第72話 埋もれた赤い石と空っぽの財布
銃声が止んだのと、床が揺れ始めたのは同時だった。
入口の方角から、腹の底に響く重低音が近づいてくる。
発砲音ではない。爆発音だ。それも、一度や二度ではない。連続して、坑道の支柱を意図的にへし折っていく破壊の連鎖音。
「……やる気だな」
レオニスが舌打ちをした。
彼は即座に近くの実験台を蹴り倒し、バリケードを作った。
「『蛇』は強盗をやめたらしい。埋葬屋にジョブチェンジだ」
「生き埋めにする気?」
私はレオニスの背中に隠れ、耳を澄ませた。
岩盤が悲鳴を上げている。
天井のコンクリートに亀裂が走り、パラパラと白い粉が降り注いでくる。
――崩れる。
――支えきれない。
――落ちる。
壁の中の亡霊たちも、今度ばかりはパニックに陥っていた。
数十年前の崩落の記憶と、現在の崩壊が重なり、不協和音となって脳を揺さぶる。
「逃げるぞ」
グレイが叫んだ。
彼は懐から、先ほど手に入れた赤い石――思考干渉装置のコア――を取り出し、確認するように握りしめた。
「ここが潰れれば、姫様の遺産も瓦礫の下だ。急がねばならん」
「その石を捨てろ」
レオニスがグレイの襟首を掴んだ。
「持って走れる状況じゃない。重りが一つ増えれば、全員死ぬぞ」
「断る。これは……」
言い争う暇はなかった。
入り口の扉の向こうで、大規模な爆発が起きた。
爆風が鉄の扉を吹き飛ばし、熱波と共に土砂が雪崩れ込んでくる。
視界が土煙で茶色く塗りつぶされた。
「走れ!」
私は二人の男の背中を叩いた。
「喧嘩は後! 天井が落ちてくるわよ!」
私たちは走り出した。
来た道は塞がれている。
だが、この実験室の奥には、搬出用のエレベーターシャフトがあるはずだ。
壁の向こうから、風が吸い込まれる音が聞こえる。
「奥だ! 非常口がある!」
私が指差すと、レオニスが先頭を切って駆け出した。
足元にはガラス片や書類が散乱し、走るたびにバリバリと音を立てる。
グレイが遅れた。
年老いた足のせいではない。
彼が胸に抱えた赤い石が、まるで抵抗するかのように重力を増しているように見えたからだ。
石が唸っている。
――行くな。
――ここにいろ。
――我を使え。
「……厄介な石だ」
グレイが呻き、足をもたつかせた。
その頭上、天井の照明器具が支えを失い、落下した。
ガシャン!
巨大な鉄の塊が、グレイの目の前に落ちる。
彼は咄嗟にバックステップを踏んだが、その拍子に手が滑った。
赤い石が手から離れ、床を転がる。
コロコロと乾いた音を立てて、床に開いた排水溝のグレーチング――鉄格子の隙間――へと向かっていく。
「あっ!」
グレイが手を伸ばす。
石は止まらなかった。
まるで自ら帰る場所を選んだかのように、鉄格子の隙間へと吸い込まれ、暗い奈落の底へと落ちていった。
カラン、カラン……。
遠ざかる落下音が、やがて聞こえなくなる。
「……しまった」
グレイが排水溝を覗き込む。
その背後で、天井の一部が崩落し、巨大な岩が降り注いだ。
「諦めろ!」
レオニスが戻ってきて、グレイの腕を引いた。
「拾いに行けばお前も落ちる! 行くぞ!」
グレイは一瞬、排水溝の闇を見つめていたが、すぐに表情を切り替えた。
執着を断ち切った顔だ。
「……致し方あるまい」
私たちは再び走り出した。
非常口の扉を蹴破る。
そこには、錆びついた螺旋階段が上へと伸びていた。
光が見える。
地上の光だ。
*
外に飛び出した瞬間、冷たい空気が肺を焼いた。
私たちは雪の上に転がり込み、咳き込んだ。
背後で、山が鳴動する。
ズズズン、という地響きと共に、廃坑の入り口があった場所が陥没し、土煙が噴き上がった。
地下施設は埋まった。
旧王国の悪夢も、赤い石も、そして『蛇』の部隊もろとも。
「……危ないところだったな」
グレイが起き上がり、コートについた泥を払った。
彼は杖をつき、埋まった坑道を見つめた。
「姫様の遺産は、永遠に封印されたわけか」
「それが一番だ」
レオニスが雪で顔を拭いながら言った。
「あんなものが地上に出れば、血が流れる」
「あるいは、新たな秩序が生まれたかもしれんがな」
グレイは肩をすくめた。
「まあいい。姫様には『保存状態が悪く、崩壊して塵になった』とでも報告しておこう」
私は地面に大の字になって、空を見上げていた。
曇り空から、また雪がちらつき始めている。
生きている。
手足は動くし、痛みもある。
「……ねえ、紳士たち」
私は体を起こした。
「私の報酬は? 石はなくなっちゃったけど、契約は有効よね?」
グレイが懐を探った。
取り出したのは、例の恩赦嘆願書だ。
多少皺になっているが、署名は無事だ。
彼はそれを私に放り投げた。
「約束の品だ。これがあれば、貴殿らの指名手配は『保留』扱いになる。王都に戻っても、即座に捕まることはあるまい」
「保留?」
「完全な無罪放免とはいかんよ。だが、首輪は外れた」
「……ケチね」
私は書類を畳んでポケットにねじ込んだ。
「で、活動資金の方は?」
グレイは両手を広げてみせた。
「あいにく、財布を持っていた従者は山の下だ。手持ちはない」
「はぁ? タダ働き?」
「命が助かったのだ。それが最大の報酬だろう」
食えない老人だ。
私は雪を丸めて投げつけようかと思ったが、疲労で腕が上がらなかった。
グレイは帽子を被り直し、私たちに背を向けた。
「さらばだ、レオニス。剣の腕は鈍っていなかったな」
彼は歩き出し、ふと立ち止まって振り返った。
その視線が、私に向けられる。
「レティ。姫様からの伝言を忘れていた」
「何よ」
「『会いに来なさい』とのことだ」
彼は片目を細め、意味深に笑った。
「『私のコートを返してもらうついでに、お茶でもしましょう』とな」
それだけ言い残し、老騎士は雪の中へと去っていった。
迎えの馬車が待っているのだろう。
その足取りは、地下での激闘を感じさせないほど軽やかだった。
残された私たちは、しばらく無言で座り込んでいた。
「……結局、一文無しね」
私はため息をついた。
「明日のパン代も稼げなかったわ」
「経費がかさむ仕事だったな」
レオニスが立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「帰るぞ。店を開けなければならん」
私は彼の手を借りて立ち上がった。
泥だらけのコート。擦りむいた手。そして、空っぽのポケット。
だが、不思議と気分は悪くなかった。
「王都、か」
私は南の空を見た。
「あの生意気な姫様に会いに行くのも、悪くないかもね」
「交通費を貯めてからな」
レオニスが釘を刺す。
私たちは山道を下り始めた。
雪解けの泥道は相変わらず歩きにくい。
だが、その先には私たちの「城」がある。
暖炉と、スープと、そして退屈な日常が待っている場所。
「レオ」
「なんだ」
「帰りに市場に寄って。飴が切れたの」
「金がないと言っただろう」
「ボリスにツケるわよ。今回の騒動の解決料としてね」
レオニスは短く鼻を鳴らした。
それは了承の合図だった。
私たちは肩を並べて歩いた。
春の気配を含んだ風が、二人の背中を押していた。




