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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第75話 屋根裏の埃

 王都の空気は、北の澄んだそれとは決定的に成分が異なっていた。

 石炭の煤煙、路地裏の汚水、そして過密な人間が発する熱気と欲望。それらが低い雲の下で煮込まれ、粘り気のあるスープとなって肺に侵入してくる。

 私は咳き込みそうになるのを堪え、フードを目深に被り直した。


 「……懐かしい臭いね」

 私は隣を歩く男の影に隠れるようにして囁いた。

 「カビと小銭の臭い。帰ってきたって感じがするわ」


 レオ――かつてのレオニス将軍は、無言で襟を立てた。

 彼は今、労働者風のジャケットと、泥で汚れたブーツを履いている。髪は無造作に下ろされ、顔には数日分の無精髭があった。

 だが、その歩き方だけは矯正できていない。雑踏を縫う足取りに無駄がなく、背後の気配を探る視線が鋭すぎる。


 「目立つわよ」

 私は彼の袖を引いた。

 「もっと猫背にして。今のあんたは英雄じゃなくて、ただの出稼ぎ労働者なんだから」

 「骨格の問題だ。背骨を抜かない限り無理だな」


 私たちは大通りを避け、裏路地を選んで進んだ。

 壁には指名手配のポスターが貼られているが、雨風に晒されて剥がれかけている。

 私の似顔絵は泥で汚れ、レオニスの顔は誰かが落書きをして原型を留めていなかった。

 恩赦の嘆願書が効いているのか、あるいは単に人々が飽きたのか。殺気立った追手の気配はない。


 目指す宿は、下町の中でも特に治安の悪い区画にあった。

 『酔いどれの蜜蜂亭』。

 看板の塗装は剥げ、一階の酒場からは昼間だというのに安酒の臭気と怒号が漏れ出している。


 レオが重い木の扉を押し開けた。

 蝶番が錆びた音を立てる。

 カウンターには、樽のような体格の女将が座り、濡れた布巾でグラスを磨いていた。


 「部屋は空いているか」

 レオが低い声で尋ねる。

 女将はグラスから目を離さず、顎で天井をしゃくった。

 「屋根裏ならね。他は満室だよ」

 「風呂は」

 「雨が降ればタダで浴びれるよ。お湯が欲しいなら、バケツ一杯につき銅貨二枚だ」


 レオは懐から硬貨を取り出し、カウンターに置いた。

 北の街で稼いだ虎の子の活動資金だ。

 「一週間分だ。干渉はするな」


 女将は硬貨を素早く掌に収め、鍵をカウンターに滑らせた。

 「うちは詮索しないのが売りでね。殺し合いをするなら外でやっておくれ。掃除が面倒だから」


 *


 階段は踏むたびに悲鳴を上げ、手すりは脂でベタついていた。

 最上階の屋根裏部屋。

 鍵を開けると、熱気がこもった空気が顔を打った。

 

 部屋は狭かった。

 傾斜した天井が圧迫感を与え、中央には古びたベッドが一つ。あとは傾いたテーブルと、足の長さが違う椅子が一脚あるだけだ。

 床には埃が積もり、小さな窓ガラスは煤で黒ずんで外の景色を遮断している。


 「……王宮の執務室とは大違いね」

 私は荷物を床に下ろし、ベッドのマットを指先で押した。

 スプリングが死んでいる。硬い藁の感触しかしなかった。

 「ここが新しい司令部?」


 レオは部屋の中央に立ち、ハンカチを取り出して椅子を拭いた。

 「雨風は凌げる。立地も悪くない。ここなら憲兵も見回りに来ないだろう」

 彼は拭いた椅子には座らず、窓際に立って外の様子を窺った。

 「それに、情報収集にはうってつけだ。一階の酒場には、街中の噂が集まる」


 「そうね。ゴキブリとネズミの情報網も使えそう」

 私は部屋の隅に、小さな穴を見つけていた。

 そこから、何かの視線を感じる。

 

 耳を澄ます。

 下の階の客たちの声。壁の中を走る配管の水音。

 そして、この部屋に染み付いた、かつての住人たちの溜息。


 ――金がない。

 ――明日が見えない。

 ――誰か助けて。


 絶望の残響だ。

 だが、戦場のような「死」の音ではない。生きていくことの「疲れ」の音。


 「……荷解きは後よ」

 私はコートのポケットから、北の街で貰った干しアンズを取り出し、一つ口に含んだ。

 甘酸っぱい味が、部屋の埃っぽさを少しだけ和らげる。

 「まずは挨拶回りに行きましょう。私たちの主治医が、まだ店を開いているか確認しないと」


 *


 リサの診療所がある路地は、以前よりも暗く感じられた。

 街灯のガラスが割れたまま放置されている。

 看板の文字も薄れていたが、『診療中』の札だけは新しく掛け替えられていた。


 レオがドアノブを回す。

 カウベルが鳴る。

 待合室には誰もいなかった。

 ただ、奥の診察室から、紫煙が漂ってくる。


 「今日は休診だよ。薬が切れた」

 気だるげな声がした。

 リサだ。


 私たちは無言で診察室に入った。

 リサは机に足を乗せ、天井を仰いでいた。白衣は薄汚れ、灰皿には吸い殻が山になっている。

 彼女は私たちが近づいても、顔を動かさなかった。


 「聞こえなかったのかい? 痛み止めも、抗生物質もない。あるのは私の愚痴だけだ」

 「ビタミン剤はあるかしら」

 私が声をかけると、リサの足が止まった。


 彼女はゆっくりと首を回し、入り口に立つ私たちを見た。

 その目が大きく見開かれる。

 咥えていたシガレットが、ポロリと口から落ちて床に転がった。


 「……亡霊かい?」

 彼女は呟いた。

 「それとも、過労が見せる幻覚か」


 「生きてるわよ。幻覚なら、もっとマシな服を着て出てくるわ」

 私は床に落ちたシガレットを拾い上げ、灰皿に戻した。

 「ただいま、先生。お土産はないけど、新しい患者なら連れてきたわ」


 リサは立ち上がり、私の顔を両手で挟んだ。

 冷たい手だ。

 彼女は私の頬を強くつねった。

 「痛っ」

 「……本物だね」


 彼女は力が抜けたように椅子に座り込んだ。

 「馬鹿な奴らだ。せっかく逃げたのに、なんでまた、こんな掃き溜めに戻ってきたんだ」

 口調は呆れていたが、その目尻には微かに安堵の色が滲んでいた。


 レオがドアの鍵を閉め、カーテンを下ろした。

 「忘れ物をしにな」

 彼は短く答えた。

 「状況はどうだ」


 リサは新しいシガレットに火をつけ、深く吸い込んだ。

 「最悪だよ。あんたが失脚してから、管理局は腐りきった。予算局長が幅を利かせ、医療予算は削られ、まともな薬が入ってこない」

 彼女は煙を吐いた。

 「街には『蛇』の毒が回っている。文字通りの毒も、比喩的な毒もね」


 「比喩的な毒?」

 「行方不明者が増えているんだ。特に、身寄りのない子供や、貧民街の住人がね。警察は動かない。動けないのかもしれない」


 私はレオと顔を見合わせた。

 北の工場で見た光景が脳裏をよぎる。

 やつらはまだ、実験を続けているのだ。場所を変え、規模を拡大して。


 「……仕事が山積みのようだな」

 レオが腕を組んだ。

 「掃除道具が必要だ」


 「あいにく、掃除機は置いてないよ」

 リサは引き出しを開け、包帯と消毒液の瓶を取り出した。

 「だが、傷の手当てくらいならしてやる。ツケにしておくよ。出世払いでね」


 「期待してて」

 私はリサの机にあった飴玉を一つ拝借した。

 「今度はもっと大きな山を動かして、治療費ごと払ってあげるから」


 リサは苦笑し、煙の向こうで目を細めた。

 外からサイレンの音が聞こえる。

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