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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第8話 夜明けの轍

 新しい支給品は、予想よりも重かった。

 灰色のウールコート。サイズはまだ少し大きいが、袖を捲れば着られないことはない。前の持ち主の血も、泥も、脂のシミもついていない新品だ。

 私は襟を立て、ボタンを上まで留めた。首元まで包まれる感触が、外気の冷たさを物理的に遮断する。


 「文句は」

 レオニスが荷台の点検をしながら聞いた。彼はすでに身支度を整え、革手袋を嵌めている。

 「生地が硬い。肩が凝りそう」

 「防寒性と防刃性を優先した。文句があるなら裸で歩け」

 「遠慮するわ。ありがたく着させてもらう」


 私はコートのポケットに手を入れた。深くて広い。ビスケットやチョコレートを隠すには十分な容量だ。

 撤収作業は終わりかけていた。

 テントが畳まれ、木箱がトラックに積み込まれていく。兵士たちが忙しなく動き回る中、私たちはジープの前に立っていた。


 「乗れ。王都へ向かう」

 レオニスが助手席のドアを開けた。

 「王都? 戦後管理局があるところ?」

 「ああ。俺たちの本拠地であり、お前の新しい職場だ」


 私は泥のついたブーツの泥を落としてから、シートに乗り込んだ。

 クッションは硬いが、徒歩で移動するよりはマシだ。

 レオニスが運転席に座る。今回は運転手がいないらしい。


 「専属運転手は?」

 「置いていく。王都までの道のりは長い。余計な人間がいると話がしづらい」

 彼はキーを回し、エンジンを始動させた。

 重低音が響き、車体が小刻みに震える。


 レオニスは発進する前に、胸ポケットから折りたたまれた書類を取り出し、私の膝の上に放った。

 「目を通せ。契約書だ」


 私は紙を開いた。

 『戦後処理業務委託契約書』と書かれている。

 文字は細かく、条項がびっしりと並んでいた。


 「読むのが面倒ね。要点は?」

 「報酬は月給制。危険手当は別。住居は管理局の寮を用意する。食事付き」

 「糖分は?」

 「『業務遂行に必要な消耗品』として申請すれば、審査の上で支給する」


 「悪くない条件ね」

 私は書類の末尾を見た。署名欄が空白になっている。

 「ペン、貸して」


 レオニスが胸から万年筆を抜き、私に渡した。

 インクの残量が見える、高そうなペンだ。

 私は膝の上で紙を固定し、『レティ』とだけ書いた。

 

 「……苗字は」

 レオニスがハンドルを握ったまま聞いた。

 「ないわ。孤児院でも番号で呼ばれてたし」

 「空欄だと書類が通らん」


 彼は私からペンを取り返すと、署名欄の私の名前の横に、流れるような筆記体で何かを書き足した。

 『所属:レオニス特務隊』

 

 「これでいい。身元引受人は俺だ」

 「便利ね。何かあったら全部あなたのせいにするわ」

 「お前が問題を起こさない限り、その必要はない」


 彼はサイドブレーキを下ろし、ギアを入れた。

 ジープが動き出す。

 わだちに溜まった泥水を跳ね上げながら、私たちは野営地を後にした。


 *


 車窓の外を、荒涼とした景色が流れていく。

 霧は晴れかけていたが、空はまだ低い鉛色だ。

 道端には、壊れた大砲や、主を失ったヘルメットが点々と転がっている。


 当然、私の脳内ラジオはスイッチが入ったままだ。


 ――置いていくな。

 ――まだ戦える。

 ――母さん。


 通り過ぎる残響たち。

 私はコートの襟に顔を埋め、それらを環境音として聞き流した。

 慣れとは恐ろしいもので、死者の絶叫も、風の音やエンジンのノイズと同じレベルで処理できるようになってきている。


 車が古い石橋に差し掛かった時だった。

 橋の欄干に、一台の黒塗りの馬車が引っかかっているのが見えた。

 爆撃を受けたのか、半分以上が川に落ちかけている。装飾が豪華だ。貴族の馬車だろう。


 その横を通り過ぎた瞬間、私の鼓膜を、冷たい指で撫でられたような感覚が襲った。


 ――……見つけた。


 雑音ではない。明確な「意志」を持った声。

 男の声でも、女の声でもない。もっと無機質な、記録媒体が再生されたような響き。


 ――銀の耳を持つ娘。

 ――『鍵』は、生きて移動している。


 私は反射的に振り返った。

 馬車は遠ざかっていく。人影はない。川の水面が揺れているだけだ。


 「どうした」

 レオニスが前を向いたまま聞いた。


 「……ううん、なんでもない」

 私は座り直した。

 「ただの空耳。幽霊が『忘れ物を取りに来い』って言ってただけ」


 「忘れ物なら、戦後管理局の管轄だ。申請書を出せば、いつか回収される」

 「そうね。書類仕事に任せましょう」


 私はポケットの中のチョコレートに触れた。

 銀紙の感触。

 今の声は、今までの「死に際の後悔」とは違った。

 誰かを探しているような、任務を帯びた声。

 

 『銀の耳を持つ娘』。

 

 私のことだろうか。

 自意識過剰かもしれない。この戦場には、耳のいい斥候せっこうなんていくらでもいたはずだ。

 私はそう結論づけ、チョコレートの端を折って口に入れた。

 甘さが広がり、嫌な予感を塗り潰していく。


 「王都まではどれくらい?」

 「道が良ければ半日だ。寝ておけ」

 「そうさせてもらうわ。着いたら起こして。美味しい店があるなら、そこでもいいけど」


 レオニスは鼻で笑った。

 「王都にあるのは、高い店か、不味い店か、その両方だ」


 ジープは速度を上げた。

 背後の戦場が、地平線の向こうへと消えていく。

 私の膝の上には、インクの乾いた契約書。

 これからの私の命綱だ。

 私はそれを四つ折りにし、胸のポケットへ深く押し込んだ。

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