表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

77/128

第77話 裏切りの足音

 主演女優の悲鳴は、まだ劇場の天井に反響していた。

 スタッフたちが駆け寄り、彼女を抱え起こして舞台袖へと連れて行く。

 私はモップを握りしめたまま、床に散らばった照明器具の破片を見下ろした。

 ガラス片がスポットライトの光を受けて、雪原のように白く輝いている。


 「……掃除の時間ね」

 私はため息をつき、散乱した破片を掃き集め始めた。

 すぐ横で、舞台監督が顔を真っ赤にして怒鳴り散らしている。

 「点検係! どうなっているんだ! 初日が明日なんだぞ!」


 レオが監督の後ろを通り過ぎ、切れたワイヤーがぶら下がるバトンの下へ向かった。

 彼は作業用手袋をはめた手で、切断面を触るふりをして確認する。

 そして、私の近くですれ違いざまに囁いた。


 「断面が平らだ。金属疲労じゃない。ペンチで切られている」

 「わかってるわ。ワイヤーが『痛かった』って泣いてるもの」

 私は塵取りに破片を移した。

 「でも、完全に切らずに皮一枚残してた。振動で切れるようにね。プロの犯行よ」


 「目的は殺害ではなく、混乱か」

 レオはバトンを滑車から外し、肩に担いだ。

 「修理してくる」

 そう言って、彼は舞台裏の工具室の方角へ消えた。


 私は掃除を終え、モップをバケツに突っ込んだ。

 周囲の騒ぎは収まらない。

 役者たちは不安そうに囁き合い、裏方たちは責任の押し付け合いをしている。

 

 耳を澄ます。

 この混乱に乗じて、動いている「影」がいるはずだ。

 表の騒ぎを隠れ蓑にして、裏で何かを運んでいる連中が。


 ――今だ。

 ――誰も見ていない。

 ――搬入口を開けろ。


 聞こえた。

 舞台の下、「奈落」と呼ばれる地下空間から響いてくる、押し殺した声。

 

 私はバケツを持って、地下への階段を下りた。

 「掃除用具の交換」という名目は、どこへ行くにも便利な通行手形だ。


 *


 奈落は、地上よりも湿度がずっと高かった。

 かびと、古い木材の腐った臭いが鼻をつく。

 頭上からは、舞台を行き来する役者たちの足音が、ドンドンという太鼓のような音になって降ってくる。


 私は壁に張り付き、通路の奥を覗いた。

 普段は使われていない資材置き場の扉が開いている。

 中から、ランタンの光が漏れていた。


 男たちが三人、木箱を運んでいる。

 作業服を着ているが、その身のこなしは荷運び人夫のそれではない。足音が静かすぎる。

 そして、彼らの腕には、作業服の下に隠された硬い膨らみがあった。

 ホルスターだ。


 「……そっちはどうだ」

 一人が小声で尋ねる。

 「上はパニックだ。照明係を買収して正解だったな」

 「女優には気の毒だが、最高の目眩めくらましだ」


 やはり、さっきの事故は彼らが仕組んだものだった。

 彼らは木箱を積み上げ、その上に防水シートを被せている。

 箱の中身の音が聞こえる。


 チク、タク、チク、タク。


 時計の音。

 いや、時限装置だ。

 そして、その横にある、粘土のような質量の沈黙。


 ――爆薬ね。

 私は息を潜めた。

 プラスチック爆弾。それも、建物一つを吹き飛ばせる量だ。

 『蛇』はここを拠点にするだけでなく、いざという時には証拠隠滅のために劇場ごと消し去る準備をしている。


 「……レオに知らせなきゃ」

 私は後ずさりした。

 かかとを返し、階段の方へ戻ろうとする。


 その時、階段の上から誰かが降りてきた。

 レオではない。

 警備員の制服を着た男だ。

 私は咄嗟に、古道具の陰に身を隠した。


 男は私の隠れ場所の横を通り過ぎ、資材置き場の男たちに声をかけた。

 「おい、急げ。もうすぐ休憩時間が終わる」

 「わかってるよ、隊長。……あいつはどうした? 新入りの大道具係」

 「上で働かせている。ただの力自慢だ。気づいてはいない」


 「隊長」と呼ばれた男が、帽子のツバを上げた。

 横顔が見える。

 右頬に、大きな火傷の痕があった。


 その顔を見た瞬間、私の記憶の中にある「声」が再生された。

 以前、レオニスが執務室で部下のリストを見ていた時の、紙の擦れる音と共に。

 

 『ガイル大尉。偵察任務中に消息不明』


 間違いない。

 レオニスの元部下だ。

 死んだと思われていた人間が、こんな場所で『蛇』の手先として動いている。


 私は音を立てないように、這ってその場を離れた。

 心臓の音がうるさい。

 もしレオが彼と鉢合わせしたら、正体がバレる。


 *


 一階の大道具倉庫に戻ると、レオは修理したバトンを床に置き、汗を拭っていた。

 周囲には誰もいない。

 私は駆け寄り、彼の作業着の裾を引いた。


 「……ボス、まずいことになったわ」

 「何を見た」

 レオは私の顔色を見て、即座に声を低くした。


 「地下に爆薬がある。それと、警備員の制服を着た男」

 私は早口で告げた。

 「右頬に火傷の痕がある男よ。あんたの元部下じゃない?」


 レオの動きが止まった。

 彼の瞳孔が収縮する。

 「……ガイルか」

 「知ってるの?」

 「ああ。俺が育てた斥候せっこうだ。半年前の作戦で行方不明になっていた」


 レオは舌打ちをし、倉庫の出口を見た。

 「生きていたか。それも、敵側に寝返って」

 「逃げましょう。顔を見られたら終わりよ」


 遅かった。

 廊下の向こうから、軍靴の足音が近づいてくる。

 規則正しい、特徴的なリズム。

 ガイルだ。地下から戻ってきたのだ。


 「……逃げ道はない」

 レオは周囲を見回した。

 倉庫の出口は一つ。窓はあるが高い位置にあり、よじ登れば目立つ。

 ガイルは数秒後にここを通る。


 「隠れる?」

 「奴は鼻が利く。隠れても見つかる」

 レオは倉庫の中央に積まれた、巨大な書き割りのセットに目を留めた。

 高さ三メートルのベニヤ板。

 裏側には支え棒がついているが、固定はされていない。


 「……演技は得意か?」

 レオが私に聞いた。

 「道化師の助手くらいならね」


 レオは書き割りの裏に回り込んだ。

 私はモップを持ち、何食わぬ顔で床を磨き始める。


 足音が入り口に達した。

 ガイルが入ってくる。

 彼は鋭い視線で倉庫内を巡回し、私を一瞥したが、すぐに興味を失って奥へ進もうとした。

 その進行方向に、レオが隠れている書き割りがある。


 ガイルが書き割りの横を通り過ぎようとした、その瞬間。


 「うわっと!」

 書き割りの裏から、わざとらしい悲鳴が聞こえた。

 レオの声だ。だが、いつもの低音ではなく、少し上擦った、ドジな新人を装った声。


 直後、巨大な書き割りが大きく傾いた。

 支えを失い、ガイルの方へ倒れ込んでいく。


 「なっ……!」

 ガイルが反応する。

 だが、回避するには距離が近すぎた。

 

 バシャーン!


 ベニヤ板と木枠が、盛大な音を立ててガイルの上に覆い被さった。

 埃が舞い上がる。

 積まれていたペンキ缶も巻き込まれ、床に原色の液体をぶちまけた。


 「いたたた……す、すいません!」

 レオが書き割りの下から這い出してきた。

 顔も服も埃まみれで、誰だかわからない状態になっている。

 彼は倒れた書き割りの下で呻いているガイルに、慌てて駆け寄るフリをした。


 「大丈夫ですか! 足が滑って……!」

 「ど、どけ! この馬鹿力が!」

 ガイルが書き割りを押しのけ、咳き込みながら起き上がった。

 彼の制服もペンキと埃で滅茶苦茶だ。

 顔中が粉まみれで、目を開けることすらできていない。


 「目が……クソッ、何なんだお前は!」

 ガイルが目をこすりながら怒鳴る。


 「すいません、すぐに人を呼んで……!」

 レオはペコペコと頭を下げ、そのまま後ずさりした。

 そして、私に目配せをする。

 『今だ』。


 私はモップを放り出し、レオの後を追って倉庫を飛び出した。

 「監督を呼んできます!」

 捨て台詞を残して。


 *


 劇場の屋上は、冷たい風が吹き抜けていた。

 私たちは非常階段を駆け上がり、そこでようやく息をついた。

 眼下には王都の街並みが広がっている。


 レオは手すりに寄りかかり、埃だらけの顔を袖で拭った。

 「……危なかったな」

 「とんだ大根役者ね」

 私は笑った。

 「『うわっと!』なんて、棒読みもいいところよ」


 「声色を変える必要があった。奴は俺の地声を知っている」

 レオは真顔で答えた。

 「だが、これで奴もしばらくは身動きが取れんだろう。制服の汚れを落とすのに時間がかかる」


 「ペンキまみれにしてやったものね」

 私はポケットから、北の街で貰った干し肉の切れ端を取り出した。

 半分に千切り、片方をレオに渡す。

 「はい、ギャラよ」


 レオは干し肉を受け取り、口に放り込んだ。

 塩辛い味が、緊張で渇いた喉に染みる。


 「……ガイルがここにいるということは」

 レオが噛み締めながら言った。

 「『蛇』は本気だ。この劇場を中継地点にして、王宮の中枢に入り込もうとしている」


 「爆薬もあったわ」

 「ああ。いざとなれば証拠ごと吹き飛ばすつもりだろう」


 レオは王宮の方角――劇場の隣にそびえ立つ尖塔を見上げた。

 「潜入は成功したが、状況は最悪だ。奴らの計画を止めるには、もっと深く潜る必要がある」


 「潜るって、どこへ?」

 「楽屋だ」

 レオは私を見た。

 「女優が言っていた『幽霊』の正体。それを暴けば、奴らの通信網を握れるかもしれない」


 「わかったわ。掃除婦マリア、次は楽屋のゴミ箱を漁ってくる」

 私は立ち上がり、コートの埃を払った。

 「でもその前に、顔を洗ってきなさいよ。その顔じゃ、幽霊の方が逃げ出すわ」


 レオは自分の顔を触り、苦笑した。

 私たちは屋上の風に吹かれながら、次の幕が開くのを待った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ