第74話 始発列車
部屋の鍵を回すと、カチャリという乾いた音が廊下に響いた。
ドアノブから手を離す。
もう、このドアを開けることはない。
中には空っぽの暖炉と、私たちが修繕した屋根、そして磨き上げた床板だけが残されている。あの老婆の幽霊も、昨日あたりから姿を消していた。きっと新しい住人を待つために、どこかで眠っているのだろう。
「……忘れ物はないな」
レオが足元の鞄を持ち上げた。
ボロボロの革鞄だ。中身は着替えと、使い古した毛布、それに手入れ道具だけ。
私たちがこの街に来た時と、荷物の量はほとんど変わっていない。
「あるとすれば、静かな睡眠時間くらいね」
私はコートのポケットに手を突っ込んだ。
飴の缶と、軟膏の瓶。
それらがぶつかる音が、私の全財産の音だ。
私たちは階段を降りた。
管理人の部屋のポストに鍵を落とす。
コトン、という音が、この生活の終了合図だった。
外はまだ薄暗い。
夜明け前の霧が、通りを白く塗りつぶしている。
市場の準備をする物音もまだ聞こえない。
私たちは泥のついたブーツで雪解け道を踏みしめ、駅へと向かった。
*
駅のホームには、石炭の燃える匂いと、蒸気の湿った臭いが充満していた。
始発の旅客列車が、黒い巨体を横たえている。
貨物列車に飛び乗って来た時とは大違いだ。今回は正規の切符がある。
「……誰もいないな」
レオがホームを見渡した。
「好都合だ。騒がしい別れは好かん」
彼は帽子のツバを下げ、客車の方へ歩き出そうとした。
その時、改札口の方からドタドタという足音が近づいてきた。
一人や二人ではない。
集団の足音だ。
「おい! 待て待て!」
野太い声が霧を切り裂く。
現れたのは、ダリオだった。
後ろにはボリス、そして市場の顔馴染みたちが続いている。
彼らは手に手に風呂敷包みや、麻袋を抱えていた。
「……見つかったか」
レオが足を止める。
「隠密行動のスキルが鈍ったらしい」
「水臭いぜ、旦那」
ダリオが息を切らせて駆け寄ってきた。
「黙って行こうなんてよ。俺たちの情報網を舐めてもらっちゃ困る」
「切符を買った時点でバレてたわよ」
ボリスがニカッと笑い、抱えていた麻袋をレオの胸に押し付けた。
「ぐっ……」
レオがよろめくほどの重さだ。
「なんだこれは」
「携帯食だ。燻製肉に、チーズ、硬焼きパン。それから乾燥野菜」
ボリスはパイプを吹かした。
「王都までの道のりは長い。腹が減っちゃ戦はできねえだろ」
「酒もあるぞ!」
ダリオがガラス瓶を差し出した。
「ルル……いや、従姉妹の実家で作った蒸留酒だ。消毒にも燃料にもなる」
次々と差し出される荷物。
リンゴの入った籠、毛糸の手袋、護身用のナイフ。
あっという間に、私たちの足元は物資の山になった。
「……多すぎる」
レオが困惑した顔をする。
「これでは重量オーバーだ。全部は持っていけん」
「持ってけよ。俺たちの気持ちだ」
乾物屋の老人が、私のポケットに何かをねじ込んだ。
干しアンズだ。
「嬢ちゃん。向こうに行っても、ちゃんと食うんだぞ。痩せっぽちは風邪を引くからな」
私はポケットの上から、そのゴツゴツした感触を確かめた。
喉の奥が熱くなる。
風邪ではない。
ただ、言葉が出てこない。
汽笛が鳴った。
発車の合図だ。白い蒸気がホームを覆う。
「時間だ」
レオが荷物を抱え上げた。
彼はダリオとボリスに向き直り、片手を差し出した。
「世話になった。この街のことは忘れない」
「おう。また来な。次はもっとマシな仕事を用意しとく」
ボリスがレオの手を握り返す。
「達者でな、レオ。レティ」
私たちは客車に乗り込んだ。
ドアが閉まる。
デッキに立ち、窓ガラスを下ろす。
列車がガタンと動き出した。
車輪が軋み、ゆっくりと加速する。
ホームに残された男たちが、手を振っている。
ゴロツキも、商人も、一緒くたになって。
私は窓枠を掴み、身を乗り出した。
冷たい風が顔を打つ。
言わなきゃ。
今言わないと、一生言えない。
「ありがとう!」
私は叫んだ。
喉が張り裂けるほどの大声で。
「ありがとう! スープ、美味しかったわよ!」
ボリスが何かを叫び返したが、風の音にかき消されて聞こえなかった。
ただ、彼らが笑顔で見送ってくれていることだけは、涙で滲んだ視界でもわかった。
*
列車は速度を上げ、街を後にした。
窓の外を流れる景色。
雪解けの進んだ平原。遠くに見える廃鉱山の山。
私たちが戦い、暮らし、そして守った場所が、後方へと飛び去っていく。
私は席に座り、鼻を啜った。
「……目にゴミが入っただけよ」
「そうか。換気が悪い車両だ」
レオは何も聞かず、ボリスから貰った麻袋を開けた。
中から燻製肉を取り出し、ナイフで切り分ける。
「食うか」
「……食べる」
差し出された肉を受け取る。
噛みしめると、煙の香りと塩気が口いっぱいに広がった。
泥臭くて、力強い、あの街の味だ。
レオは懐から、買い戻したばかりの懐中時計を取り出した。
蓋を開ける。
チクタクと動く針を見つめ、彼は静かに言った。
「行くぞ、レティ。ここからは南だ」
「ええ」
私は肉を飲み込み、窓の外を見た。
南の空は曇っている。
あそこには、煌びやかな舞踏会と、ドブ川のような陰謀が待っている。
「次は王都よ。また忙しくなるわね」
「残業代は請求するんだろう?」
「もちろん。深夜手当もたっぷりつけてね」
私はポケットから飴の缶を取り出した。
中身は空っぽだ。
でも、不思議と不安はなかった。
この空き缶には、これから始まる新しい冒険の報酬を詰め込むためのスペースが、十分に空いているのだから。
列車は長い汽笛を鳴らし、雪山を越えて南へと走り続けた。




