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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第79話 燕尾服の背中

 ミレイの執務机の上に、黒いプラスチックの小箱――楽屋から回収した盗聴器――を置いた。

 コツン、と乾いた音がする。

 その横に、カトリーナを脅迫していた男の拳銃と、警察手帳の偽物を並べる。


 「これが『幽霊』の正体よ」

 私はソファに深く沈み込み、テーブルの上のクッキーを掴んだ。

 「正体は電気仕掛けの耳と、強請ゆすり屋の舌。除霊は完了したわ」


 ミレイは盗聴器を手に取り、裏側の製造番号を確認した。

 「……軍の横流し品ね。相変わらず趣味が悪い」

 彼女は証拠品を引き出しにしまい、鍵をかけた。

 「カトリーナは?」

 「喉の調子は万全よ。今夜の公演では、いつもより高い声が出るはずだわ」


 レオは窓際に立ち、ブラインドの隙間から通りを見下ろしていた。

 「男は地下の倉庫に縛ってある。憲兵に引き渡すか、運河に流すかは任せる」

 「適切に処理するわ」

 ミレイはさらりと答え、別の封筒を取り出した。

 厚みがあり、香水の匂いがする。

 封には王家の紋章が型押しされていた。


 「約束の品よ」

 ミレイが封筒を差し出す。

 「明日の晩、王宮で開かれる仮面舞踏会の招待状。差出人は架空の伯爵家になっているから、身元照会はパスできるわ」


 私はクッキーを齧りながら封筒を受け取った。

 中には、金箔で縁取られたカードが二枚。

 『仮面の下に真実を隠し、月下の宴に集われよ』。

 キザな文句だ。


 「仮面か」

 レオが振り返る。

 「好都合だ。俺たちの顔を知っている人間は多い。素顔で王宮に入れば、入口で銃撃戦になる」

 「でも、服装はどうするの?」

 私は自分の薄汚れたコートの袖を引っ張った。

 「この格好じゃ、厨房の皿洗いとしても入れてもらえないわよ」


 ミレイがニヤリと笑った。

 商売人の顔だ。

 「心配ないわ。ここは商会よ? 商品は山ほどある」

 彼女はパンパンと手を叩いた。

 「さあ、衣装部屋へ行きましょう。シンデレラごっこは好きかしら?」


 *


 三十分後、私は呼吸困難に陥っていた。


 「……ぐっ、苦し……!」

 「息を止めて! あと三センチよ!」


 衣装部屋の奥、カーテンで仕切られたスペースで、私はミレイと二人の針子(お針子)に取り囲まれていた。

 彼女たちは私の背中に回り込み、コルセットの紐を万力のような力で締め上げている。

 肋骨がきしむ音が、自分の体内から聞こえた気がした。


 「無理よ! 内臓が破裂する!」

 「破裂しないわ。移動するだけよ」

 ミレイは容赦なく紐を引いた。

 「ウエストのくびれがないと、ドレスのラインが出ないの。我慢なさい」


 「くびれなんて要らない……ただの変装でしょ……」

 「貴族の令嬢になりすますんでしょう? 田舎娘の体型のままじゃ、会場に入った瞬間に浮くわよ」


 ミレイが最後の一締めを行い、結び目を固定した。

 私は柱にしがみつき、浅い呼吸を繰り返した。

 肺の容量が半分になった気分だ。

 その上から、絹の肌着、パニエ、そして重たいドレスが被せられる。

 色は深い青。

 生地は上質だが、肩周りが大きく開いていて寒い。


 「……防御力がゼロね」

 私は鏡の中の自分を見た。

 胸元が無防備だ。ナイフ一本隠せない。

 「スカートの中には仕込めるけど、走ったら裾を踏んで転ぶわ」


 「走らなきゃいいのよ。貴婦人は優雅に歩くものだわ」

 ミレイは私の髪をアップにし、真珠のピンで留めた。

 「はい、出来上がり。黙っていれば深窓の令嬢に見えるわよ」


 カーテンが開けられた。

 

 部屋の反対側では、レオの着替えも終わっていた。

 彼は鏡の前で、袖口のカフスボタンを留めているところだった。

 黒の燕尾服。

 白のベストと蝶ネクタイ。

 髪は整髪料で後ろに撫で付けられ、無精髭もきれいに剃り落とされていた。


 彼は私を見て、眉をひそめたわけでも、笑ったわけでもなかった。

 ただ、淡々と事実を述べるように言った。

 「……背筋を伸ばせ。猫背だとドレスが泣く」


 「うるさいわね。あんたこそ、首が苦しそうよ」

 私は言い返したが、正直、見違えていた。

 作業着姿の便利屋は消え、そこにはかつて社交界でも名を馳せたであろう、洗練された紳士が立っていた。

 立ち姿の重心が安定しているせいで、ただ立っているだけで絵になる。


 「軍服と変わらん」

 レオは上着の裾を払った。

 「窮屈で、動きにくく、見栄えだけを重視した拘束具だ」

 「でも、似合ってるわよ」

 ミレイが満足げに頷いた。

 「二人とも合格点ね。これなら王族の前に出ても恥ずかしくないわ」


 彼女はテーブルの上にあった箱を開けた。

 中には、二つの仮面が入っている。

 レオ用には、顔の上半分を覆う黒いドミノマスク。

 私用には、白い羽根飾りのついたハーフマスク。


 「着けてみて」


 私はマスクを手に取り、顔に当てた。

 視界が狭まる。

 鏡の中の少女の顔が隠れ、正体不明の「誰か」に変わる。


 レオもマスクを着けた。

 黒いマスクが、彼のアイスブルーの瞳を強調している。

 表情が読めない。

 冷徹な将軍の顔とも、優しい相棒の顔とも違う。

 得体の知れない怪人の顔だ。


 「……行くぞ、レティ」

 レオが私に手を差し出した。

 エスコートの形。

 その手つきは、フライパンを振るう時よりもずっと自然で、堂に入っていた。


 「名前を変えよう」

 彼が言った。

 「今夜だけは、俺たちは『レオとレティ』ではない」

 「じゃあ、誰?」

 「南部の田舎から出てきた、没落貴族の兄妹だ。世間知らずで、少しばかりダンスが下手な」


 「ダンスが下手なのは演技じゃないわよ」

 私は彼の手を取った。

 手袋越しの感触。

 コルセットのせいで息は苦しいが、彼の手の温かさだけは変わらなかった。


 「馬車を用意してあるわ」

 ミレイが裏口のドアを開けた。

 「楽しんできて。お土産は結構よ。生きて帰ってきてくれればね」


 私たちは夜の街へと踏み出した。

 石畳を叩く革靴とヒールの音が、不揃いなリズムを刻む。

 王宮の方角、空が明るく光っているのが見えた。

 舞踏会の灯りだ。

 そこには、音楽とワイン、そして私たちの命を狙う「蛇」たちが待っている。

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