第66話 恩赦の重み
テーブルの上に残された封筒は、部屋の空気を吸い込んで重くなっているように見えた。
封じ目に垂らされた赤い蝋が、乾いた血の塊のようで目障りだ。
レオは暖炉の前で腕を組み、その封筒を睨みつけている。彼が腰に差した銃を抜けば、紙ごと背後の壁に穴を開けそうな殺気が漂っていた。
「……燃やせ」
レオが短く吐き捨てた。
「中を見る必要はない。関われば泥沼だ」
「泥沼はもう歩き慣れてるわ」
私は椅子に座り、封筒を引き寄せた。
紙の質がいい。厚手で、表面が滑らかだ。この辺りの雑貨屋で売っている再生紙とは格が違う。
「『蛇』が絡んでるなら、無視して済む話じゃないわ」
私はペーパーナイフ代わりに、テーブルにあったスプーンの柄を差し込んだ。
「あいつらは執念深い。私たちがここにいると知れば、また刺客を送ってくる。今度はフライパンじゃ防げないのが来るかもね」
レオは舌打ちをし、暖炉に新しい薪を放り込んだ。
火の粉が舞い上がる。
「だからこそ、ここを離れるべきかもしれん。もっと北へ、人が住まない場所へ」
「嫌よ。雪洞暮らしは御免だわ」
私は封を切った。
中から出てきたのは、一枚の地図と、便箋が数枚。
地図には、この街の北側に広がる山脈が描かれ、ある地点に赤い印がつけられている。
廃鉱山だ。
「……見て、レオ」
私は便箋を広げた。
流麗な筆記体。セレナ姫の字だろう。
『私の財産を、泥棒猫たちから守ってちょうだい。番犬としての腕を見込んでいるわ』
「人を犬扱いとはな」
レオが私の手元を覗き込み、鼻を鳴らした。
「財産とは何だ。金塊か?」
「詳しくは書いてない。ただ、『旧王国軍が敗走時に隠匿した物資』とだけあるわ」
私は地図を指でなぞった。
「もしこれが武器や爆薬なら、『蛇』が欲しがるのも分かる。あいつら、この街を火薬庫にするつもりよ」
「……街が燃えれば、俺たちの商売もあがったりだな」
レオは上着を掴み、乱暴に羽織った。
「行くぞ」
「どこへ?」
「あの古狸のところだ。条件次第では、話くらいは聞いてやる」
*
黒い馬車は、街外れの古い教会堂の前に停まっていた。
御者は姿を消しており、馬だけが鼻息を荒くして寒さに耐えている。
私たちは馬車のドアをノックもせずに開けた。
中には、グレイが座っていた。
彼はステッキを膝に置き、目を閉じていたが、ドアが開いた瞬間に片目を開けた。
その瞳には、最初から私たちが来ると分かっていたような色が浮かんでいる。
「早かったな」
グレイは口元の髭を撫でた。
「懸命な判断だ。逃げ回るには、この国は狭すぎる」
レオは馬車には乗り込まず、ドア枠に手をかけて仁王立ちした。
「誤解するな。依頼を受けるとは言っていない」
「ほう?」
「俺たちが動くのは、この街の平和を守るためだ。あんたの主君の財布を守るためじゃない」
グレイは喉の奥で笑った。
「違いはないさ。目的が重なれば、それは共闘と呼べる」
彼は座席の横にあった革鞄を叩いた。
「ここには活動資金が入っている。武器、弾薬、食料。必要なものはすべて揃う額だ」
レオは鞄を見もしなかった。
「金で動く傭兵だと思われているなら心外だな」
「では何が望みだ。名誉か? それとも愛国心か?」
「……平穏だ」
レオが低い声で言った。
「俺たちが望むのは、誰にも邪魔されない生活だ。追手も、陰謀も、貴族の戯れ言もない日常だ」
「それは高くつく」
グレイは真顔になった。
「特に、国家反逆罪の指名手配犯にとってはな」
私はレオの脇から顔を出した。
ここからは私の出番だ。
「だから、取引をしましょ」
私はポケットから、さっきの便箋を取り出した。
「この仕事、成功させたら報酬を弾んで」
「金はそこに……」
「金じゃないわ」
私はグレイの目を真っ直ぐに見た。
「恩赦よ」
グレイの眉がピクリと動いた。
「あんたの主君、セレナ姫は、南の国と太いパイプがあるんでしょう? 亡命を受け入れられるくらいには」
私は続けた。
「だったら、裏から手を回せるはずよ。私たちの手配書を取り下げるように」
「……大きく出たな」
グレイは杖の柄を握りしめた。
「一国の司法制度に干渉しろと言うのか。姫様といえど、そこまでの権限は……」
「あるはずよ」
私はハッタリをかました。
「だって、私たちが探す『遺産』は、それだけの価値があるものでしょう? 『蛇』が血眼になって探すくらいなんだから」
沈黙が落ちた。
馬の蹄が雪を掻く音だけが響く。
グレイは私をじっと見つめ、それからレオを見た。
値踏みをしている。
私たちの能力と、この取引のリスクを天秤にかけている。
やがて、彼はふっと息を吐き、肩の力を抜いた。
「……いいだろう」
彼は頷いた。
「姫様に伝えよう。遺産の確保と引き換えに、貴殿らの身分保証を」
「書面で頂戴ね」
私は念を押した。
「口約束は信用しない主義なの」
「疑り深い子供だ」
グレイは苦笑し、懐から新しい封筒を取り出した。
中には、既に署名入りの書類が入っていた。
『恩赦嘆願書』の草案だ。日付と名前以外は埋まっている。
「準備がいいこと」
私は書類をひったくった。
「最初からこれを切るつもりだったのね」
「交渉とは手札の切り合いだ。先に要求した方が負ける」
グレイは杖を突き、馬車を降りた。
雪の上に立つと、彼は背筋を伸ばし、レオに向き直った。
「契約は成立だ。だが、時間は少ない」
彼は北の空を指差した。
「『蛇』の部隊が、既に山に入っているという情報がある。先を越されれば、街は火の海だ」
レオは頷き、自身のコートの襟を正した。
「遅れは取らん。案内しろ」
「案内役は私ではない」
グレイは私を見た。
「その娘の耳だ。坑道の入り口は崩落して埋まっている。風の音を聞き分けられる者でなければ、侵入経路は見つけられん」
私はため息をついた。
また、暗くて狭い場所へ潜る羽目になる。
「追加料金、請求していい?」
「成功すれば、好きなだけ飴を買ってやろう」
レオが私の頭を軽く叩いた。
私たちは馬車には乗らず、徒歩で北へ向かうことにした。
目立つ馬車は囮だ。
本隊は、地を這うように進む。それが私たちのやり方だった。




