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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第65話 片目の紳士

 窓の外では、雪解け水が軒先から絶え間なく滴り落ちていた。

 地面の雪はもう白くない。泥と混ざり合い、茶色い沼のような様相を呈している。

 通りを行く荷馬車が、車輪を泥に取られて立ち往生し、御者が鞭を振るう乾いた音が響く。春の訪れは、花や鳥の歌声ではなく、こうした生活の泥臭さと共にやってくるらしい。


 「……珍しい客ね」

 私は窓枠に頬杖をつき、通りを見下ろした。

 「市場のトラックでも、ギルドの人間でもない。あんな立派な馬車、この街には似合わないわ」


 一台の黒塗りの馬車が、泥を跳ね上げながらゆっくりと近づいてきていた。

 装飾は控えめだが、塗装の艶が違う。窓には厚いカーテンが引かれ、中の様子は窺えない。

 御者台に座っている男も、ボロボロの毛皮ではなく、きちんとした制服を着ている。まるで葬儀屋のようだ。


 背後で、レオが咳払いをした。

 「集金人か?」

 彼はテーブルで銃の手入れをしていた。分解された部品が布の上に並んでいる。

 「ツケは溜まってないはずだ。肉屋への支払いは昨日済ませた」

 「借金取りにしては上品すぎるわ。銀行の貸し剥がしか、あるいは……」


 馬車がアパートの前で止まった。

 ギシッ、とサスペンションが軋む音が、二階の窓まで届く。

 御者が降りてきて、恭しく客席のドアを開けた。


 降りてきたのは、一人の老人だった。

 背筋が定規のように伸びている。

 仕立ての良いフロックコートを着込み、片手には黒檀こくたんの杖。そして、右目には黒い眼帯がかけられていた。

 老人は泥だらけの地面をいとう様子もなく踏みしめ、あご髭を撫でながらアパートを見上げた。

 その視線が、私と合った気がした。


 「……レオ」

 私は窓から離れた。

 「銃を組み立てて。ただの迷子じゃなさそう」


 レオの手が動いた。

 カチャ、カチャ、と部品が噛み合う音が連続する。数秒もしないうちに、鉄塊は本来の形を取り戻した。

 彼はスライドを引き、弾薬が入っていないことを確認してから、それを腰の後ろに隠した。


 階段を登る足音が聞こえる。

 カツ、コツ。

 革靴の音と、杖が木の床を突く硬質な音。

 リズムが一定だ。迷いも、息切れもしない。


 ノックの音がした。

 乱暴ではない。礼儀正しく、しかし拒絶を許さない重みのある音。


 「どうぞ。鍵は開いている」

 レオが低い声で応じた。


 ドアが開く。

 廊下の冷気と共に、老紳士が入ってきた。

 彼は帽子を取り、胸に当てて一礼した。その所作は洗練されすぎていて、このすすけた部屋にはあまりに不釣り合いだった。


 「……ご機嫌よう、レオニス殿」

 老人の声は、よく響くバリトンだった。

 「随分と風通しの良い城にお住まいだ」


 レオの表情が、見る見るうちに硬化した。

 警戒心ではない。

 もっと複雑な、苦い薬を飲み込んだような顔だ。


 「……グレイか」

 レオが短く名を呼んだ。

 「何の用だ。ここは隠居老人の来る場所じゃない」


 「隠居老人とは手厳しい」

 グレイと呼ばれた男は、勝手に部屋の中へ進み、一番状態の良い椅子を選んで腰掛けた。

 「貴殿こそ、随分とやつれたようだ。髭も剃り残しがある。かつての『氷の将軍』が聞いて呆れるな」


 私は部屋の隅、暖炉の横に立って様子を窺っていた。

 耳を澄ます。

 老人の心臓の音。

 遅い。あまりに落ち着いている。

 そして、彼が持っている杖。

 ただの歩行補助具ではない。中が空洞だ。


 ――斬れる。

 ――いつでも抜ける。

 ――喉元まで一歩。


 杖の中から、鋭利な金属の共鳴音が聞こえる。

 仕込み杖だ。それも、何十年も血を吸ってきた業物わざもの


 「……物騒な杖ね、おじいさん」

 私が口を挟むと、グレイの隻眼が私に向いた。

 鋭い。

 獲物を値踏みする猛禽類の目だ。


 「ほう。この子が噂の『耳』か」

 彼は興味深そうに私を見た。

 「名はレティと言ったかな。我が主君が、随分と世話になったそうだが」


 「主君?」

 「ある亡命者だ。貴殿らが、王都の橋と、この北の地で助けた女性だよ」


 セレナだ。

 あの生意気な亡命姫。

 この老人は、彼女の使いらしい。


 「礼なら受け取ったはずだ」

 レオが私の前に立ち、視線を遮った。

 「手切れ金代わりの情報と、影武者の少女。貸し借りはなしだ」


 「姫様はそうは思っておられない」

 グレイは懐から封筒を取り出し、テーブルに置いた。

 封蝋ふうろうには、何も押されていない。ただの赤い塊だ。

 「新たな依頼だ。あるいは、過去の清算と言ってもいい」


 「断る」

 レオは即答した。

 「俺たちはただの便利屋だ。国家間の陰謀や、王家の遺産争いに関わるつもりはない」

 「中身も聞かずに?」

 「聞けば巻き込まれる。帰ってくれ」


 レオはドアを指差した。

 拒絶の意思表示だ。


 グレイは動じなかった。

 彼は杖の柄を指で軽く叩いた。

 コン、コン。

 乾いた音が響く。


 「……『北の廃鉱山』」

 彼が呟いた。

 「この街から馬車で半日。閉鎖されて久しいその山の地下に、何が埋まっているかご存知かな?」


 「ただの石炭と鉄くずだ」

 「表向きはな。だが、姫様の記憶には別の記録がある。旧王国軍が敗戦直前、そこに何かを隠したとな」


 私の耳がピクリと反応した。

 廃鉱山。

 先日、密輸団のアジトがあった場所の近くか。

 あの時、私は地下から聞こえる微かな怨嗟の声を聞いた気がする。ただの風音だと思って無視したが。


 「それを掘り起こせと言うのか?」

 レオが眉をひそめる。

 「トレジャーハンターなら他を当たれ」


 「我々だけならそうするさ。だが、他にも狙っている連中がいる」

 グレイの声が低くなった。

 「『蛇』だ。貴殿らが追い払った密輸団の背後にいる連中だよ。彼らもまた、その遺産を嗅ぎつけている」


 蛇。

 その単語が出た瞬間、部屋の空気が変わった。

 レオの肩から力が抜け、代わりに殺気が滲み出る。


 「……奴らがそれを手に入れたら、どうなる」

 「さあな。だが、姫様はこう仰っていた。『あれが掘り起こされれば、この街は地図から消える』と」


 グレイは立ち上がった。

 「我々には、ここでの手足がない。地理に明るく、腕が立ち、そして『見えないもの』を見つけられる協力者が必要だ」

 彼は私を見た。

 「どうだね、お嬢さん。退屈な店番よりは、刺激的な仕事だと思うが」


 私はテーブルの上の封筒を見た。

 厚みはない。金は入っていないようだ。

 だが、ここには確実に、私たちの平穏を脅かす火種が入っている。


 「……タダ働きはお断りよ」

 私はレオの横から顔を出した。

 「この街を守る義理はあるけど、あんたたちの姫様のために命を張る義理はないわ」


 「報酬は?」

 「王都での指名手配の解除。それと、当面の活動資金。金貨で欲しいわね」


 グレイは片方の目で私を見つめ、やがてニヤリと笑った。

 「強欲な子供だ。だが、嫌いではない」

 彼は杖を突き、歩き出した。

 「交渉しよう。ただし、成果を見てからだ」


 彼はドアの前で立ち止まり、レオに背中を向けたまま言った。

 「腕は鈍っていないだろうな、レオニス。昔のように、私の剣を受け止められるか?」


 「……試してみるか」

 レオが低い声で返すと、グレイは短く笑い、部屋を出て行った。

 廊下に響く足音が遠ざかる。


 部屋に残されたのは、私たちと、テーブルの上の封筒だけ。

 外の雨音は、いつの間にか止んでいた。

 代わりに、遠くの山の方角から、低い風鳴りが聞こえてくるような気がした。

 それは、地下深くで眠っていた何かが、目覚めの時を待って身じろぎする音に似ていた。

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