第62話 影武者の告白と替刃の値段
マグカップから立ち上る湯気が、少女の顔を白く隠していた。
彼女は両手でカップを包み込み、恐る恐る中身を啜っている。
口の端に、黄色いスープの跡がついた。
聖女としての威厳も、神秘的なベールも、今はどこにもない。そこには、ただの腹を空かせた子供がいるだけだ。
「……美味いか」
レオが暖炉に薪をくべながら聞いた。
少女は小さく頷いた。
「はい。……温かいです」
声は掠れていた。薬で焼かれた喉は、まだ完全には癒えていないらしい。
私は向かいの椅子に座り、彼女を観察した。
金髪は煤で汚れ、ドレスの裾は破れている。
だが、その顔立ちは整っていた。
どこか、鏡を見ているような既視感がある。
「名前は?」
私が聞くと、彼女は首を横に振った。
「ありません。施設では『七番』と呼ばれていました」
「施設?」
「北の山奥にある、石造りの建物です。そこで私たちは育てられました」
彼女はカップを膝の上に置き、遠くを見るような目をした。
「礼儀作法、ダンス、歴史、それから……『ある人物』の真似をする訓練を受けました」
「誰の真似?」
「亡国のお姫様です」
彼女は淡々と言った。
「アナスタシア王女。もし生きていれば、私と同じくらいの年齢だと言われました」
私はポケットの中で、指先を丸めた。
やはり、そういうことか。
『蛇』は王女を探しているだけではない。見つからなかった時のために、代用品を用意していたのだ。
この子は、私のスペアだ。
「……似てるって言われた?」
「はい。髪の色を染めて、目の色を変える薬を飲めば、瓜二つになると」
彼女は自分の髪を触った。
「でも、計画が変わったそうです。王女として即位させるよりも、聖女として民衆を煽動するほうが金になると、上の人が言っていました」
「賢明な判断ね」
私は皮肉っぽく笑った。
「お姫様なんて、ドレスが重いだけで儲からないもの」
レオが火掻き棒を置いた。
「お前はどうしたい。教団は壊滅した。施設に戻るか」
「嫌です」
少女は即答した。カップを持つ手が震える。
「あそこには戻りたくない。注射も、暗い部屋も、もうたくさんです」
「なら、遠くへ行け」
レオは懐から封筒を取り出し、テーブルに置いた。
ボリスから巻き上げた、今回の「騒動解決費」の一部だ。
「南の国境を越えれば、教団の手も及ばない。ミレイ商会の定期便に席を用意させた」
少女は封筒を見つめ、それから私を見た。
彼女の目が、私の顔の輪郭をなぞる。
ハッとした色が浮かんだ。
「……貴女」
彼女が呟く。
「貴女の顔、肖像画の……」
「よくある顔よ」
私は彼女の言葉を遮った。
「下町に行けば、私に似た子なんて十人はいるわ。栄養失調で目が大きくて、不機嫌そうな顔をした子供なんてね」
少女は口を閉じた。
彼女は何かを悟ったようだったが、それを言葉にはしなかった。
賢い子だ。
生き残るためには、何を見て見ぬふりをするべきかを知っている。
「……ありがとうございます」
彼女は封筒を手に取り、深々と頭を下げた。
「このご恩は、一生忘れません」
「忘れなさい」
私は立ち上がり、彼女のカップを取り上げた。
「ここでのことは全部忘れて、新しい名前で生きるのよ。七番なんて番号じゃなくて、もっと可愛い名前でね」
*
翌朝、市場の裏手には大型の荷馬車が停まっていた。
荷台には毛皮や干し肉が積まれ、その隙間に人が隠れられるスペースが作られている。
ボリスが御者台で手綱を握り、不機嫌そうにパイプを吹かしていた。
「……ったく、なんで俺が子守りまでしなきゃならねえんだ」
ボリスがボヤく。
「荷物が一つ増えるだけで、馬の燃費が悪くなる」
「文句を言うな。追加料金は払ったはずだ」
レオが荷台の幌をめくった。
少女がちょこんと座っている。厚手の毛布にくるまり、手には干し肉を握りしめていた。
「出発するぞ」
ボリスが合図する。
少女が私たちに向かって手を振った。
笑顔だった。
聖女の時の、作り物の微笑みではない。年相応の、少し不安で、でも希望を含んだ笑み。
「元気でね」
私が声をかけると、彼女は口パクで何かを言った。
『さようなら、お姉ちゃん』
荷馬車が動き出す。
車輪が雪を踏みしめ、重い音を立てて遠ざかっていく。
私たちはそれが見えなくなるまで、白い息を吐きながら見送っていた。
「……姉妹に見えたか?」
レオがポツリと聞いた。
「まさか。私の方が美人よ」
私は襟を立て、寒さから首をすくめた。
「さ、帰ろ。店番しなきゃ」
*
『レオ&レティ商会』の看板は、今日も冷たい風に吹かれて揺れていた。
部屋に戻ると、一仕事終えた後の倦怠感が漂っていた。
平和だ。
教団は去り、ゴロツキは大人しくなり、密輸ルートも潰れた。
この街には、退屈な日常だけが残った。
レオはコートを脱ぎ、流し台の前で顔を洗った。
そして、鏡を見ながら顎を撫でる。
数日剃っていなかった髭が、またうっすらと伸びていた。
「……買い出しに行ってくる」
彼がタオルで顔を拭きながら言った。
「カミソリの刃が切れなくなった。研いでもダメだ」
「いってらっしゃい。ついでに牛乳もお願い」
彼が出て行ってから数十分後。
ドアが開く音がした。
レオが戻ってくる。手には小さな紙袋が一つだけ。
彼の顔は、密輸団のアジトに突入する時よりも険しかった。
「どうしたの? 牛乳は?」
「買えん」
彼は紙袋をテーブルに投げ出した。
中から、カミソリの替え刃の箱が滑り出てくる。
「見てみろ、この値段を」
彼はレシートを指差した。
「先週より二割も上がっている。鉄の価格が高騰しているそうだ」
「……へえ」
私はレシートを覗き込んだ。確かに高い。スープ二杯分だ。
「教団が鉄製品を買い占めて持ち去ったせいだ」
レオは椅子にドカッと座り込んだ。
「あいつら、最後の最後まで迷惑をかけていきやがる」
「髭、伸ばせば?」
「嫌だ。肌が荒れる」
彼は不機嫌そうに、新しい刃をホルダーにセットし始めた。
カチリ、という小さな音が、静かな部屋に響く。
私は窓の外を見た。
雪が降り始めている。
平和な午後だ。
命の危険も、国家の陰謀もない。
あるのは、値上がりした日用品への不満と、今夜の夕食を何にするかという悩みだけ。
「……ねえ、レオ」
「なんだ」
「飴、なくなったわ」
私は空になった缶を振った。
レオは作業の手を止め、ポケットを探った。
取り出したのは、小さな紙包み。
彼はそれを私の方へ放った。
「釣り銭で買った。レモン味だ」
私は包みを開け、黄色い粒を口に放り込んだ。
酸っぱい。
でも、その奥に確かな甘さがある。
「悪くないわ」
私は椅子に深く座り直し、足を組んだ。
「この街での暮らしも、案外悪くない」
レオは答えず、ジョリ、ジョリと髭を剃る音だけを返した。
ストーブの上で、薬缶がシュンシュンと湯気を上げている。
私たちの逃亡生活は、こうして静かに、日常の中へと溶けていった。




