第7話 煤けた帳簿と沈黙の法廷
消火活動は、破壊活動よりもずっと地味で時間がかかる。
兵士たちがバケツリレーで水を運び、焼け落ちた管理棟の残骸にかけている。ジューッという音と共に、白い蒸気が立ち上り、周囲の視界を奪っていく。
私はその喧騒から少し離れた場所で、煤だらけになった顔を袖で拭っていた。
「拭いても伸びるだけだ」
横から白いハンカチが差し出された。
レオニスだ。彼はすでに軍服の灰を払い終え、何事もなかったかのように整然と立っている。
「どうも。クリーニング代も請求していい?」
「経費で落とす。それより、これだ」
彼は脇に抱えていた帳簿を叩いた。
表紙は熱で歪み、端が焦げているが、厚みのある本体は無事だ。
「犯人は、証拠が燃えたと思って安心しているはずだ。その油断を突く」
「今から?」
「鉄は熱いうちに打てと言うだろう。それに、この手の小悪党は時間を置くと逃走ルートを確保する」
彼は近くにいた伝令兵を手招きした。
「全補給部隊の小隊長以上を、今すぐ第一天幕へ招集しろ。緊急査問会だ」
「はっ!」
伝令兵が泥を蹴って走り去る。
レオニスは私を見た。
「お前も来るんだ」
「私は民間人よ。軍の会議なんて出られない」
「証人だ。それに、こいつの声を翻訳できるのはお前だけだ」
彼は帳簿を私に押し付けた。
まだ温かい。紙とインク、そして焦げた革の匂いがした。
*
第一天幕には、すでに十数人の男たちが集まっていた。
彼らは中央の長机を囲み、不安そうに囁き合っている。
火事の直後だ。誰もが煤の匂いをさせており、レオニスが何を言うのか戦々恐々としている。
私たちが中に入ると、会話がピタリと止んだ。
レオニスは上座に歩み寄り、椅子には座らず、立ったまま全員を見渡した。
私は彼の斜め後ろ、影になる位置に立つ。
「管理棟が焼失した」
レオニスの第一声は静かだった。
「原因はヒーターの不具合ではない。人為的な放火だ」
将校たちがざわめく。
「放火? 誰がそんなことを」
「パルチザンの仕業ですか?」
「いや、内部の人間だ」
レオニスは机の上に、ドンと音を立てて帳簿を置いた。
焦げた黒い表紙が、ランプの光を吸い込む。
その瞬間、集まった男たちの中で、一人の太った男の肩が跳ねたのを私は見逃さなかった。
補給担当のガラン中尉だ。脂ぎった顔に、さらに汗を浮かべている。
「幸い、重要書類は搬出できた」
レオニスは帳簿に手を置き、言った。
「ここには、過去三ヶ月分の物資の出入りが記録されている。毒入り小麦粉の搬入ルートも、横流しされた物資の行方もな」
ガラン中尉がハンカチで額を拭う。
視線が泳いでいる。
「……レティ」
レオニスが私を呼んだ。
「読んでくれ」
私は一歩前に出た。
将校たちの視線が一斉に私に集まる。「誰だこの小娘は」という目だ。
私は気にせず、帳簿を開いた。
焦げ臭いページをめくる。
数字の羅列が並んでいる。私には簿記の知識はない。
だが、インクに触れた指先から、執筆者の「思考」が流れ込んでくる。
――うまく誤魔化せた。
――端数はネズミに食われたことにすればいい。
――この分は、北の闇市で金貨三十枚になる。
男の、粘着質な声だ。計算と保身と、歪んだ欲望の音。
「……三月五日」
私は読み上げた。
「小麦粉、三百袋を入荷。記録では『カビのため廃棄』となってるけど……声が違うわね」
私は顔を上げ、ガラン中尉を見た。
「『北の闇市へ横流し。金貨三十枚で売却完了』って書いてあるわ。あと、『妻にはボーナスが出たと嘘をつこう』とも」
ガラン中尉の顔色が、赤から白へ変わった。
「な、何を馬鹿な! そんなことは書いていない! ただの数字だぞ!」
「ええ、数字よ。でも、この数字を書いた時のあなたの『心の声』が、インクに残ってるの」
私はページをめくった。
「次いくわよ。三月十日。毛布五十枚。『水濡れにより焼却処分』。本当は? 『愛人のアパートへ送付』」
会場が静まり返った。
隣の席の将校が、ガラン中尉から距離を取るように椅子をずらす音が響く。
「で、でたらめだ! その女は魔女か何かか!」
ガラン中尉が立ち上がり、机を叩いた。
「証拠を出せ! そんなオカルトじみた言いがかりで、将校を侮辱する気か!」
レオニスが動いた。
彼は無言でガラン中尉の前に歩み寄り、胸ポケットから一枚の紙片を取り出した。
先ほどの火事場で見つけた、燃え残りのボロ布だ。オイルの臭いがする。
「お前の部下が、これをヒーターに突っ込むのを見たという証言がある」
レオニスは嘘をついた。目撃者などいない。
だが、今のガラン中尉には、それがハッタリかどうかを見極める冷静さはない。
「そ、それは……」
「さらに」
私は追い打ちをかけた。
帳簿の最後のページを開く。
「今日の記録。あなたが逃走資金を隠した場所も、ここに書いてあるわ」
耳を澄ます。
ガラン中尉の現在の思考ではなく、彼がこのページを閉じた瞬間の思考を拾う。
――金貨は床下だ。宿舎のベッドの下。三枚目の板が外れる。
「『宿舎のベッドの下。床板の三枚目が外れる』ですって」
私が告げると、ガラン中尉は膝から崩れ落ちた。
「あ……あぁ……」
その反応が、何よりの自白だった。
レオニスが憲兵を呼ぶ。
「連れて行け。宿舎の床下を改めろ。それから、この帳簿と照らし合わせて全在庫を棚卸しだ」
二人の屈強な憲兵に脇を抱えられ、ガラン中尉が引きずり出されていく。
彼は私を睨みつけたが、何も言えなかった。
自分の心が全部筒抜けだと知った人間は、沈黙するしかないのだ。
*
会議は解散となった。
他の将校たちは、私を恐れと敬意の入り混じった目で見ながら、足早に出て行った。
天幕には、私とレオニスだけが残る。
「お疲れ様」
私は帳簿を閉じた。
「これで一件落着?」
「ああ。膿は出した」
レオニスは椅子に座り、長く息を吐いた。
彼もまた、緊張していたのだ。
「お前の能力は、尋問にも使えるな」
「別料金よ。それに、生きている人間の嘘を暴くのは趣味じゃない。疲れるから」
私は首を回した。こりが酷い。
レオニスが机の引き出しを開け、何かを取り出した。
銀色の包み紙だ。
「……やる」
彼がそれを投げてよこした。
私は受け取る。
板チョコレートだった。軍用の、カカオ分が高いやつだ。
「いいの? 貴重品でしょ」
「糖分で回復すると言っていただろう。次の仕事までに直しておけ」
彼は素っ気なく言って、書類仕事に戻ろうとした。
私は包みを開け、ひとかけら口に入れた。
苦味と甘味が口いっぱいに広がる。
「……美味しい」
「そうか」
レオニスは顔を上げず、ペンを動かし始めた。
だが、その耳がわずかに赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
私は残りのチョコをポケットにしまい、椅子に深く座り直した。
この職場、待遇は悪くないかもしれない。
少なくとも、上司の気前はいいようだ。




