表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

78/134

第78話 鏡の中の配線

 楽屋の床は、安い安宿のそれとは違い、足音が吸い込まれるような厚い絨毯で覆われていた。

 私はモップの手を止め、鏡台の前に散乱した化粧品の山を見下ろした。

 蓋の開いた白粉おしろいの缶。

 使いかけの紅筆。

 そして、飲みかけのワイングラスの縁に残る、鮮血のような口紅の跡。


 「……掃除のしがいがある部屋ね」

 私は独り言を漏らし、散らばったティッシュをゴミ箱へ蹴り込んだ。

 空気は甘く、重い。

 大量の香水と、整髪料、それに焦げたようなタバコの臭いが混ざり合っている。華やかな舞台の裏側にある、生活のえた臭いだ。


 「文句を言うな。給料分は働け」

 部屋の隅で、レオが棚の蝶番ちょうつがいをドライバーで回していた。

 彼は今、建具の修理係としてこの部屋に居座っている。

 作業着の背中にはペンキのシミがついたままだが、手つきだけは精密機械を扱うように慎重だった。


 「働いてるわよ。でも、この部屋の主は少し神経質すぎるみたい」

 私は鏡台の引き出しに手をかけた。

 鍵はかかっていない。

 中にはファンレターの束と、鎮痛剤の瓶が転がっている。


 「カトリーナ・ベルク。王都で一番の歌姫」

 私はポスターの名前を読み上げた。

 「歌声は天使だけど、私生活は薬漬けってところかしら」


 私はモップを置き、部屋の中央にある衣装掛けに近づいた。

 明日の公演で使うドレスが掛かっている。

 深紅のベルベット。金糸の刺繍。

 重そうだ。これを着て歌うには、相当な体力が要るだろう。


 その時、私の耳が微かな異音を拾った。

 ドレスの衣擦れではない。

 もっと硬質で、一定の周波数を刻む電子音。

 ジジッ、ジジッ。


 「……レオ」

 私は衣装掛けの裏に回った。

 「当たりよ。幽霊の正体」


 レオが手を止め、無言でこちらを見る。

 私はドレスの裾をめくり上げ、その奥にある壁のコンセントプレートを指差した。

 見た目は普通だ。

 だが、その裏側から、盗聴器特有の「聞きたい」という貪欲な磁場が漏れ出している。


 ――声を拾え。

 ――全部録れ。

 ――逃がすな。


 「壁の中ね」

 私はプレートに耳を寄せた。

 「配線に寄生してる。電源は建物の電気を使ってるから、電池切れの心配もない」


 レオが近づき、ドライバーをプレートのネジに当てた。

 回す。

 プレートが外れ、中の配線が露わになる。

 その隙間に、親指ほどの大きさの黒いボックスが挟み込まれていた。

 赤いランプが、心臓の鼓動のように点滅している。


 「……軍用だな」

 レオがボックスを引きずり出した。

 コードが繋がったままだ。

 「市販品じゃない。通信傍受用の高性能マイクだ」


 「誰が仕掛けたのかしら。熱狂的なファン?」

 「ファンなら寝室に仕掛ける。ここは楽屋だ。仕事の話を聞きたい連中の仕業だろう」


 その時、廊下から足音が近づいてきた。

 ヒールの音。

 それと、靴底の厚い男の足音。


 「戻せ」

 レオが短く命じた。

 私はボックスを壁の穴に押し込み、プレートを元の位置に戻した。

 レオは瞬時に棚の前へ戻り、修理の続きを装う。

 私はモップを掴み、床を磨くふりをした。


 ガチャリ。

 ドアが開いた。


 入ってきたのは、ポスターの女性――カトリーナだった。

 彼女は舞台メイクをしたままだったが、その表情は崩れ、目元には黒いくまが浮いていた。

 後ろから、スーツを着た男が入ってくる。

 撫で付けた髪。高そうな革靴。

 だが、その目は爬虫類のように冷たかった。


 「……出て行って」

 カトリーナが震える声で言った。

 私たちにではない。男に対してだ。

 「もう話すことはないわ」


 「つれないな、歌姫」

 男はドアを閉め、鍵をかけた。

 カチリ、という音が密室を作る。

 彼は部屋の隅にいる私たちを一瞥したが、ただの掃除夫と修理工だと判断したのか、無視してカトリーナに詰め寄った。


 「明日の段取りは伝えたはずだ。第二幕、アリアの最中だ」

 男はカトリーナの肩に手を置いた。

 「貴賓席のドアの鍵を開けておけ。それだけでいい」


 「できないわ!」

 カトリーナが男の手を振り払った。

 「あそこには護衛がいるのよ。それに、もし何かあったら、私のキャリアは……」


 「キャリア?」

 男は鼻で笑った。

 彼は懐から封筒を取り出し、鏡台の上に放り投げた。

 中から写真が数枚、滑り出る。


 「これが世に出れば、君のキャリアは今夜で終わりだ」

 男は写真の一枚を指先で弾いた。

 「違法薬物の取引現場。君が売人から白い粉を受け取っている決定的な瞬間だ」


 カトリーナの顔から血の気が引いた。

 彼女は鏡台に手をつき、崩れ落ちそうになる体を支えた。


 「……酷い」

 「取引だ」

 男は優しく彼女の髪を撫でた。

 「明日の公演に来る『来賓』。彼には消えてもらう必要がある。君はその手引きをするだけだ。成功すれば、この写真もネガも処分してやる」


 私はモップを動かしながら、男の背中を睨んだ。

 『蛇』の手先だ。

 やり口が汚い。弱みを握り、脅し、使い潰す。


 耳を澄ます。

 カトリーナの心臓の音。

 早鐘を打っている。恐怖と、絶望。


 ――助けて。

 ――誰か。

 ――もう嫌だ。歌いたいだけなのに。


 彼女の心の声が、私の脳に直接響く。

 それは、北の工場で聞いた子供たちの声や、あの聖女の声と同じ響きを持っていた。


 男がカトリーナの顎を掴み、無理やり上を向かせた。

 「返事は?」

 「……わかり、ました」

 カトリーナが涙声で答える。

 「やります。だから、写真は……」


 「いい子だ」

 男は満足げに笑い、ポケットからハンカチを取り出して手を拭いた。

 まるで汚いものを触ったかのように。


 そのハンカチが床に落ちる前に、影が動いた。


 「……随分と安っぽい脚本だな」


 低い声。

 男が振り返るのと、レオが間合いを詰めるのは同時だった。

 レオの手には、ドライバーも金槌もない。

 ただの素手だ。


 「誰だ貴様……!」

 男が懐に手を伸ばそうとする。

 遅い。

 レオは男の手首を掴み、関節を極めたまま鏡台の方へ押し込んだ。


 ガシャン!


 男の顔面が鏡に叩きつけられる。

 亀裂が走り、破片が飛び散った。

 男は悲鳴を上げる暇もなく、床に崩れ落ちた。


 カトリーナが悲鳴を上げようとして、口を手で覆った。

 「な、何を……あなたたちは……」


 「掃除屋です」

 私はモップを立てかけ、鏡台の上の写真を回収した。

 「害虫駆除も承っております」


 レオは気絶した男の懐を探り、拳銃と手帳を抜き取った。

 「……やはりな。『蛇』の構成員だ」

 彼は手帳をパラパラとめくり、特定のページで手を止めた。

 「明日の暗殺計画。ターゲットは……」


 彼の目が私に向けられる。

 言葉にしなくてもわかった。

 そこに書かれている名前は、私たちがよく知る人物のものだ。


 「……セレナ姫」

 私が呟くと、レオは無言で頷いた。


 カトリーナが震えながら私たちを見ていた。

 「あ、あなたたち、一体……」

 「味方よ。たぶんね」

 私は写真を暖炉にくべようとして、思いとどまった。

 これは証拠になる。


 私はカトリーナに向き直り、彼女の手を取った。

 冷たく、汗ばんだ手。

 「歌姫さん。取引をしましょう」

 「取引?」

 「ええ。この男を始末して、写真も消してあげる。その代わり、明日の舞台で私たちに協力して」


 カトリーナは迷っていた。

 だが、私の目を見て、そして床に転がる男を見て、覚悟を決めたように頷いた。

 「……わかったわ。何をすればいいの?」


 「簡単よ」

 私はニッコリと笑った。

 「いつも通り歌うの。ただし、最高のアリアをね。観客全員が、暗殺者の足音に気づかないくらい大声で」


 レオが男を担ぎ上げた。

 「こいつは地下の資材置き場に隠す。ガイルの隣で寝かせておこう」

 「頼んだわ、大道具さん」


 私は壊れた鏡を見た。

 ひび割れたガラスの中に、掃除婦の格好をした私と、ドレスを着た歌姫が映っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ