しながら、フロアの中央へと進んだ。

 周囲には、着飾った貴族たちが優雅に舞っている。

 香水の匂いが強くなる。


 耳を澄ます。

 音楽の裏側にある、囁き声。


 ――例の件はどうなった?

 ――手はず通りだ。今夜、地下の搬入口から。

 ――『荷物』は届いているのか?


 聞こえた。

 すぐ隣で踊っている、背の高い男と、赤いドレスの女の会話。


 ――ああ。生きたままな。

 ――上等だ。実験体が足りなくて困っていた。


 「……レオ」

 私は彼の肩に置いた手に爪を立てた。

 「右隣のカップル。赤いドレスの女」

 「確認した」

 レオは回転を利用して、視線をそちらに向けた。


 「『荷物』の話をしてる。地下の搬入口から、生きたまま運び込むって」

 「実験体か」

 レオの声が低くなる。

 「北の工場と同じことを、王宮の地下でやろうとしているのか」


 男たちが離れていく。

 曲が終わろうとしていた。

 レオは最後の回転を決め、私を停止させた。

 ふらつく私を、彼はしっかりと支える。


 「……情報は十分だ」

 「足も限界よ」

 私は息を切らせた。

 コルセットが食い込んで痛い。


 その時、会場の空気が変わった。

 ざわめきが止まり、照明が一段明るくなる。

 大広間の正面、王族専用のバルコニーへの扉が開かれた。


 ファンファーレが鳴り響く。

 

 「主役のお出ましだ」

 レオが視線を上げる。


 バルコニーに現れたのは、銀色の髪を結い上げ、純白のドレスを纏った女性だった。

 顔には銀の仮面。

 だが、その立ち姿と、冷ややかな口元の笑みは隠しようがない。


 亡命姫セレナ。

 彼女は手すりに手を置き、眼下の群衆を見下ろした。

 その視線が、群衆の中に紛れた私たちを見つけ、一瞬だけ止まった気がした。


 彼女は扇子を広げ、口元を隠した。

 それは挨拶ではなく、合図だった。

 『始めましょう』という。


 「……行くぞ」

 レオが私の手を引いた。

 「ダンスの相手を変える時間だ」


 次の曲が始まる。

 今度はもっと速い、攻撃的なテンポの曲だ。

 私たちは人混みをかき分け、バルコニーへと続く階段の方角へ向かった。

 その途中、私の耳はまた別の、不穏な音を拾っていた。


 カチャリ。

 

 給仕が持つトレイの下。

 あるいは、楽団の楽器ケースの中。

 金属が擦れる音。安全装置が外される音。


 この舞踏会には、踊るためではなく、殺すために来ている客が紛れ込んでいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ