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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第76話 大道具の重量

 ミレイ商会の裏口は、表通りの華やかさとは無縁の、段ボールと梱包材の山に埋もれていた。

 私は荷物の隙間を縫って進み、勝手口のドアをノックした。

 リズムは三回、二回、一回。

 かつて北の街で決めた、私たちだけの合図だ。


 数秒の沈黙の後、鍵が開く音がした。

 ドアが細く開く。

 隙間から、ミレイの緑色の瞳がこちらを覗いていた。彼女は私たちを確認すると、無言でドアを大きく開け、手招きをした。


 中に入ると、焙煎したばかりのコーヒーの香りが漂ってきた。

 ここは倉庫兼、事務室だ。

 ミレイは私たちを部屋の奥、商品棚で隠された死角にあるソファに座らせた。


 「……生きてたのね」

 彼女はコーヒーサーバーからカップに黒い液体を注ぎながら言った。

 「北の山で野垂れ死んだか、あるいは国境を越えて南のビーチで寝そべっているかと思っていたわ」


 「ビーチには興味がない」

 レオは出されたコーヒーを一口啜った。

 「それに、あそこは日差しが強すぎる。肌が焼ける」

 「あら、今のその薄汚れた格好なら、日焼けも似合うんじゃない?」


 ミレイは自分のデスクに戻り、足を組んだ。

 彼女はシルクのブラウスを着ていたが、袖口にはペンの染みがついている。相変わらず、自分の手で帳簿をつける主義らしい。


 「で、用件は? ただの里帰りじゃないでしょう」

 「金だ」

 レオはカップを置いた。

 「活動資金が底をついた。それと、住む場所も必要だ。今はネズミの巣みたいな屋根裏に転がり込んでいる」


 「でしょうね。私の口座にも、あなたたちへの送金履歴はないもの」

 ミレイは呆れたように肩をすくめた。

 「いいわ。貸してあげる。ただし、担保が必要よ」


 「体ならあるわよ」

 私はポケットから、最後の飴の欠片を取り出して口に入れた。

 「掃除、洗濯、荷物持ち。何でもやるわ」


 「ちょうどよかった」

 ミレイはデスクの上の書類を一枚、私たちの前に滑らせた。

 「人手が足りなくて困っていたの。特に、腕っぷしの強い男と、耳のいい掃除婦がね」


 私は書類を手に取った。

 『王立歌劇場・臨時職員募集』。

 職種は舞台設営と、清掃係。


 「歌劇場?」

 「ええ。私が最近、出資者の一人になったの」

 ミレイはこめかみを押さえた。

 「でも、業績が悪いのよ。客足が遠のいている。原因は『幽霊』よ」


 「幽霊?」

 私が身を乗り出すと、ミレイは声を潜めた。

 「夜な夜な、舞台裏から奇妙な声が聞こえるんですって。誰もいないはずの楽屋で話し声がしたり、閉鎖された地下通路から風が吹いてきたり。おかげでスタッフが怖がって辞めていくの」


 「……怪談話の調査か」

 レオがつまらなそうに言った。

 「俺はエクソシストではない」


 「ただの怪談なら神父を呼ぶわ」

 ミレイの目が鋭く光った。

 「でもね、その幽霊騒ぎが始まってから、劇場の裏口に変な荷物が運び込まれるようになったの。楽器ケースにしては重すぎる箱や、衣装にしては嵩張る包み」


 私の耳がピクリと反応した。

 重すぎる荷物。

 北の運河で見た、あの密輸の光景が重なる。


 「……『蛇』ね」

 私が呟くと、ミレイは頷いた。

 「確証はないわ。でも、あの劇場は王宮に隣接している。地下には古い水路があって、城の地下牢や厨房に繋がっているという噂もある」


 「なるほど」

 レオが立ち上がった。

 「奴らは劇場を隠れ蓑にして、王宮への侵入ルートを構築している可能性があるわけか」


 「調べてちょうだい。私の劇場を犯罪の拠点にされるのは我慢ならないわ」

 ミレイは引き出しから、二枚の身分証を取り出した。

 偽造されたものだ。名前は適当だが、写真は本人に似ている。

 「今日からあなたたちは劇場のスタッフよ。給料は正規の額に上乗せして払うわ」


 私は身分証を受け取った。

 『清掃員:マリア』。

 ありふれた名前だ。


 「了解。幽霊の正体を暴いて、ついでに劇場の床もピカピカにしてあげる」


 *


 王立歌劇場は、昼間見ても威圧感のある建物だった。

 巨大な石造りの柱が正面玄関を支え、屋根には黄金の女神像が空を見上げている。

 だが、私たちが向かったのはその煌びやかな正面ではない。

 建物の裏手、ゴミ箱と搬入用トラックが並ぶ通用口だ。


 「遅いぞ! 新入り!」

 通用口を入るなり、怒号が飛んできた。

 作業着を着た禿頭の男――舞台監督だ。彼は手に持った台本を丸めて、レオの胸板を叩いた。

 「大道具係は力仕事だ。突っ立ってる暇があったら、あの書き割りを運べ!」


 彼が指差したのは、高さ五メートルはある巨大な木の書き割りだった。

 森の背景が描かれている。

 通常なら二人掛かりで運ぶサイズだ。


 「……承知しました」

 レオは表情を変えず、作業用の手袋をはめた。

 彼は書き割りの枠を片手で掴み、もう片方の手でバランスを取りながら、軽々と持ち上げた。

 

 「お、おい……」

 監督が目を丸くする。

 レオは平然と書き割りを担ぎ、通路の奥へと歩き出した。

 「置き場所は舞台袖ですね」


 「あ、ああ……そうだ」

 監督は開いた口が塞がらない様子だったが、すぐに私に矛先を向けた。

 「そっちのチビ! お前は掃除だ! 楽屋の廊下を舐めるように磨け!」


 「はいはい、ボス」

 私はモップとバケツを受け取った。

 「ピカピカにするわよ。幽霊が滑って転ぶくらいにね」


 *


 劇場の内部は、迷宮のようだった。

 表の客席側は真紅のベルベットと金箔で飾られているが、一歩裏に入れば、剥き出しのコンクリートとベニヤ板の世界だ。

 埃っぽい空気。

 ペンキとにかわの匂い。

 そして、衣装の防虫剤の臭いが鼻をつく。


 私はモップをかけながら、廊下を進んだ。

 すれ違う役者たちは、煌びやかな衣装を着ていても、その顔には疲労が滲んでいる。

 

 耳を澄ます。

 壁の向こう、床の下。

 建物の「音」を聞く。


 ――出番だ。

 ――衣装がきつい。

 ――あの子、また台詞を間違えた。


 役者たちの日常的な思考ノイズ。

 これらは無視する。

 私が探しているのは、もっと異質で、場違いな音だ。


 廊下の突き当たり、大道具倉庫の前で、レオが巨大な柱のセットを降ろしていた。

 ドスン、という重い音が響く。

 周囲のスタッフが、彼の怪力に引き気味で遠巻きにしている。


 「……どう?」

 私はモップを洗うふりをして近づいた。

 「怪しい場所はあった?」


 「地下だ」

 レオは額の汗を拭いながら、小声で答えた。

 「奈落(舞台下の空間)のさらに下。古いマンホールがある。今は資材で埋もれているが、そこから風が来ている」


 「風?」

 「湿った風だ。下水道か、あるいは地下水路か」


 私は床に耳を近づけた。

 厚い板張りの床。

 その下から、微かだが、確かに音がする。


 ゴォォォ……。


 風の音ではない。

 もっと規則的な、人工的な呼吸音。

 換気扇だ。

 誰もいないはずの地下深くで、誰かが換気システムを動かしている。


 「……いるわね」

 私は立ち上がり、モップを絞った。

 「幽霊じゃなくて、もっとタチの悪いネズミたちが」


 その時、舞台の方から悲鳴が上がった。

 「キャァァァッ!」

 女性の声だ。演技ではない、本気の恐怖を含んだ声。


 レオが即座に反応し、舞台袖へと走った。

 私もモップを放り出して続く。


 舞台の上では、主演女優らしき女性が座り込み、天井を指差して震えていた。

 彼女の視線の先。

 照明用のバトンが一本、片側のワイヤーが切れて宙ぶらりんになり、振り子のように揺れていた。

 もし彼女がそこに立っていたら、頭蓋骨が砕けていただろう。


 「幽霊よ! また幽霊が出たわ!」

 女優が叫ぶ。

 スタッフたちが騒然となる。


 私は揺れるバトンを見上げた。

 切れたワイヤーの断面。

 そこから、金属の悲鳴が聞こえる。


 ――切られた。

 ――刃物だ。

 ――警告だ。


 自然に切れたのではない。

 誰かが、意図的に切断したのだ。


 レオが私の横に来た。

 「……事故に見せかけた脅迫だな」

 「ええ。女優を狙ったわけじゃない。外したのよ、わざと」


 私は舞台袖の暗がりを見た。

 誰かが、そこからこの騒ぎを冷ややかに観察している気配がした。

 この劇場には、確かに「幽霊」がいる。

 ただし、足があって、刃物を持った幽霊が。

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