第64話 高熱の将軍
咳の音は、重たく湿っていた。
普段の彼の声――命令を下す時の硬質な響き――とは違う。肺の奥から無理やり押し出されたような、苦しげな振動音だ。
私は枕元に座り、濡らしたタオルを絞った。
水滴がたらいに落ちる音が、静かな部屋に波紋を広げる。
「……水」
毛布の山から、掠れた声が漏れた。
レオはうつ伏せに倒れ込んでいた。
昨日の屋根修理が祟ったのか、あるいは季節の変わり目が彼の鉄の体に錆をもたらしたのか。今朝から彼は熱を発し、起き上がることさえできずにいる。
「はい、水」
私は彼の首の下に腕を差し入れ、少し持ち上げた。
熱い。
衣服越しでもわかるほどの高熱だ。
コップを口元に当てる。彼は動物のように貪欲に水を飲み、すぐにまた枕に沈んだ。
「……不覚だ」
彼が熱い息を吐きながら呟く。
「敵の襲撃なら対処できるが、ウイルス如きに後れを取るとは」
「ウイルスの方がタチが悪いのよ。銃で撃っても死なないし、関節技も効かないもの」
私は彼の額に乗せていたタオルを交換した。
熱を吸って生ぬるくなっている。
新しいタオルを乗せると、彼は小さく唸り、眉間の皺を深くした。
彼はそのまま、浅い眠りに落ちたようだった。
だが、安眠ではない。
眼球が瞼の下で激しく動いている。
夢を見ているのだ。
耳を澄ます。
彼の唇から漏れる、途切れ途切れのうわ言。
その裏にある、脳内で再生されている記憶の音を聞く。
――下がれ。
――そこは射線が通る。
――置いていけ。
戦場の音だ。
砲撃の轟音。泥を蹴る足音。そして、誰かの最期の叫び。
それらが、彼の高熱の脳内でリピート再生されている。
「……すまん」
レオが漏らした。
「俺の判断ミスだ。俺が、お前たちを……」
謝罪の言葉。
普段の彼なら絶対に口にしない弱音。
夢の中の彼は、将軍ではなく、ただの無力な指揮官として、失った部下たちの亡霊と向き合っているらしい。
「……辛気臭い夢ね」
私はため息をつき、立ち上がった。
これ以上聞いていられない。
悪夢を追い払うには、物理的な刺激が必要だ。
流し台へ向かう。
棚から小瓶を取り出した。
琥珀色の液体。ボリスから差し入れられた安物のブランデーだ。
それと、昨日の買い出しで手に入れたレモン。そして、飴の代わりに常備してある蜂蜜の瓶。
「リサ直伝の特効薬を作るわよ」
私は独り言を言いながら、レモンを半分に切った。
果汁を絞る。
酸っぱい香りが広がり、淀んだ部屋の空気を切り裂く。
小鍋に湯を沸かし、ブランデーを垂らす。
アルコールの揮発する匂い。
そこに蜂蜜をたっぷりと落とす。スプーンでかき混ぜると、黄金色の渦ができた。
最後にレモン果汁を加える。
マグカップに注ぐ。
湯気が顔にかかる。
甘く、酸っぱく、そして酒の匂いがする。
風邪薬というよりは、気付け薬に近い。
私はカップを持って枕元に戻った。
「レオ。起きて」
彼の肩を揺する。
反応が鈍い。
「飲まないと、鼻をつまんで流し込むわよ」
レオが重そうに瞼を開けた。
焦点が合っていない。
「……なんだ。毒か」
「特効薬よ。全部飲めば、悪夢も消える」
私は彼の上半身を起こし、背中に枕を挟んで支えた。
カップを渡す。
彼の手が震えていて、中身がこぼれそうだ。
仕方なく、私が手を添えて口まで運ぶ。
彼は一口啜り、顔をしかめた。
「……酸っぱい」
「ビタミンよ。我慢して」
「甘すぎる」
「エネルギーよ。文句言わない」
彼はしぶしぶといった様子で、時間をかけて飲み干した。
アルコールが回ったのか、蒼白だった頬に少し赤みが差す。
彼は大きく息を吐き、再びベッドに沈み込んだ。
「……効くな」
「でしょ。酔っ払って寝るのが一番なのよ」
私は空になったカップを床に置いた。
窓の外では、また雪が降り始めていた。
部屋の中は静かだ。
暖炉の火が爆ぜる音と、レオの荒い呼吸音だけが聞こえる。
立ち去ろうとした時だった。
手首を掴まれた。
「……っ」
強い力だ。
病人とは思えない握力。
驚いて振り返ると、レオが目を見開いて私を見ていた。
いや、私を見ているのではない。
熱に浮かされた瞳は、私の背後にある「何か」――おそらく、彼を置いていった過去の誰か――を見ている。
「行くな」
彼が言った。
命令口調ではない。懇願に近い響き。
「ここにいろ。視界から消えるな」
私の手首に、彼の熱い掌の温度が食い込む。
彼は怖がっているのだ。
自分が眠っている間に、また誰かがいなくなることを。
私は逃げようとしていた足を止めた。
そして、ベッドの縁に座り直した。
「……どこにも行かないわよ」
私は空いている方の手で、彼の手の甲を覆った。
「家賃分は働くって言ったでしょ。看病も契約のうちよ」
レオの目が、ゆっくりと私に焦点を合わせた。
「……レティか」
「そうよ。幽霊じゃないわ。足もあるし、体温もある」
彼の力が緩んだ。
だが、手は離さなかった。
彼は私の手を握ったまま、安心したように目を閉じた。
「……そうか」
彼の呼吸が、次第に規則正しい寝息へと変わっていく。
今度は、うなされていない。
眉間の皺も消えている。
私は捕まったままの手を見つめた。
大きな手だ。
傷だらけで、節くれ立っていて、人を殺し、人を守ってきた手。
今はただ、熱くて無防備な肉の塊にすぎない。
「……早く治しなさいよ、野獣さん」
私は小声で悪態をついた。
「あんたが寝てると、暖炉の薪を割る人がいなくて困るんだから」
外の風の音が強くなったが、部屋の中は暖かかった。
蜂蜜とレモンの香りが、まだ鼻先に残っている。
私は彼が完全に熟睡して手を離してくれるまで、そこを動かなかった。




