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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第68話 壁の向こうの母国語

 ペンライトの光が、コンクリートの壁を円形に切り取っていた。

 地下の空気は、地上よりも乾燥していて、喉に張り付くような埃っぽさがある。

 足元には錆びたレールが二本、闇の奥へと平行に伸びていた。枕木は腐り、踏むとグズリと崩れる感触がした。


 「……広いな」

 レオニスが光を左右に振る。

 トンネルの直径は、トラックがすれ違えるほどある。

 「ただの採掘坑道じゃない。物資搬入用のメインルートだ」


 「空気の流れも悪くない」

 グレイが杖で天井を指した。

 太いダクトが這っている。

 「換気システムが生きているのか、あるいはどこかに大きな抜け穴があるのか」


 私は二人の会話を聞き流し、壁に手を触れながら歩いた。

 指先の皮膚が、コンクリートの冷たさとザラつきを拾う。

 そして、その奥から響いてくる振動。


 カン、カン、カン。


 ツルハシが岩を砕く音ではない。

 もっと鈍い、肉体労働の疲労が滲み出たようなリズム。


 ――重い。

 ――休ませてくれ。

 ――水。水を。


 「……ねえ」

 私は足を止めずに言った。

 「ここ、鉱山夫が掘ったんじゃないわね」

 「なぜわかる」

 レオニスが振り返る。


 「音が違う。プロの職人の『仕事』の音じゃない」

 私は壁を爪で引っ掻いた。

 「嫌々やらされてる音。鎖の音と、鞭の音が混じってる。強制労働よ」


 グレイが片眉を上げた。

 「敗戦直前の旧王国軍だ。捕虜や政治犯を使ったとしても不思議ではない」

 彼は淡々と言った。

 「国家存亡の機に、人権などという言葉は辞書から消える」


 私たちはさらに奥へと進んだ。

 道は緩やかに下っている。

 左右に枝分かれする小さな横穴がいくつもあったが、レオニスは迷わず本線を選んだ。

 床に残る車輪の跡――重量物を運んだ痕跡――が、道標代わりになっていたからだ。


 やがて、トンネルの壁面が変わった。

 コンクリートの打ちっぱなしから、手掘りの岩盤が剥き出しになった区画へ。

 ここからは、急いで掘り進めた跡が見て取れる。


 耳鳴りが強くなった。

 頭蓋骨の内側を、無数の声が反響して回る。


 ――『Giaギア』。

 ――『Vorヴォル』。

 ――『Nakkaナッカ』。


 「……え?」

 私は立ち止まった。

 聞き覚えのない単語だ。

 いや、違う。

 脳は意味を理解していないのに、耳の奥にある古い記憶の層が、その響きに反応して震えている。


 「どうした、レティ」

 レオニスが光を私に向けた。

 眩しさに目を細める。


 「声が……言葉が変わった」

 私はこめかみを押さえた。

 「ここの国の言葉じゃない。もっと喉の奥を鳴らすような、重たい発音」


 私は聞こえた音をそのまま口にした。

 「『Gia……Vor……』」


 グレイの足が止まった。

 杖の先が、カツンと乾いた音を立てて床を打つ。

 彼はゆっくりと振り返り、隻眼で私を見据えた。


 「……今、何と言った?」

 「え? だから、『Gia(急げ)』と『Vor(隠せ)』……」


 ハッとした。

 私は今、無意識に翻訳した。

 辞書を引いたわけでもない。考えるよりも先に、その音が持つ意味が口をついて出たのだ。


 「……旧王国の公用語だ」

 グレイが静かに告げた。

 「それも、軍部で使われていた古い方言に近い。お嬢さん、どこでそれを習った?」


 「習ってないわよ」

 私は首を振った。

 「孤児院でも、路地裏でも、こんな言葉は使わなかった」

 でも、知っている。

 体が覚えている。

 幼い頃、子守唄のように聞いていたリズム。あるいは、誰かに叱られた時の響き。


 ――『Anaアナ』。

 ――『Stashaスターシャ』。


 壁の中から、またあの名前が聞こえた気がした。

 私は寒気を感じて、コートの前を合わせた。

 ここには、私の過去を知る何かが埋まっている。


 「……作業員たちは、旧王国の人間だったのね」

 私は誤魔化すように言った。

 「祖国のために、祖国の言葉で励まし合いながら、ここに何かを隠した」


 「そして、口封じに埋められたか」

 レオニスが壁に残る発破の痕跡を照らした。

 黒いすすがこびりついている。

 「壁の声は、まだ恨み事を言っているか?」


 「ええ。うるさいくらいに」

 私は耳を塞ぐふりをした。

 実際には、もっと聞きたかった。

 この声の主たちは、私の親を知っているかもしれない。私が何者なのか、その答えを持っているかもしれない。


 「先へ進もう」

 グレイが歩き出した。

 「過去の亡霊とのお喋りは、お茶の時間まで取っておくのだな。今は生きている敵のほうが厄介だ」


 そう言われて、私は現実に引き戻された。

 そうだ。ここには私たち以外にも客がいる。

 

 耳を澄ます。

 亡霊たちの呻き声の隙間に、もっと鋭利な、機械的な音が混じり始めていた。


 カチャリ。

 ジャリ。


 装備が擦れる音。

 軍靴が砂利を踏む音。

 それは、前方から聞こえてくるのではない。

 頭上。あるいは隣の坑道から。


 「……レオ」

 私は声を潜めた。

 「近くにいる。壁一枚向こう側」


 レオニスが即座にライトを消した。

 完全な闇が訪れる。

 私たちの呼吸音だけが残る。


 「数は」

 闇の中で、レオニスの声がした。

 「四人……いや、五人。足音が統率されてる。プロよ」

 「『蛇』の先遣隊か」


 壁の向こうから、微かに話し声が漏れてきた。

 言葉はわからない。だが、そのトーンは探索者のものではなく、狩人のものだった。


 ――位置を確認。

 ――目標地点まであと少し。

 ――ネズミが紛れ込んでいる可能性がある。見つけ次第排除せよ。


 「……バレてるわ」

 私は囁いた。

 「ネズミ駆除の時間だって」


 グレイが杖を引き抜いた。

 シャリ、という金属音が、闇の中で蛍のように鋭く響いた。

 「老骨に鞭打つことになりそうだな」


 レオニスが私の肩を押し、岩陰に誘導した。

 「隠れていろ。お前の役目は『耳』だ。『手』は俺たちがやる」


 壁の向こうで、爆破の準備をする音が聞こえた。

 ドリルの回転音。

 彼らはここを突き破って、ショートカットするつもりだ。


 私は岩の裏にうずくまり、冷たい地面に手を当てた。

 母国語の残響と、迫り来る敵の殺気。

 その二つが混ざり合い、私の鼓膜を激しく叩いていた。

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