第71話 共鳴する石
床に散らばった硝子の破片が、靴底の下でジャリジャリと音を立てた。
広い空間だ。懐中電灯の光が奥まで届かない。
左右に並ぶ円筒形のカプセルは、まるで博物館の展示ケースのように静まり返っている。ただ、中に入っているべき展示物はなく、底に残された革のベルトだけが、ここで何が行われていたかを無言で語っていた。
「……空っぽね」
私はカプセルの一つに近づき、厚いガラスに触れた。
冷たい。
だが、その表面には微かな振動が残っている。
――出せ。
――頭が割れる。
――私の考えを消さないで。
「うっ……」
私は反射的に手を引っ込めた。
今までの「死者の声」とは違う。
もっと直接的で、脳のひだを紙ヤスリで擦られるような不快感。
ここに閉じ込められていた人々は、殺されたのではない。「書き換えられた」のだ。
「どうした」
レオニスが背後で足を止める。
「気分が悪いなら外へ戻れ」
「平気よ。ただ、ここの空気が気に入らないだけ」
私はコートのポケットから飴の缶を取り出し、中身を一つ口に放り込んだ。
レモン味。
酸味が舌を刺激し、少しだけ意識が鮮明になる。
グレイが部屋の中央にある巨大な装置に歩み寄っていた。
金属の骨組みと、無数のケーブルで構成された祭壇のような機械。
その中心に、拳ほどの大きさの石が嵌め込まれている。
赤黒い鉱石だ。
光ってはいないが、見る者の視線を吸い込むような重力を持っている。
「……これか」
グレイが杖で石を指した。
「姫様が探しておられた『遺産』の正体は」
レオニスが装置の横にある操作卓らしきデスクに近づいた。
埃を被った書類の束が置かれている。
彼は手袋をした手で慎重にページをめくった。
紙が劣化してパリパリと音を立てる。
「設計図だな」
レオニスが図面の一枚を光にかざす。
「『広域思考干渉波・発振装置』……。何だこれは」
「ラジオみたいなものよ」
私はデスクの横に立ち、補足した。
「ただし、音楽じゃなくて『命令』を流すラジオ。受信機はいらない。人間の脳が勝手に受信してしまう周波数を出す」
私は鉱石の方を見た。
あの石が、動力源だ。
耳を澄ますと、石自体が低い唸り声を上げているのがわかる。
――同調しろ。
――個を捨てろ。
――王に従え。
「……洗脳装置ね」
私は結論づけた。
「あの教団が使っていた薬や電気ショックなんて、これに比べれば子供の遊びだわ。この石を使えば、街一つ分の人間を丸ごと操り人形にできる」
グレイが感嘆の声を上げた。
「素晴らしい。旧王国の技術者は、そこまでの領域に達していたか」
彼はポケットからハンカチを取り出し、鉱石を掴もうと手を伸ばした。
「触るな」
レオニスの声が、鞭のように空気を叩いた。
「持ち帰る気か」
「当然だ」
グレイは手を止めず、ハンカチで石を包み込み、台座から引き抜こうとした。
「これは姫様の所有物だ。正当な遺産だよ」
「ガラクタだ」
レオニスが銃口を向けたわけではないが、その体勢はいつでも抜ける位置にある。
「そんなものを世に出せば、また戦争の火種になる。『蛇』が欲しがっていた理由がわかった。奴らはこれで国を乗っ取る気だ」
「だからこそ、我々が管理するのだ」
グレイは石を引き抜いた。
ゴリッ、という嫌な音がして、装置のケーブルが揺れる。
彼は赤い石を掲げ、隻眼を細めた。
「力そのものに善悪はない。使う者次第だ。姫様ならば、これを平和のために……」
「平和のために人の心をいじるのか?」
レオニスが一歩踏み出す。
「それは独裁者の論理だ。俺たちは自由のために戦ってきたはずだ」
「自由か」
グレイは鼻で笑った。
「飢える自由、凍える自由か? 北の民を見ろ。彼らに必要なのは秩序だ。強い指導者に導かれる安寧だ」
彼は石を懐にしまった。
そして、杖の柄に手をかける。
カチリ。
仕込み刀のロックが外れる音。
「……レオニス。お前は優秀な弟子だった」
グレイの声から温度が消える。
「だが、青すぎる。きれい事だけで国は守れんよ」
「時代遅れはあんたの方だ、師匠」
レオニスもまた、ホルスターの留め具を外した。
「その石はここで砕く。持ち出させはしない」
張り詰めた空気。
二人の殺気がぶつかり合い、火花が見えそうなほどの緊張感が漂う。
私は二人の間に割って入ることもできず、ただ飴を噛み砕くことしかできなかった。
「……やめなさいよ」
私は声を震わせた。
「ここで喧嘩してる場合じゃないわ」
「下がっていろ、レティ」
レオニスは私を見ない。
「これは大人の清算だ」
「違うわよ!」
私は床を強く踏み鳴らした。
「聞こえないの? もっとヤバイ音がしてるのよ!」
二人が同時に私を見た。
私は天井を指差した。
換気ダクトの奥。
あるいは、私たちが降りてきた縦穴の方角。
「足音」
私は告げた。
「たくさん。ここに向かって降りてきてる。それも、隠そうともしてない」
ザッ、ザッ、ザッ。
私の耳には、統率された軍靴の響きが、洪水のように押し寄せてくるのが聞こえていた。
――見つけた。
――扉が開いている。
――殲滅しろ。目撃者は一人も生かすな。
「『蛇』よ」
私はレオニスの袖を引いた。
「本隊が来たわ。こっそり泥棒するつもりだったけど、正面玄関が開いてたから強盗に切り替えたみたい」
レオニスとグレイが顔を見合わせた。
一瞬のアイコンタクト。
先ほどまでの敵対関係が、共通の敵を前にして棚上げされる。
「……数は」
グレイが杖を構え直す。
「三十以上。重武装よ。爆薬の匂いもする」
「出口は一つだ」
レオニスが銃を抜いた。
「あそこを塞がれたら、俺たちは袋のネズミだ」
「石の所有権争いは後回しだな」
グレイが苦笑し、出口の方へ向き直った。
「まずはここを生きて出なければ、議論もできん」
遠くから、銃声が響いた。
威嚇ではない。
殺意を持った連射音が、坑道の壁に反響して近づいてくる。
私は最後の飴を飲み込み、レオニスの背中に隠れた。
この地下室は、もうすぐ戦場になる。




