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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第63話 泥だらけの洗濯物

 バケツの水面に、茶色い波紋が広がっていた。

 雪解け水は冷たい。ゴム手袋をしていても、指先の感覚が麻痺してくる。

 私は洗濯板に軍用コートの裾を押し付け、固形石鹸を塗りたくった。

 泡が立つよりも先に、泥水が滴り落ちる。


 「……頑固ね」

 私は腰を伸ばし、裏庭のぬかるみを見下ろした。

 冬の間、街を覆っていた白い絨毯は、今や茶色い泥沼に変わっていた。

 歩くだけで泥が跳ね、裾を汚す。

 この季節、洗濯物は増える一方だ。


 「代われ」

 背後から手が伸びてきた。

 レオだ。彼は袖を肩まで捲り上げ、やる気満々の腕を露出させている。

 「お前の力では日が暮れる。物理的な汚れには物理的な力をぶつけるのが効率的だ」


 「はいはい。じゃあお願いするわ」

 私は場所を譲り、濡れた手を拭いた。

 「生地を傷めないようにね。替えのコートを買う予算はないから」


 「任せろ。敵の首を折るよりは繊細に扱う」

 レオは洗濯板の前に仁王立ちし、私のコートを鷲掴みにした。

 石鹸をこすりつける。

 そして、上下に動かし始めた。


 ゴシッ、ゴシッ、ゴシッ。


 音が重い。

 布と木の板が擦れる音というより、木材を削る音に近い。

 泡が飛び散り、泥水がバケツから溢れ出す。


 「ちょっと、力強いってば」

 「汚れの根元から断つ」

 レオはさらに加速した。

 ゴシッ、ゴシッ、バキッ。


 乾いた破砕音が響いた。


 レオの動きが止まる。

 彼の手の中には、真っ二つに割れた洗濯板の残骸が握られていた。

 ささくれた断面が、白い木肌を晒している。


 「……」

 レオは折れた板を見つめ、それから私を見た。

 「老朽化だ」

 「新品よ。先週買ったばかりの」


 私はため息をつき、バケツの水を捨てた。

 「弁償ね。それと、罰として追加業務を命じるわ」

 「なんだ」

 「屋根。雨漏りしてるのよ。雪解け水がポタポタうるさいから、直して」


 *


 屋根の上は、地上よりも暖かかった。

 陽光がレンガの煙突を温め、そこから上昇気流が生まれている。

 私は乾いた部分を選んで毛布を敷き、その上に寝転がっていた。

 眼下には、泥に沈んだ街並みと、キラキラと光る運河が見える。


 カーン、カーン。

 

 リズミカルな音が響く。

 少し離れた場所で、レオが金槌を振るっていた。

 彼は口に釘をくわえ、剥がれかけた屋根材を打ち直している。

 その手つきは、洗濯の時とは違って繊細だった。


 「……器用ね」

 私は空を見上げながら言った。

 「破壊活動専門かと思ってたけど」

 「陣地の設営も任務のうちだ」

 レオは釘を打ち込み、指で確認した。

 「雨風を凌げない拠点は、兵の士気を下げる」


 「兵じゃなくて店員よ」

 私はあくびをした。

 「それにしても、平和な音」

 金槌の音。

 遠くで鳴る教会の鐘。

 雪解け水が雨樋あまどいを流れる、チョロチョロという水音。


 耳を澄ます。

 冬の間、街を支配していた「寒さへの恐怖」や「飢えへの不安」といったノイズが薄れている。

 代わりに聞こえてくるのは、もっと緩んだ、春を待つ気配。


 ――雪が溶けた。

 ――長靴を洗わなきゃ。

 ――猫が恋をしてる。


 「……猫か」

 私は屋根の端を見た。

 野良猫が一匹、日向ぼっこをしている。

 私と目が合うと、面倒くさそうに一つ鳴いて、また目を閉じた。


 「終わったぞ」

 レオが金槌を腰に差し、こちらへ歩いてきた。

 足音が屋根を揺らす。

 「シリコンで隙間も埋めた。当分は漏れんはずだ」


 「ご苦労様。洗濯板の件はチャラにしてあげる」

 私は場所を空けた。

 「座る? ここは特等席よ」


 レオは躊躇ためらったが、泥だらけのズボンを気にするのは今更だと判断したのか、私の隣に腰を下ろした。

 屋根の上を渡る風が、彼の髪を揺らす。

 その風には、もう冬の刺すような冷たさはなかった。

 湿った土と、どこかで芽吹き始めた植物の匂いが混じっている。


 「……春だな」

 レオがポツリと言った。

 「ああ。長い冬だった」

 「王都を出てから、まだ数ヶ月しか経っていないのが不思議だ」


 彼は自分の手を見た。

 ペンだこも、銃のグリップの跡も薄れ、代わりに生活の傷――カミソリ負けや、日曜大工の擦り傷――が増えている。


 「戻りたい?」

 意地悪な質問をしてみる。

 「将軍様の椅子に」


 レオは鼻で笑った。

 「あの椅子は腰が痛くなる。今の煎餅布団の方がマシだ」

 「そう。じゃあ、これからもよろしくね、雑用係さん」


 私は目を閉じた。

 太陽が瞼の裏を赤く染める。

 レオの体温が隣にある。

 死者の声もしない。追手の気配もない。

 完璧な午後だ。


 「……んっ」

 鼻がむず痒くなった。

 我慢できない。


 「くしゅん!」


 盛大なクシャミが出た。

 レオが驚いて私を見る。

 「風邪か? まだ寒いなら降りるぞ」

 「違うわよ」


 私は鼻を啜った。

 「花粉よ。春と一緒に、余計なものまで飛んできたみたい」


 レオは呆れたように首を振り、ポケットからハンカチを取り出して私に渡した。

 それは洗濯したばかりで、少しゴワゴワしていたが、石鹸のいい匂いがした。

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