第78話 鏡の中の配線
楽屋の床は、安い安宿のそれとは違い、足音が吸い込まれるような厚い絨毯で覆われていた。
私はモップの手を止め、鏡台の前に散乱した化粧品の山を見下ろした。
蓋の開いた白粉の缶。
使いかけの紅筆。
そして、飲みかけのワイングラスの縁に残る、鮮血のような口紅の跡。
「……掃除のしがいがある部屋ね」
私は独り言を漏らし、散らばったティッシュをゴミ箱へ蹴り込んだ。
空気は甘く、重い。
大量の香水と、整髪料、それに焦げたようなタバコの臭いが混ざり合っている。華やかな舞台の裏側にある、生活の饐えた臭いだ。
「文句を言うな。給料分は働け」
部屋の隅で、レオが棚の蝶番をドライバーで回していた。
彼は今、建具の修理係としてこの部屋に居座っている。
作業着の背中にはペンキのシミがついたままだが、手つきだけは精密機械を扱うように慎重だった。
「働いてるわよ。でも、この部屋の主は少し神経質すぎるみたい」
私は鏡台の引き出しに手をかけた。
鍵はかかっていない。
中にはファンレターの束と、鎮痛剤の瓶が転がっている。
「カトリーナ・ベルク。王都で一番の歌姫」
私はポスターの名前を読み上げた。
「歌声は天使だけど、私生活は薬漬けってところかしら」
私はモップを置き、部屋の中央にある衣装掛けに近づいた。
明日の公演で使うドレスが掛かっている。
深紅のベルベット。金糸の刺繍。
重そうだ。これを着て歌うには、相当な体力が要るだろう。
その時、私の耳が微かな異音を拾った。
ドレスの衣擦れではない。
もっと硬質で、一定の周波数を刻む電子音。
ジジッ、ジジッ。
「……レオ」
私は衣装掛けの裏に回った。
「当たりよ。幽霊の正体」
レオが手を止め、無言でこちらを見る。
私はドレスの裾をめくり上げ、その奥にある壁のコンセントプレートを指差した。
見た目は普通だ。
だが、その裏側から、盗聴器特有の「聞きたい」という貪欲な磁場が漏れ出している。
――声を拾え。
――全部録れ。
――逃がすな。
「壁の中ね」
私はプレートに耳を寄せた。
「配線に寄生してる。電源は建物の電気を使ってるから、電池切れの心配もない」
レオが近づき、ドライバーをプレートのネジに当てた。
回す。
プレートが外れ、中の配線が露わになる。
その隙間に、親指ほどの大きさの黒いボックスが挟み込まれていた。
赤いランプが、心臓の鼓動のように点滅している。
「……軍用だな」
レオがボックスを引きずり出した。
コードが繋がったままだ。
「市販品じゃない。通信傍受用の高性能マイクだ」
「誰が仕掛けたのかしら。熱狂的なファン?」
「ファンなら寝室に仕掛ける。ここは楽屋だ。仕事の話を聞きたい連中の仕業だろう」
その時、廊下から足音が近づいてきた。
ヒールの音。
それと、靴底の厚い男の足音。
「戻せ」
レオが短く命じた。
私はボックスを壁の穴に押し込み、プレートを元の位置に戻した。
レオは瞬時に棚の前へ戻り、修理の続きを装う。
私はモップを掴み、床を磨くふりをした。
ガチャリ。
ドアが開いた。
入ってきたのは、ポスターの女性――カトリーナだった。
彼女は舞台メイクをしたままだったが、その表情は崩れ、目元には黒い隈が浮いていた。
後ろから、スーツを着た男が入ってくる。
撫で付けた髪。高そうな革靴。
だが、その目は爬虫類のように冷たかった。
「……出て行って」
カトリーナが震える声で言った。
私たちにではない。男に対してだ。
「もう話すことはないわ」
「つれないな、歌姫」
男はドアを閉め、鍵をかけた。
カチリ、という音が密室を作る。
彼は部屋の隅にいる私たちを一瞥したが、ただの掃除夫と修理工だと判断したのか、無視してカトリーナに詰め寄った。
「明日の段取りは伝えたはずだ。第二幕、アリアの最中だ」
男はカトリーナの肩に手を置いた。
「貴賓席のドアの鍵を開けておけ。それだけでいい」
「できないわ!」
カトリーナが男の手を振り払った。
「あそこには護衛がいるのよ。それに、もし何かあったら、私のキャリアは……」
「キャリア?」
男は鼻で笑った。
彼は懐から封筒を取り出し、鏡台の上に放り投げた。
中から写真が数枚、滑り出る。
「これが世に出れば、君のキャリアは今夜で終わりだ」
男は写真の一枚を指先で弾いた。
「違法薬物の取引現場。君が売人から白い粉を受け取っている決定的な瞬間だ」
カトリーナの顔から血の気が引いた。
彼女は鏡台に手をつき、崩れ落ちそうになる体を支えた。
「……酷い」
「取引だ」
男は優しく彼女の髪を撫でた。
「明日の公演に来る『来賓』。彼には消えてもらう必要がある。君はその手引きをするだけだ。成功すれば、この写真もネガも処分してやる」
私はモップを動かしながら、男の背中を睨んだ。
『蛇』の手先だ。
やり口が汚い。弱みを握り、脅し、使い潰す。
耳を澄ます。
カトリーナの心臓の音。
早鐘を打っている。恐怖と、絶望。
――助けて。
――誰か。
――もう嫌だ。歌いたいだけなのに。
彼女の心の声が、私の脳に直接響く。
それは、北の工場で聞いた子供たちの声や、あの聖女の声と同じ響きを持っていた。
男がカトリーナの顎を掴み、無理やり上を向かせた。
「返事は?」
「……わかり、ました」
カトリーナが涙声で答える。
「やります。だから、写真は……」
「いい子だ」
男は満足げに笑い、ポケットからハンカチを取り出して手を拭いた。
まるで汚いものを触ったかのように。
そのハンカチが床に落ちる前に、影が動いた。
「……随分と安っぽい脚本だな」
低い声。
男が振り返るのと、レオが間合いを詰めるのは同時だった。
レオの手には、ドライバーも金槌もない。
ただの素手だ。
「誰だ貴様……!」
男が懐に手を伸ばそうとする。
遅い。
レオは男の手首を掴み、関節を極めたまま鏡台の方へ押し込んだ。
ガシャン!
男の顔面が鏡に叩きつけられる。
亀裂が走り、破片が飛び散った。
男は悲鳴を上げる暇もなく、床に崩れ落ちた。
カトリーナが悲鳴を上げようとして、口を手で覆った。
「な、何を……あなたたちは……」
「掃除屋です」
私はモップを立てかけ、鏡台の上の写真を回収した。
「害虫駆除も承っております」
レオは気絶した男の懐を探り、拳銃と手帳を抜き取った。
「……やはりな。『蛇』の構成員だ」
彼は手帳をパラパラとめくり、特定のページで手を止めた。
「明日の暗殺計画。ターゲットは……」
彼の目が私に向けられる。
言葉にしなくてもわかった。
そこに書かれている名前は、私たちがよく知る人物のものだ。
「……セレナ姫」
私が呟くと、レオは無言で頷いた。
カトリーナが震えながら私たちを見ていた。
「あ、あなたたち、一体……」
「味方よ。たぶんね」
私は写真を暖炉にくべようとして、思いとどまった。
これは証拠になる。
私はカトリーナに向き直り、彼女の手を取った。
冷たく、汗ばんだ手。
「歌姫さん。取引をしましょう」
「取引?」
「ええ。この男を始末して、写真も消してあげる。その代わり、明日の舞台で私たちに協力して」
カトリーナは迷っていた。
だが、私の目を見て、そして床に転がる男を見て、覚悟を決めたように頷いた。
「……わかったわ。何をすればいいの?」
「簡単よ」
私はニッコリと笑った。
「いつも通り歌うの。ただし、最高のアリアをね。観客全員が、暗殺者の足音に気づかないくらい大声で」
レオが男を担ぎ上げた。
「こいつは地下の資材置き場に隠す。ガイルの隣で寝かせておこう」
「頼んだわ、大道具さん」
私は壊れた鏡を見た。
ひび割れたガラスの中に、掃除婦の格好をした私と、ドレスを着た歌姫が映っている。




