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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第73話 質屋の時計

 古びた真鍮しんちゅうのベルが、カランと乾いた音を立てた。

 店の奥から、防虫剤と古紙の混ざった匂いが漂ってくる。

 カウンターの向こうには、瓶底眼鏡をかけた店主が座っていた。彼は手元の新聞から目を離さず、入ってきた私たちを眼鏡の縁越しに一瞥しただけだった。


 「買い取りか、質入れか」

 「売りたい」

 レオは懐から銀色の鎖を引き出した。

 その先には、重厚な装飾が施された懐中時計が繋がれている。

 軍の支給品ではない。彼が実家から持ち出した数少ない私物であり、正確に時を刻み続けてきた相棒だ。


 店主が新聞を置き、ルーペを目に当てた。

 時計を受け取る。

 裏蓋を開け、刻印を確認し、歯車の動きを光に透かす。

 

 「……銀無垢か。悪くない仕事だ。だが、文字盤に傷がある」

 店主は時計を天秤に乗せた。

 「最近はゼンマイ式よりも、もっと軽くて安い時計が流行りだ。骨董品としての価値しかないな」


 「いくらだ」

 レオの声は平坦だった。

 店主は指を三本立てた。

 「金貨三枚。これ以上は出せん」


 私は後ろで聞き耳を立てていた。

 金貨三枚。

 王都までの列車賃、二人分。そして数日分の食費。

 計算は合う。だが、あの時計の価値はその十倍はくだらないはずだ。


 「……レオ」

 私が袖を引こうとすると、彼は私の手を制して頷いた。

 「成立だ。現金をくれ」


 店主が金庫を開ける。

 チャリ、という音がして、硬貨がカウンターに置かれた。

 レオはそれを鷲掴みにし、ポケットにねじ込んだ。

 時計は店主の手によって、ガラスケースの中――「売り物」の棚へと移動される。


 「行くぞ」

 レオは振り返りもせずに店を出た。

 私はガラスケースの中の時計を一度だけ見た。

 秒針が、チチチチと規則正しく動いている。

 まるで「置いていくのか」と訴えているようだった。


 *


 外に出ると、夕暮れの街は茜色に染まっていた。

 雪解け水でぬかるんだ道を、私たちは無言で歩いた。

 目指すのは酒場だ。

 この街での最後の食事。ささやかな送別会を、二人だけでやるつもりだった。


 酒場の扉を開けると、熱気と喧騒が押し寄せてきた。

 私たちはいつもの隅の席に座り、シチューと黒パン、それにエールを二つ注文した。


 「……本当によかったの?」

 私はパンを千切りながら聞いた。

 「あの時計、大事にしてたじゃない。毎晩磨いてたし」

 「時間は太陽を見ればわかる。腹の虫も教えてくれる」

 レオはエールのジョッキを煽った。

 「王都へ戻るための切符代だ。安いものだ」


 嘘だ。

 彼の指が、無意識にベストのポケット――時計が入っていた場所――を探っている。

 喪失感は、物理的な重さとなって残っているのだ。


 私はテーブルの下で、コートのポケットにある飴の缶を握りしめた。

 中には飴ではなく、小銭が入っている。

 市場での手伝いや、探し物屋の報酬でコツコツ貯めた「へそくり」だ。

 

 缶を振る。

 ジャラジャラと軽い音がする。

 銅貨と、数枚の銀貨。

 足りない。

 あの強欲な質屋から時計を買い戻すには、全然足りない。


 「……ごめんね」

 私は小声で呟いた。

 「私がもっと稼いでれば、あんたの宝物を売らずに済んだのに」

 「気にするな。ただの道具だ」


 シチューが運ばれてきた。

 湯気が立つ皿を見つめながら、私は自分の無力さを噛み締めた。

 耳が良くても、金は作れない。


 その時、ドスンという重い音がして、テーブルが揺れた。

 誰かが乱暴に椅子を引いたのだ。

 顔を上げると、毛皮のコートを着た大男――ボリスが、私たちの席に割り込んで座っていた。


 「よお。湿気た顔して食事か?」

 ボリスはニヤリと笑い、勝手に私のパンを一切れ取って食べた。

 「明日発つんだってな。水臭いじゃねえか」


 「……挨拶回りは済ませたつもりだが」

 レオがスプーンを置いた。

 「それに、お前には貸しはないはずだ」


 「貸しならあるさ」

 ボリスは懐から、小さな包みを取り出した。

 布で雑にくるまれている。

 彼はそれをテーブルの上に放り投げた。

 ゴトッ、と金属的な音がする。


 「質屋の親父がな、これを自慢げに見せびらかしてやがったんだ。『元将軍の時計だ』ってな」

 ボリスはパイプを吹かした。

 「俺は骨董品の趣味はねえが、その店主のニヤけ面が気に食わなくてな。買い取ってやった」


 レオが包みを開く。

 銀色の懐中時計。

 数時間前、手放したばかりの相棒だ。


 「……いくらだ」

 レオがボリスを睨んだ。

 「金貨五枚か? 十枚か?」

 「金はいらねえよ」

 ボリスは手を振った。

 「餞別せんべつだ。この街を守ってくれた礼と思え。それに、時計がないと列車の時間に遅れるぞ」


 「受け取れん」

 レオは時計を押し返そうとした。

 「俺は施しを受ける趣味はない」


 「施しじゃねえ。投資だ」

 ボリスは強い力でレオの手を押し留めた。

 「あんたは王都へ戻るんだろ? そして、もっとデカイ山を動かす。成功したら、この街への流通ルートを優遇してくれ。それでチャラだ」


 レオはしばらく時計を見つめ、それから私を見た。

 私はテーブルの下で、飴の缶を握ったまま小さく頷いた。

 受け取って。

 これは、この街の人たちが私たちにくれた「居場所」の証なのだから。


 「……わかった」

 レオは時計を手に取り、ベストのポケットに収めた。

 鎖をボタンホールに通す。

 その動作は、以前よりもずっと慎重で、愛着がこもっていた。


 「必ず返す。倍にしてな」

 「期待してるぜ、将軍」


 ボリスは立ち上がり、私の頭を乱暴に撫でた。

 「嬢ちゃんも、元気でな。飴が食いたくなったら、いつでも戻ってこい」

 「……ありがと。おじさんのパイプの臭い、嫌いじゃなかったわよ」


 ボリスは笑い声を上げて去っていった。

 残されたテーブルには、温かいシチューと、戻ってきた時計の刻む音が響いていた。

 チク、タク、チク、タク。

 それは、出発までの時間をカウントダウンする音でもあった。


 私は自分の「へそくり」の缶をポケットの奥へ押し込んだ。

 これは使わずに取っておこう。

 いつか、王都でレオに最高級の珈琲を奢るために。

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