第67話 塞がれた喉
山道は、泥と雪の混合物で舗装されていた。
足を上げるたびに、靴底が地面に吸い付くような湿った音がする。私は泥跳ねで茶色く変色したコートの裾を蹴り上げ、前を行く二人の男の背中を睨みつけた。
「……ねえ、紳士諸君」
私は息を切らせながら声をかけた。
「私の記憶が確かなら、今回の契約に『登山ガイド』は含まれていないはずよ」
先頭を歩くグレイが、立ち止まりもせずに肩越しに振り返る。
「運動不足だな、お嬢さん。新鮮な空気を吸えることに感謝したまえ」
「硫黄の臭いがする空気なんて要らないわ」
実際、辺りには腐った卵のような臭気が漂っていた。
ここは古くからある鉱山地帯だ。地下から噴き出すガスが、雪解け水と混ざり合って独特の悪臭を放っている。
レオニスが私の手を引き、大きな岩の段差を引き上げた。
彼の手袋は泥だらけだが、握力は安定している。
「もうすぐだ」
レオニスが前方を顎で示した。
「正規の搬入路が見えてくる。もっとも、歓迎のゲートが開いているとは思えんが」
木立が途切れ、視界が開けた。
そこは、山肌を大きく削り取った広場のような場所だった。
かつてはトロッコのレールが敷かれ、作業員たちが行き交っていた場所だろう。
だが今は、錆びた鉄の残骸と、朽ちた枕木が散乱しているだけだ。
そして、肝心の坑道入り口は消滅していた。
巨大な岩石と土砂が積み上がり、山の斜面と同化している。
「立ち入り禁止」と書かれた黄色い看板が、土砂に半分埋まって傾いていた。
「……派手に崩したな」
グレイが杖で岩を突いた。
カーン、と硬い音が響く。
「自然崩落ではない。発破で意図的に塞いだ跡だ」
「『蛇』の仕業か?」
レオニスが岩の隙間を覗き込む。
「いや、苔の生え具合からして古い。数年前……おそらく、終戦直後の仕事だ」
「隠した側が、誰も入れないように鍵をかけたわけか」
二人の男は岩壁の前で立ち尽くした。
物理的な壁だ。
スコップやツルハシでどうにかなる量ではない。ダイナマイトを使えば、山ごと崩れて私たちが埋まるだろう。
「さて、出番だ」
グレイが私を見た。
「風の音を聞けと言ったな。この岩の山に、針の穴ほどの隙間でもあれば、そこが入り口になる」
私はため息をつき、岩壁に近づいた。
手袋を外し、素手で岩肌に触れる。
冷たい。
石の表面は湿っており、ザラザラとした感触が指紋を削るようだ。
耳を澄ます。
風の音。鳥の声。遠くの川の音。
それらをフィルターにかけて消去する。
残るのは、地下から響いてくる重低音と、岩と岩の隙間を抜ける微細な気流の音。
――塞げ。
――光を入れるな。
――誰も出すな。
残留思念が聞こえる。
爆破作業を行った工兵たちの思考だ。焦燥感と、任務遂行への義務感が混じっている。
――右だ。
――通気口だけは残せ。中の空気が腐る。
――カモフラージュしろ。
「……右」
私は目を開け、岩壁の右側、枯れ木が密集している斜面を指差した。
「あそこの岩陰。風が吸い込まれてる」
「吸い込まれている?」
「ええ。地下の気圧が低いのかしら。空気が流れる音がするわ。ヒュー、ヒューって、笛みたいに」
レオニスが即座に動いた。
彼は斜面をよじ登り、枯れ木を鉈で払い除けた。
バキバキと枝が折れる音がする。
藪の奥に、岩肌にへばりつくような小さなコンクリートの構造物が現れた。
通気ダクトの排出口だ。鉄格子がはまっているが、人が一人通れるくらいのサイズはある。
「当たりだ」
レオニスが格子を掴んで揺すった。
錆びついているが、基部は脆くなっている。
「蹴れば開く」
「開ける前に確認して」
私は下から声をかけた。
「中から嫌な音がするわ。ただの廃坑じゃない」
レオニスは動きを止め、格子に耳を近づけた。
彼には何も聞こえないはずだ。
だが、ダクトの奥から吹き上げてくる風には、明らかに異質な臭いが混じっていた。
土とカビの臭いではない。
古い油と、鉄と、そして乾燥した何かの臭い。
「……機械油の臭いだ」
レオニスがグレイを見下ろした。
「あんたの姫様の情報は正しいらしい。ここはただの穴じゃない。施設だ」
グレイは満足げに髭を撫でた。
「ならば、礼儀正しく訪問するとしようか。玄関からではなく、煙突から入るサンタクロースのように」
レオニスが格子を蹴り飛ばした。
ガコン、という鈍い音がして、錆びた鉄枠が外れ、暗闇の中へと落ちていった。
落下音が響く。
かなり深い。
「ロープを使う」
レオニスが腰のポーチからザイルを取り出し、近くの太い木に結びつけた。
「俺が先に行く。安全を確認したら合図する」
彼は躊躇いなく、暗い穴の中へと体を滑り込ませた。
ザイルが張る音がきしむ。
やがて、底に着地したらしい微かな音が届き、ロープが緩んだ。
『来い』という合図だ。
「お先にどうぞ、レディ」
グレイが紳士的な仕草で穴を示した。
「年寄りは最後でいい。膝が痛むのでね」
「嘘ばっかり」
私は舌を出し、ロープを掴んだ。
穴の中は冷たかった。
そして、静かすぎた。
地上ではあんなにうるさかった風の音が、ここではピタリと止んでいる。
代わりに、壁の向こうから、もっと低い、唸るような振動が伝わってくる。
底に着くと、レオニスがペンライトで周囲を照らしていた。
光の円が、コンクリートの壁と、床に敷かれたレールを浮かび上がらせる。
岩盤を削っただけの坑道ではない。
壁は補強され、天井には電線が這っている。
「……基地ね」
私は呟いた。
「鉱山に見せかけた、軍事施設」
グレイが降りてきた。
彼は着地するなり、杖からカチリと音をさせた。仕込み刀のロックを外したのだ。
「空気はどうだ、お嬢さん。生臭くはないか?」
私は鼻をひくつかせた。
生臭くはない。むしろ、乾いている。
だが、音は濃厚だった。
この壁に染み付いた、過去の住人たちの残響。
――急げ。
――隠せ。
――敵が来る前に。
切迫した足音と、何か重いものを運ぶ台車の音が、幻聴のように響いている。
「先客はいないわ」
私は答えた。
「でも、昔の幽霊たちは大勢いるみたい。全員、何かを必死に守ろうとしてる」
「案内を頼む」
レオニスが銃を構え、歩き出した。
「幽霊の相手は後だ。まずは生きた『蛇』と鉢合わせしないルートを探せ」
私たちは闇の奥へと進んだ。
ペンライトの光が、壁に書かれた古いスローガンを照らし出した。
『祖国のために』。
その文字は塗装が剥げ、まるで血のように赤錆びていた。




